第5話 春告魚
春の朝の空気は、まだ少しだけひんやりとしていた。工房の窓を開けると、夜の間に湿り気を含んだ土の匂いと、芽吹いたばかりの若葉の匂いが混じり合って流れ込んでくる。森の木々の間からは、何種類もの鳥の鳴き声が聞こえてきた。
リアムは淹れたてのハーブティーを一口飲むと、作業台に向かい、中断していた依頼品の設計図を広げた。今日は一日、この細かい作業に集中することになるだろう。彼がいつもの日常を始めようとした、その時だった。
「リアームッ! すげえのが獲れたぞーっ!」
静寂を破り、工房の扉がバタンと大きな音を立てて開いた。息を切らして飛び込んできたのは、もちろんナギだった。その手には大きなカゴがあり、中には銀色に輝く、まるまると太った魚が数匹、ぴちぴちと跳ねている。
「見ろよ!『春告魚』だ! 今年は少し早いかなって思ってたけど、ついに川に上ってきたんだ!」
ナギはカゴをリアムの目の前に突き出し、興奮で目をきらきらさせている。その背後では、彼の喜びを隠しきれない尻尾が、ぶんぶんと左右に大きく揺れていた。
春告魚。それは、このリバーフェル地方で、長い冬の終わりと本格的な春の訪れを告げる魚として知られている。一年のうち、ほんの短い期間しか獲ることのできない、特別な魚だ。脂が乗っていて、塩焼きにして食べると絶品なのだと、以前ナギが熱っぽく語っていたのをリアムは覚えていた。
「よかったな」
リアムは短く答えると、再び設計図に視線を落とした。
「よかったな、じゃねえよ!」
ナギはむっとしたように頬を膨らませた。
「こんな最高の日に、工房にこもってるなんてもったいない!なあ、リアム! こいつを、最高の場所で一緒に食おうぜ!」
「ここで焼けばいいだろう。火もある」
「だーめ! ダメなんだよ、こういうのは雰囲気が大事なんだから! なあ、いいだろ? 行こうぜ!」
ナギはリアムの腕を掴むと、子供のようにぶんぶんと揺さぶった。彼の黒い瞳は、純粋な期待で満ちている。リアムは、この真っ直ぐな視線に弱いことを、自分でもよく分かっていた。
リアムは、誰にも聞こえないくらい小さなため息をついた。
「分かった。少しだけだぞ」
その言葉を聞いた瞬間、ナギの顔がぱあっと明るくなった。
「よっしゃあ! じゃあ決まりだな! 火の道具とか、パンとか、うまい茶葉とか、そういうのはお前が持ってきてくれよな! 俺、最高の場所を知ってるから、先に魚の下ごしらえして待ってるぜ!」
ナギは一方的に役割分担を決めると、カゴを抱え直し、来た時と同じくらいの勢いで工房を飛び出していった。残されたリアムは、広げられたままの設計図と、賑やかな友人の残していった熱気を見比べて、もう一度、今度は少しだけ諦めの混じったため息をついた。
リアムは渋々と、それでもどこか文句を言うだけでは終わらない自分を感じながら、外出の準備を始めた。
棚から、持ち運び可能な小型の魔導コンロを取り出す。これは彼が王都から持ってきた私物の一つで、小さな魔石のかけらを入れるだけで、安定した火力を得られる便利な道具だ。それから、先日エルナさんにもらったパンを数個、布に包む。あとは水筒と、ナギの好きな、少しだけ花の香りがするハーブティーの茶葉を小さな缶に詰めた。それらを無骨な革カバンに手際よく収めていく。
工房の外に出ると、ナギが裏手の川辺で、すっかり魚の下処理を終えていた。カワウソの獣人である彼は、水辺での作業が本当によく似合う。楽しそうに鼻歌を歌いながら、魚のはらわたを取り、一本の太い木の枝に手際よく串刺しにしていた。
「お、準備できたか! さすがだな、リアムは仕事が早いぜ!」
ナギはリアムに気づくと、濡れた手で太陽のように笑った。二人は工房を後にし、川に沿って続く細い獣道を上流に向かって歩き始めた。
