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時代の混沌

深海の孤影

作者: 双鶴

第一章 孤立


昭和十八年六月十七日、北太平洋某海域。

我が艦は第六艦隊の哨戒任務に従事していたが、午前〇時三十五分、突如として無線機が沈黙した。通信士が慌てて報告に駆け込んできたとき、私はすぐに異常を察した。彼の顔は青ざめ、声は震えていた。原因は真空管の破損と推定されたが、予備部品は既に消耗し尽くしており、修復の見込みはなかった。アンテナの損傷も疑われたが、潜航中の艦では確認の術もない。艦隊との連絡は途絶し、我々は孤立した。


艦内の空気は重く、油と汗の匂いが混じり合っていた。湿度は高く、計器のガラスには曇りが生じ、兵たちの制服は肌に張り付いていた。狭い艦内での生活は常に不快であったが、この日の不快さは格別だった。通信が途絶したという事実が、乗組員全員の心に影を落としていたからだ。


士官室では航海長が「無線が戻らぬ以上、独断で行動するしかありません」と低く告げた。彼の声は冷静を装っていたが、瞳の奥には不安が宿っていた。私は頷きながらも、胸の奥に冷たいものを感じていた。孤立した潜水艦は、海の底でただ一隻の影に過ぎない。その影が敵に見つかれば、爆雷の雨に晒されるのは必定であった。


午後に入り、ソナー員が異常を報告した。

「方位一二〇度、距離三千。反響あり。繰り返します、反響あり。」

艦内に緊張が走った。敵艦か、味方艦か、それとも誤反応か。判断を誤れば、我が艦は孤立したまま敵艦隊に突入することになる。


私は記録簿に震える手で書きつけた。

『無線途絶。ソナー反応確認。艦内緊張極度。』


その瞬間、艦内の空気はさらに重くなった。若い士官が「撃つべきです」と声を上げた。彼の目は恐怖よりも闘志に燃えていた。だが古参兵は「生き残ることが任務だ」と低く諭した。艦内の意見は割れ、沈黙が支配した。


私は艦長として、ただ一人で決断を下さねばならなかった。

その孤独は、海よりも深く、暗かった。


---


第二章 反響


ソナー室の灯りは薄暗く、計器の針がわずかに震えていた。耳を澄ませる兵の顔は汗に濡れ、緊張で硬直していた。

「方位一二〇度、距離二千五百。反響強度増大。」

若いソナー員の声は震えていたが、報告は正確だった。艦内に緊張が走る。航海長が私に目を向ける。

「艦長、敵艦の可能性が高いと存じます。」


私は黙って計器を見つめた。反響は確かに規則的で、艦船のスクリュー音を思わせた。だが、味方艦の可能性も捨てきれない。無線が故障している以上、確認の術はない。撃てば敵を沈められるかもしれない。だが、もし味方であれば、我が艦は取り返しのつかぬ罪を背負うことになる。


「潜航深度を一〇〇に下げろ。」

私は命じた。艦は静かに沈み、海の闇に身を隠した。艦内の空気はさらに重くなり、誰もが息を潜めた。

機関士が低く呟いた。「この深度なら音響的影に入ります。」

私は頷いた。敵艦のソナーに捕捉されぬよう、海流と水温の層を利用するしかなかった。


ソナー員が再び報告する。

「方位一一五度、距離二千。反響、なお増大。」

その声に艦内の緊張がさらに高まった。若い士官が口を開いた。

「艦長、魚雷発射管は既に装填済みです。撃つべきです。」

彼の声には焦燥が混じっていた。だが古参兵は首を振った。

「敵かどうかも分からぬうちに撃つのは愚かだ。生き残ることが任務だ。」


艦内の意見は割れ、沈黙が支配した。私は艦長として、ただ一人で決断を下さねばならなかった。

その孤独は、海よりも深く、暗かった。


---


第三章 艦内の人間模様


士官室では、若い士官たちが低声で議論を交わしていた。

「敵艦なら、今が好機だ。撃つべきだ。」

「だが、味方艦の可能性もある。無線が途絶している以上、確認できない。」

「撃たなければ、逆に我々が発見されるかもしれない。」


彼らの声は抑えられていたが、緊張と焦燥が滲んでいた。若い士官の目は闘志に燃えていた。彼らは戦果を挙げることこそ任務だと信じていた。だが古参兵は沈黙を守り、ただ低く呟いた。

「生き残ることが任務だ。戦果よりも、帰還が大事だ。」


その言葉は重く艦内に響いた。古参兵の顔には疲労と諦念が刻まれていた。彼らは既に幾度も爆雷の雨を経験し、仲間を失ってきた。戦果の栄光よりも、生き残ることの重みを知っていた。


