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第3話 午後の光

 春の午後の日差しは、まるで蜂蜜を溶かしたようにとろりと甘く、工房の窓から穏やかに差し込んでいた。特別な依頼もなく、壁掛け時計の秒針の音だけがやけに大きく聞こえる。そんな静かな時間は、リアムにとって決して退屈なものではなく、むしろ心安らぐ貴重なひとときだった。


 彼は今、作業台の上にずらりと並べた愛用の工具の手入れをしていた。王都から持ってきた、彼の腕の一部とも言える特別な道具たちだ。


 繊細な魔力回路を探るための探針、魔石を削り出すための極小のノミ、そして様々な大きさのドライバーやピンセット。それらを一本一本、丁寧に磨き上げ、魔力を帯びたオイルを染み込ませた布で拭いていく。それは、彼が自分自身と向き合うための、静かで神聖な儀式にも似ていた。


 工房の隅、床に直接座り込んでいるナギも、同じように自分の仕事道具のメンテナンスをしていた。ただし、リアムのそれとはだいぶ趣が違う。彼が格闘しているのは、破れた箇所を繕っている最中の大きな漁網だ。獣人ならではの器用な指先で網目を一つ一つ結び直していくその姿は、なかなかに様になっている。


「なあ、リアム」


 沈黙を破ったのは、ナギの方だった。


「お前が使ってるその、先っぽがくるくる巻いてるやつ、なんだ?さっきからずっと、そればっかり磨いてるじゃねえか」


 リアムは視線を落としたまま、手の中の道具に目をやる。それは、先端が螺旋状になった、細く長い金属棒だった。


「……魔力探査用のプローブだ」


「まりょくたんさ……?」


「魔道具の内部にある魔力回路の、どこで魔力の流れが滞っているかを探るためのものだ。先端の螺旋部分に微弱な魔力を通して、回路の異常を検知する」


「へえ……」


 ナギは感心したように声を漏らすと、網を繕う手を休めてリアムの手元を覗き込んだ。リアムがプローブを磨き上げる、寸分の無駄もない流麗な手つきを、大きな黒い瞳でじっと見つめている。


「よく分かんねえけど、すげえってことだけは分かるぜ。そんなもん、そこらの鍛冶屋じゃ見たこともねえ」


「……王宮の特注品だからな」


 そう呟くリアムの声に、ほんの少しだけ影が差したのを、ナギは聞き逃さなかった。



「王宮ってのは、そんなにすごい道具ばっかりなのか?」


 ナギは、あえて明るい声で尋ねた。リアムが過去の話をあまりしたがらないことは知っている。けれど、彼がどんな世界で生きてきたのか、少しだけ知りたいとも思っていた。


 リアムは手を止め、窓の外に広がる森の緑に目を向けた。


「……ああ。そこでは、常に最高品質の素材と、最新の技術が求められた。国中のどこを探しても手に入らないような希少な魔石や金属が、湯水のように使われていたな」


「へえー!じゃあ、お前もそんなすげえもんで、何かとんでもねえもん作ったのか?」


「…………」


 リアムは答えなかった。彼が最後に王宮で手掛けたものの末路を思い出し、胸の奥がちくりと痛む。彼の沈黙に、ナギは「おっと、いけねえ」とばかりに、慌てて話題を変えた。


「ま、まあ、でもよぉ!俺はこのリバーフェルの、お前の工房にある道具も好きだぜ!」


 ナギはそう言うと、立ち上がって工房の壁にかけられた工具の一つを指差した。それは、リアムがここに来てから、あり合わせの材料で作った手製のヤスリだった。


「特にそいつ!俺のじっちゃんのルアーを直してくれた時も、あれで優しく削ってただろ?なんか、お前みたいだよな。ぶっきらぼうだけど、すげえ優しい感じがさ」


 思いがけない言葉に、リアムは少しだけ目を見開いた。自分の作った道具を、そんな風に見てくれる人間など、今までいただろうか。王都では、誰もが道具の性能や価値ばかりを口にした。


「……ただのヤスリだ」


 リアムは照れ隠しにそう吐き捨てて、再び工具の手入れに戻る。だが、その耳がほんのりと赤くなっているのを、ナギは見逃さなかった。



 しばらくの間、工房には再び静かな時間が流れた。リアムがオイルの染みた布で工具を拭く音と、ナギが網糸を結ぶ音だけが、心地よいリズムを刻む。

 やがて、網の修繕を終えたらしいナギが、ふう、と満足げな息をついた。


「よし、完璧だ!これでまた大漁間違いなしだな!」


 彼は完成した網を丁寧に畳むと、リアムの隣にごそごそと移動してきて、再び床にどっかりと腰を下ろした。そして、おもむろにポケットから何かを取り出す。それは、川で拾ったのであろう、つるつるに磨かれた平たい石だった。ナギはそれを、まるで手癖のように、片手でくるくると弄び始めた。


「なあ、リアム」


「……なんだ」


「お前が、この街に来てくれて、本当によかったぜ」


 突然の、あまりにも真っ直ぐな言葉に、リアムの手がぴたりと止まる。


「俺、もしあん時、お前がいなかったら、もう漁師を辞めてたかもしれねえ。じっちゃんの竿がなきゃ、俺は川に立つ資格がねえって、本気で思ってたからな」


 ナギは手の中の石を見つめながら、静かに語る。


「でも、お前は直してくれた。ただ直すだけじゃなくて、前よりもっとすげえ、優しい光を灯してくれた。だから、俺は今もこうして漁師をやってられるんだ」


 リアムは何も言えなかった。ただ、胸の奥からじんわりと温かいものが込み上げてくるのを感じていた。王都で失くしてしまった、確かな手応え。自分の技術が、誰かの人生に、ささやかでも確かな光を灯すことができるという実感。それを思い出させてくれたのは、紛れもなく目の前にいるこの友人だった。


「お前が何で王都を出てきたのか、俺は知らねえし、無理に聞こうとも思わねえ。でもな」


 ナギは顔を上げると、にっと笑った。その笑顔は、春の太陽のように眩しかった。


「俺は、お前の作るもんが、お前のその手が、大好きだぜ」


 その言葉を聞いた瞬間、ナギの背後で、彼の感情に正直な尻尾が、ぱたん、ぱたんと、嬉しそうに床を叩き始めた。そのリズミカルな音に、リアムは思わず、ふっと息を漏らすように笑った。それは、彼がこのリバーフェルに来てから、初めて見せた心からの笑顔だったかもしれない。


「……そうか」


 短く、それだけを返すのが精一杯だった。


 午後の光が、そんな二人を優しく包み込んでいる。特別なことは何も起こらない、穏やかな午後。だが、リアムにとって、それは何物にも代えがたい、宝物のような時間だった。

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