第2話 最初の約束
窓の外で、川面がきらきらと輝いている。春の柔らかな日差しが、芽吹き始めた木々の緑を鮮やかに照らし出していた。
リアムは工具を置くと、ふと窓辺に立ち、その穏やかな風景を眺めた。視線の先、川岸の少し開けた場所で、軽やかな人影が漁網を投げるのが見える。この距離からでも分かる、快活な友人、ナギの姿だ。
(ナギと出会ってから、もうすぐ一年か……)
今では当たり前のように工房に入り浸り、やかましく笑い声を響かせる彼だが、最初からそうだったわけではない。このリバーフェルに来た当初、リアムは誰とも関わるつもりなどなかったのだから。
思い出すのは、王都アステルを包む、絶え間ない喧騒と鉛色の空。
リアムは、王宮に仕える最年少の魔道具技師として、将来を嘱望されていた。彼の作り出す魔道具は、他の誰のものよりも繊細で、魔石の力を最大限に引き出すと評価された。貴族たちの依頼に応え、豪華な装飾品や複雑な自動人形を設計する日々。それは名誉なことであったし、仕事そのものは嫌いではなかった。
だが、彼の周りには常に嫉妬や派閥争いが渦巻き、純粋に技術だけを追求することは許されなかった。
決定的な出来事は、恩師でもある技師長に、ある計画を打ち明けられたことだった。
リアムが心血を注いで設計した「高効率魔力増幅器」。それは、小さな魔石からでも大きな力を引き出し、人々の生活を豊かにするための発明だった。しかし、技師長はそれを軍事転用する計画を立てていたのだ。
「これがあれば、我が国の魔導兵器は飛躍的に進化する。これも国を守るためだ」
誇らしげに語る師の言葉は、リアムの耳には届かなかった。人を、生活を豊かにするための技術が、人を傷つけ、殺すために使われる。その事実に、彼の世界は音を立てて崩れ落ちた。
激しい口論の末、リアムは師と決別した。同僚も1人だけは話を聞き、落ち着かせようとしたが、リアムが落ち着くことはなかった。その夜、彼は自らの研究資料の大部分を暖炉に投げ込み、最低限の個人用の工具と、わずかな金だけを持って王宮を飛び出した。降りしきる冷たい雨の中、彼はただ、誰にも自分を見つけられない場所へ行きたかった。
地図を広げ、王都から最も遠い場所の一つであった、東の辺境の街「リバーフェル」の名を指でなぞった。それが、彼の逃避行の目的地となった。
リバーフェルでの最初の日々は、無気力な沈黙に満ちていた。
リアムは街外れの、森の入り口に打ち捨てられていた古い山小屋を借り受け、黙々と工房へと改装していった。街の住民たちは、突然現れた無愛想な若者を遠巻きに眺めるだけで、誰も積極的に関わろうとはしなかったし、リアムもそれを望んでいた。
彼の心は、王都で負った傷によって、厚い氷に覆われていた。もう二度と、誰かの強い欲望や期待が込められたものは作りたくない。自分の技術が、再び誰かを傷つけるかもしれないという恐怖に苛まれていた。食事は乾いたパンと水だけ。夜は悪夢にうなされ、昼間はただ、無心に作業に没頭することで現実から目を背けていた。
このまま、誰にも知られず、森の木々のように静かに朽ちていければいい。本気でそう思っていた。そんな日々が数ヶ月続いたある日、リバーフェルを記録的な嵐が襲った。
風が唸りを上げて工房を揺さぶり、窓ガラスに激しい雨が叩きつける。リアムはランプの灯りの下で、膝を抱えてその音を聞いていた。荒れ狂う嵐の音が、まるで自分の心の内のようだと思った。
夜が明け、嘘のように嵐が過ぎ去った朝。工房の扉が、壊れるほど激しく叩かれた。
「誰か!誰かいないのか!?」
リアムは訝しみながら扉を開ける。そこに立っていたのは、頭からつま先までずぶ濡れになった、一人の獣人の青年だった。焦げ茶色の髪は額に張り付き、大きな黒い瞳は切実な光を宿している。ナギだった。
「あんたが、王都から来た魔道具技師だって聞いた!頼む、これを直しちゃくれねえか!」
ナギが差し出したのは、見るも無残に二つに折れ、泥にまみれた一本の漁具だった。それは、彼の祖父の形見である、あの『月の雫石』のルアーが組み込まれた、特別な釣竿だった。嵐で増水した川に流され、岩に叩きつけられたのだという。