私は艦長として、その議論を黙って聞いていた。艦長室の狭い机に座り、記録簿を開いた。震える手で書きつける。

『乗員意見分裂。若き士官は戦果を望み、古参兵は生存を望む。艦長、判断を迫られる。』


艦内の空気は重く、湿度は高く、汗と油の匂いが充満していた。兵たちの顔には緊張と不安が刻まれていた。誰もが沈黙を守り、ただソナーの反響音に耳を澄ませていた。


---


第四章 決断


「魚雷発射管、第一、第二、準備。」

兵の手が震えながらも迅速に動いた。艦内の空気はさらに重くなり、誰もが息を潜めた。

「目標、方位一一〇度、距離一〇〇〇。発射準備完了。」

その声が艦内に響いた。


私は深く息を吸い、静かに告げた。

「第一、第二、発射。」


圧縮空気の音が艦内に広がり、魚雷は海中へと走った。

その瞬間、艦内は沈黙に包まれた。乗員たちは息を止め、秒針の音がやけに大きく響いた。時間が止まったかのように感じられた。


私は艦長室の机に置かれた記録簿を見つめながら、心の中で自問した。

「この決断は正しかったのか。撃つべきではなかったのか。」

だが答えは出なかった。戦争の中で、正しい決断など存在しない。あるのは、生き残るための決断だけだ。


若い士官は拳を握りしめ、古参兵は静かに目を閉じていた。艦内の人間模様は、戦争の縮図であった。若き者は栄光を望み、古き者は生存を望む。だが、艦長はその狭間で孤独に立ち、決断を下さねばならなかった。


---


第五章 戦闘の帰結


数秒が永遠のように感じられた。ソナー員が耳を澄ませ、報告を待つ艦内は沈黙に包まれていた。

「方位一一〇度、距離八〇〇……反響変化なし。」

その声に艦内の緊張がさらに高まった。魚雷はまだ目標に到達していない。乗員たちは息を止め、ただ時を待った。


やがて、ソナー員が叫んだ。

「爆発音確認!方位一一〇度、距離七五〇!」


艦内に歓声が広がった。若い士官が拳を握り、古参兵も静かに頷いた。魚雷は目標に命中した。敵艦を撃沈したのだ。


だが、私の胸には冷たいものが残っていた。無線が故障している以上、目標が本当に敵艦であったかは確認できない。もし味方艦であったなら、我が艦は取り返しのつかぬ罪を背負うことになる。艦長として、その責任は私一人にのしかかる。


艦内の歓声は次第に静まり、乗員たちは再び沈黙を守った。ソナー員が報告する。

「反響消失。目標、沈黙。」

その言葉は艦内に重く響いた。敵艦は沈んだ。だが、それが本当に敵艦であったかは分からない。


私は記録簿に書きつけた。

『魚雷発射。爆発音確認。目標沈黙。艦内歓声。艦長、責任の重みを感じる。』


その夜、艦内は静まり返っていた。乗員たちは疲労と緊張に包まれ、誰もが沈黙を守った。若い士官は戦果に満足していたが、古参兵は静かに目を閉じていた。彼らは戦果の栄光よりも、生き残ることの重みを知っていた。


私は艦長室で一人、記録簿を開いた。震える手で書きつける。

『艦長、孤独に立つ。戦果の栄光よりも、責任の重みを感じる。』


---


第六章 戦後の回想


戦争が終わり、幾十年の歳月が流れた。私は老い、髪は白くなり、かつての艦長としての面影は薄れた。だが、あの北太平洋の海域で下した決断は、今もなお私の胸に重く残っている。


魚雷を発射し、爆発音を確認し、目標が沈黙したあの瞬間。艦内は歓声に包まれた。若い士官は戦果に満足し、古参兵は静かに頷いた。だが、艦長である私は、その歓声の中でただ一人、冷たい孤独を感じていた。


戦後、私は幾度も記録を読み返した。『魚雷発射。爆発音確認。目標沈黙。艦内歓声。艦長、責任の重みを感じる。』その一文は、私の心に深く刻まれている。戦果の栄光よりも、責任の重みが私を苛んだ。


戦友たちは戦果を誇り、帰還を喜んだ。だが、私はその喜びの中でただ一人、沈黙を守った。戦果の栄光は一時のものだ。だが、責任の重みは生涯を通じて私を支配した。


私は幾度も自問した。あの決断は正しかったのか。撃つべきではなかったのか。沈黙を守るべきだったのか。だが、答えは出なかった。戦争の中で、正しい決断など存在しない。あるのは、生き残るための決断だけだ。


戦後の講演で、私は若い士官候補生たちに語った。

「戦争とは、栄光ではない。責任だ。艦長とは、孤独に立ち、決断を下す者だ。その決断は、海よりも深く、暗い責任を伴う。」

彼らは静かに耳を傾けた。だが、その言葉の重みを本当に理解するのは、実際に艦長として孤独に立った者だけだろう。


私は今もなお、あの決断を忘れない。魚雷発射の命令を下した瞬間、艦内の空気は凍りつき、乗員たちは息を潜めた。爆発音を確認し、目標が沈黙したあの瞬間、艦内は歓声に包まれた。だが、艦長である私は、その歓声の中でただ一人、冷たい孤独を感じていた。


幾十年の歳月が流れた今もなお、私はその孤独を抱えている。戦果の栄光は消え去った。だが、責任の重みは消えない。私は記録簿を開き、震える手で書きつける。

『艦長、孤独に立つ。戦果の栄光よりも、責任の重みを感じる。』


その一文は、私の生涯を象徴している。戦争とは、栄光ではない。責任だ。艦長とは、孤独に立ち、決断を下す者だ。その決断は、海よりも深く、暗い責任を伴う。


私は今もなお、自問し続けている。あの決断は正しかったのか。だが、答えは出ない。戦争の中で、正しい決断など存在しない。あるのは、生き残るための決断だけだ。


そして私は静かに目を閉じる。あの北太平洋の海域で下した決断は、今もなお私の胸に重く残っている。

その孤独は、海よりも深く、暗かった。


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