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第8話 フィア3

 工房の中は、これまで以上の静寂と、心地よい緊張感に包まれていた。


 リアムは作業台に乗り出すようにして、フィアのオルゴールと向き合っている。その額には汗が浮かび、緑色の瞳は、目の前の小さな世界だけに集中していた。


 ドワーフの頑鉄から譲り受けた最高品質の『夜光苔』は、桐の箱の中で静かに清らかな光を放っている。問題は、このデリケートな素材から魔力を抽出し、エルフ族特有の極細の魔力回路へと、いかにして定着させるかだ。一つ間違えれば、苔の魔力は霧のように霧散し、二度と元には戻らない。


 リアムは、自身が持つ技術と知識のすべてを、その指先に集めた。ピンセットでつまんだ夜光苔のかけらを、特殊なオイルに浸す。オイルの中でゆっくりと溶け出した魔力の粒子を、先端に魔力を帯びせたガラスの細管で、一粒たりとも逃さぬように吸い上げていく。そして、それを、髪の毛ほどの細さしかない回路へと、一滴、また一滴と、慎重に流し込んでいった。


 ナギは、工房の隅で息を殺してその様子を見守っていた。


 いつもはおしゃべりな彼も、今のリアムに話しかけることが、どれほど無粋なことか分かっていた。ただ、友人として、彼の成功を信じて祈るだけだ。ナギの丸い耳は、リアムの指先の微かな動きに合わせるように、ぴく、ぴくと動いている。


 長い、長い時間が過ぎていく。


 窓から差し込む光が西日へと変わり、工房の中をオレンジ色に染め始めた頃。カチリ、と最後の部品がはまる、小さな音が響いた。リアムはゆっくりと顔を上げ、額の汗を手の甲で拭った。


「……終わった」


 その声は、かすかに震えていた。


「本当か、リアム!」


 ナギが駆け寄ってくる。リアムは無言で頷くと、完成したオルゴールをゆっくりと両手で持ち上げた。外見は、預かった時と何も変わらない、古びた木製の小箱だ。だが、その内部には、新しい命が吹き込まれているはずだった。


 リアムは、ごくりと唾を飲み込んだ。どれだけ完璧な作業ができたと思っていても、実際に動かしてみるまでは分からない。彼は、緊張した面持ちで、そっとオルゴールの蓋を開けた。


 ――その瞬間、工房の中に、柔らかな光があふれ出した。

 それは、まるで夜空から星屑をすくい取って、箱の中に閉じ込めたかのような、無数の優しい光の粒だった。きらきらと瞬きながら、ゆっくりと舞い上がる光。


 そして、光のまたたきに合わせるように、澄み切った、それでいてどこか懐かしいメロディが、静かに流れ始めた。


「うわあ……!」


 ナギが、子供のような声を上げた。彼の喉が「キュルルッ」と嬉しそうに鳴り、尻尾が床をぱた、ぱたと打ち始める。


 リアムもまた、その幻想的な光景から目を離すことができなかった。自らの手で、失われたはずの輝きを、思い出を、再びこの世界に呼び戻すことができたのだ。安堵と、確かな達成感が、彼の心を温かく満たしていく。彼は、自分でも気づかないうちに、かすかに笑みを浮かべていた。


「あとは、フィアに渡すだけだな」


 ナギの言葉に、リアムはこくりと頷いた。その時だった。工房の扉が、控えめに、しかしはっきりと叩かれた。


 扉を開けると、そこに立っていたのは、案の定、フィアだった。だが、一人ではない。その小さな手は、隣に立つ、背の高いエルフの女性に、しっかりと握られていた。フィアの母親だった。


 彼女は、娘と同じ苔色の髪を長く伸ばし、穏やかで理知的な光を宿す瞳をしていた。リアムたちを見ると、彼女は驚くほど優雅な仕草で、ゆっくりと頭を下げた。


「あなたが、この工房の主人のリアムさんですね。娘が、大変お世話になっております」


 その声は、森の泉のように涼やかで、落ち着いていた。


「この子が、いつも枕元で聴いているオルゴールの音が、昨日の夜から聞こえなくて……。心配になって尋ねましたら、すべて打ち明けてくれましたの。壊してしまったこと、そして、あなたの工房にお願いに上がったことを」


 母親の言葉に、フィアは申し訳なさそうに、母親の後ろに隠れるようにしてもじもじしている。


「ちょうど、今、修理が終わったところです」


 リアムはそう言うと、作業台の上にあったオルゴールを手に取り、フィアの前にそっと差し出した。フィアは、母親の顔を一度見上げてから、おずおずとそれを受け取る。そして、祈るような気持ちで、ゆっくりと蓋を開けた。


 あふれ出す、星屑の光と優しいメロディ。


「……あっ!」


 フィアの顔が、驚きと、純粋な喜びにぱっと輝いた。その大きな瞳から、今度は嬉し涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。彼女はオルゴールを胸に抱きしめると、リアムに向かって、満面の笑みで何度も何度も頭を下げた。


「ありがとう……!ありがとう、ございます……!」


 その姿を見て、母親も安堵したように、柔らかな笑みを浮かべた。


「まあ……本当に、元通りに……。いいえ、以前よりも、光が優しくなったようですわ。素晴らしい腕前ですね」


 彼女はリアムに心からの賛辞を贈ると、懐から小さな革袋を取り出した。


「こちら、修理のお代です。決して十分な額ではないかもしれませんが、私たちの感謝の気持ちです」


「……代金は、いい」


 リアムは、思わずそう言って手を横に振った。だが、母親は穏やかに首を横に振る。


「いいえ、お受け取りください。これは、この子にとっても、私にとっても、かけがえのない宝物なのです。あなたの素晴らしい技術と、この子の想いに応えてくださったその真摯な心に対する、私たちの敬意です」


 その真っ直ぐな言葉に、リアムは何も言えなくなった。彼は黙って、その革袋を受け取った。ずしりとした重み。それはただの硬貨の重さではなかった。人の想いに応えることの、確かな重みだった。


 フィアと母親は、何度も礼を言いながら、工房を後にしていく。去り際に、フィアが振り返り、はにかみながら小さく手を振った。リアムも、ぎこちなく、ほんの少しだけ手を上げて応えた。


「よかったなあ、リアム」


 隣で、ナギが自分のことのように嬉しそうに言った。


「……ああ」


 リアムは、手の中の革袋を握りしめた。王都では、彼の仕事の対価は、常に名誉や、さらなる期待、そして嫉妬だった。だが、今、この手の中にあるものは違う。そこには、一つの家族の、温かい感謝の気持ちが詰まっている。


 後悔ではない。自分の技術が、誰かを笑顔にできるという、確かな手応え。リアムは、窓の外に広がるリバーフェルの穏やかな夕暮れの空を見上げた。


 ここでなら、きっとやっていける。失われた光を灯し、壊れた想いを繋ぎながら、静かに、だが確かに。


 彼の新しい評判が、この一件をきっかけに、リバーフェルの街にさらに温かく広まっていくことを、リアムはまだ知らなかった。

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