「……無理だ」
リアムは、一瞥しただけで冷たく言い放った。
「こんなものはもう直せん。新しいものを買った方がいい」
そう言って扉を閉めようとするリアムの腕を、ナギは必死に掴んだ。
「金なら、いくらでも払う!だから頼む!」
「金の問題じゃない。専門外だ」
リアムの拒絶は、本心だった。こんなにも強い想いが込められたものを、今の自分に修理する資格などない。また、あの時のような絶望を味わうのはごめんだった。
だが、ナギは諦めなかった。
「これは、ただの釣竿じゃねえんだ!じっちゃんの形見なんだよ!これがないと、俺は……俺は、漁師を続けられねえ!」
ナギの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。それは雨水なのか、涙なのか、リアムには判断がつかなかった。ただ、彼の真っ直ぐな瞳が、リアムの心の奥に凍りついていた何かを、ほんの少しだけ揺さぶった。
王都では、誰もこんな顔をしなかった。誰も、一つの道具のために、こんなに必死になる者はいなかった。リアムは長い沈黙の後、大きなため息をついた。
「……中に入れ。ただし、直せる保証はない」
工房の中に招き入れられたナギは、リアムの仕事ぶりを食い入るように見つめていた。リアムはまず、泥を丁寧に洗い落とし、釣竿の構造を冷静に分析していく。竿の部分は特殊な木材でできており、内部には月の雫石のルアーと連動する微細な魔力回路が通っていた。幸い、ルアー本体は無事だったが、竿の回路はズタズタに断線していた。
「……ひどいな」
「やっぱり、だめか……?」
おそるおそる尋ねるナギに、リアムは答えなかった。ただ黙々と、修復作業に取り掛かる。それは、もはや修理というより、再生に近い作業だった。
リアムが作業に没頭する間、ナギはぽつりぽつりと、その釣竿の思い出を語り続けた。祖父に連れられて初めて釣りをした日のこと。この竿で大物を釣り上げ、村中が大騒ぎになったこと。祖父が亡くなる間際、「これで、お前も一人前の漁師になれ」と、この竿を託してくれたこと。
最初はそれを無視していたリアムだったが、彼の耳は確かにその言葉を捉えていた。ナギの言葉には、王都の人間たちが口にするような虚飾や計算が一切なかった。ただ、祖父への尊敬と、道具への愛情だけが、そこにあった。
何時間経っただろうか。
リアムは、折れた竿を繋ぎ、断線した回路をすべて繋ぎ直した。
「……終わった」
リアムが差し出した釣竿を、ナギが受け取る。
「あ……あぁ……!」
ナギは声を詰まらせ、元の姿に戻った釣竿を、壊れ物を抱くように胸に抱きしめた。
「ありがとう……!本当に、ありがとう……!」
何度も何度も頭を下げるナギに、リアムはどう返していいか分からず、ただそっぽを向いた。
「修理代だ、受け取ってくれ」
ナギが差し出した革袋には、彼の全財産であろう硬貨が詰まっていた。リアムはそれを押し返す。
「……いらない」
「そういうわけにはいかねえ!」
「……じゃあ」
リアムは、本当に久しぶりに、自ら何かを求めて言葉を発した。
「……魚でいい。あんたが、それで釣った魚で」
その言葉を聞いたナギは、一瞬きょとんとした後、顔をくしゃくしゃにして、太陽のように笑った。
それが、リアムとナギの最初の約束だった。
あの日以来、ナギは「修理代だ!」と言っては、獲れたての魚を毎日のように持ってくるようになった。最初は迷惑そうに追い返していたリアムも、いつしか彼の訪問を、当たり前のこととして受け入れるようになっていた。
ナギの存在は、まるで春の陽光のように、固く閉ざされていたリアムの心を少しずつ、しかし確実に溶かしていったのだ。窓の外で、ナギがこちらに気づいて大きく手を振っている。
リアムは、ふい、と顔を背けた。だが、その口元には、自分でも気づかないほどの、ごくごく僅かな笑みが浮かんでいた。
「……うるさいやつに、捕まったものだ」
その呟きは、春の穏やかな風に乗り、リバーフェルの青い空へと溶けていった。