道端には、白や黄色の小さな花が一面に咲いている。ナギはそれらを見つけるたびに、「あ、見てみろよリアム! ポポル花だ! こいつの蜜、甘いんだぜ」「こっちのキラキラ光る石、じっちゃんが好きだったんだ」と、一つ一つに足を止めてはしゃいでいた。リアムは黙ってその隣を歩き、時々「そうか」「ああ」と短い相槌を打つだけだったが、彼の緑色の瞳は、ナギが指差すものを穏やかに捉えていた。
春の森は、生命の力に満ちていた。芽吹いたばかりの若葉は日に透けて鮮やかな緑色に輝き、風が吹くたびに心地よい葉擦れの音がする。王都では決して感じることのできなかった、穏やかで力強い空気が、リアムの身体を包み込んでいた。
「もうすぐだぜ」
三十分ほど歩いただろうか。ナギが前方を指差して言った。道の先、小高い丘の上に、一本の大きな木が立っているのが見えた。その木は、まるで雪が積もったかのように、無数の白い花を咲かせていた。
そこは、ナギの言った通り、最高の場所だった。丘の上からは、蛇行しながら流れていくリバーフェルの川と、その向こうに広がる森が一望できた。そして頭上には、満開の白い花が空を覆うように広がっている。
「どうだ、すげえだろ! ここ、俺のお気に入りの場所なんだ」
ナギは得意げに胸を張った。リアムは何も言わなかったが、その見事な景色に、静かに息をのんだ。二人は手分けして食事の準備を始める。リアムが地面の安定した場所に魔導コンロを設置し、魔石をセットして火を起こしている間に、ナギは串刺しの魚に岩塩を振りかけていた。
やがて、コンロの網の上で、じゅうじゅうと魚の焼ける音がし始めた。香ばしい匂いが立ち上り、ナギがごくりと喉を鳴らす。リアムも、思わず腹が鳴りそうになるのをこらえた。
魚がこんがりと焼きあがる。ナギは待ちきれないとばかりに一番大きな一匹を掴むと、熱がるのも構わずに、大きな口でかぶりついた。
「んーーっ! うまいっ! 最高だ!」
ナギは全身でその美味しさを表現した。あまりの感動に、地面についていた尻尾が、喜びのあまりぱたん、ぱたんと大きく揺れている。
リアムも、ナギから手渡された一匹を、少しだけ躊躇しながら口に運んだ。
パリッと焼けた皮の香ばしさ。そして、ふっくらとした白身からは、上質な脂がじゅわっとあふれ出す。塩だけのシンプルな味付けが、魚本来の旨味を最大限に引き立てていた。
「……うまいな」
ぽつりと漏れた言葉に、ナギは自分のことのように嬉しそうな顔をした。
「だろ! この魚が獲れると、リバーフェルの長い冬が終わったって、みんな思うんだ。じっちゃんもさ、毎年この魚を食うのを、すげえ楽しみにしてたんだぜ」
ナギは遠くを見るような目で、懐かしそうに語った。
食事が終わる頃には、空はすっかり高く、澄み渡っていた。リアムがハーブティーを淹れると、ナギは「気が利くなあ」と言って、それをうまそうに飲み干した。
満腹になったナギは、やがて木の根元に寝転がると、すぐにすーすーと気持ちよさそうな寝息を立て始めた。その無防備な姿は、まるで野生の動物そのものだった。
リアムは、自分のカップに残ったハーブティーをゆっくりと飲みながら、目の前に広がる春の風景と、隣で眠る友人の姿を静かに眺めていた。
頭上では、白い花びらが風に舞って、きらきらと光っている。川のせせらぎ、鳥の声、そしてナギの穏やかな寝息。
リアムは空になったカップを置くと、ナギの隣に、少しだけ距離をとって腰を下ろした。そして、彼もまた、ゆっくりと目を閉じる。
暖かな日差しが、まぶたの裏をオレンジ色に染めていた。
(……たまには、悪くない)
その小さな呟きは、誰の耳に届くこともなく、リバーフェルの春の風に優しく溶けていった。




