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第14話 豊漁祭4

 カーン、と澄み切った鐘の音が、リバーフェルの青空に響き渡った。それが、勝負の始まりを告げる合図。


 次の瞬間、川辺にずらりと並んだ若手漁師たちが、一斉に釣竿を振りかぶる。ヒュッ、ヒュッ、と幾筋もの釣り糸が風を切り、それぞれの狙いを定めた水面へと吸い込まれていった。まるで、訓練された兵士たちの一斉放練。その光景は、一つの壮観な絵画のようだった。


 人垣の後ろから、リアムはその光景を静かに見つめていた。周囲の熱気と歓声が、まるで遠い世界の出来事のように感じられる。彼の視線は、大勢の参加者の中の、たった一人にだけ注がれていた。


 ナギだ。


 彼は、周りの喧騒に惑わされることなく、静かに目を閉じていた。深く、息を吸う。そして、ゆっくりと吐き出す。それは、リアムと約束した、特訓の初日の儀式。川と、自分と、そして道具と、その感覚を一つにするための時間。彼の集中が、研ぎ澄まされていくのが、リアムには手に取るように分かった。


 やがて、ナギは、ぱちりと目を開いた。迷いのない動きで、しなやかに竿を振るう。ルアーは、放物線というよりは、一本の光の線となって、川面の狙った一点へと完璧に着水した。


 リアムは、思わず、息をのむ。

 手すりを握る指先に、力がこもった。

 水中のルアーが、ぽぅ、と光を灯す。


 ナギは、慌てない。リアムの言葉を、身体が覚えている。彼は、ただリールを巻くだけ。色の変化は、まだ見ない。竿から伝わる、水の流れ、川底の感触。その全てに神経を集中させる。


 と、その時。ナギの瞳が、きらりと光った。彼は、水中のルアーが放つ、ある一つの色を捉えたのだ。


 深い、虹色の輝き。


「――もらった!」


 ナギの口元に、自信に満ちた笑みが浮かぶ。手首を返す。竿が、美しい弧を描いてしなった。リアムが設計した、魔導金属を編み込んだリールが、甲高い、しかし心地よい音を立てて逆回転する。それは、大物との対話を、楽しんでいるかのような音色。


 数瞬の格闘の後、ナギは、見事な虹鱒を、高々と宙に舞わせた。朝の光を浴びて、その鱗が七色に輝く。


「うおおおっ!」


 観客から、この日一番の大歓声が上がった。ナギは、誇らしげにその魚を掲げると、リアムの方を見て、ニッと歯を見せて笑った。最高の滑り出しだった。


 大会の第一部は、制限時間内に釣った魚の総数を競う「数釣り部門」。ここからが、ナギと彼のライバル、カイの独壇場となった。


「どうだカイ! まずは一本目だぜ!」


 ナギが釣り上げた虹鱒を魚籠に入れながら叫ぶと、すぐ隣で釣っていたカイも、ほぼ同時に一本釣り上げた。


「うるせえナギ! 俺だって釣れてらあ! これで一対一だ!」


 カイが使うのは、リアムが作ったような特殊な道具ではない。だが、長年の経験と勘で培われた彼の技術は、本物だった。彼は、水面のわずかな波紋や、水鳥の動きから、瞬時に魚の居場所を判断する。


 野性の勘と、伝統の技。それが、カイの強み。一方のナギは、もはやルアーの光と完全に一体化していた。


 緑や黄色の光は、無視。時折混じる淡い虹色は、まだ小さい虹鱒の合図。彼は、あの『深い虹色』の光だけを、的確に狙い撃ちしていく。リアムの技術が、ナギの感覚を、答えへと導く翼となっていた。


「そらよっ!」


「こっちもな!」


 二人の間を、釣れた魚が何度も宙に舞う。その光景は、まるでリズミカルな踊りのよう。観客たちも、その微笑ましい競り合いに、大いに盛り上がっていた。


「ナギに一票!」

「いや、カイの根性も大したもんだ!」


 パン屋のエルナさんは、どちらも応援するように、両手に持った手旗をぱたぱたと振っている。フィアも、その隣で、小さな手を一生懸命に叩いていた。


 やがて、数釣り部門の終了を告げる鐘が鳴り響く。結果は、ナギが十二匹、カイが十一匹。わずか一匹の差で、ナギの勝利だった。


「くそーっ! 最後の一匹、バラさなきゃなあ!」


 カイは、心底悔しそうに自分の頭をガシガシとかく。だが、その顔は、どこか楽しそうでもあった。


「へへん、俺の勝ちだな、カイ!」


「うるせえ! 本番は次だ! 一番でけえのを釣った奴が、本当の勝ちだからな!」


 二人は、汗まみれの顔で、にやりと笑い合った。短い休憩時間。ナギは、川の水をすくって、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。そして、観客席にいるリアムを探す。


 リアムは、ずっと同じ場所から、静かに彼を見守っていた。目が合う。ナギが、拳をぐっと握って見せる。リアムは、また小さく頷き返した。それだけの、やり取り。


 だが、その一瞬で、二人の間には、言葉以上の何かが通い合っていた。午後の日差しが、川面を黄金色に染め上げている。


 水面は、まるで磨き上げられた鏡のよう。岸辺の木々の緑と、どこまでも高い空の色を、その身に映していた。屋台から漂ってくる、香ばしい匂いが、春の風と混じり合って、リアムの鼻孔をくすぐる。


 穏やかで、満ち足りた時間。この時間が、ずっと続けばいい。リアムは、柄にもなく、そんなことを考えていた。


 そして、大会の雌雄を決する「大物部門」が、ついに始まった。漁師たちの雰囲気が、変わる。誰もが、川のさらに深い場所、大物が潜むと言われるポイントへと、静かに移動していく。


 ナギもまた、あの場所へと向かっていた。特訓を重ねた、川が大きくカーブする、深い淵。この川の主が、そこに眠っていることを、彼は知っていた。リアムは、知らず知らずのうちに、手すりを握る手に力が入っていた。


 見守ることしかできない。もどかしい。だが、今は、ナギと、そして自分が作り上げた道具を、信じるだけだ。ナギは、淵の前で、静かにルアーを投げ入れた。水中のルアーが、光を放つ。


 青、緑、黄色……。小さな魚たちの反応だ。ナギは、動じない。リールを巻く手は、驚くほどに、静かで、滑らか。カイも、少し離れた場所から、真剣な顔つきで、大物を狙っている。


 時間だけが、過ぎていく。

 観客たちの声も、いつしか小さくなっていた。誰もが、固唾を飲んで、勝負の行方を見守っている。


 その、瞬間は、唐突に訪れた。ナギの研ぎ澄まされた感覚が、水中の、巨大な質量の動きを、確かに捉えた。


 それと、同時。彼の目の前、水中のルアーが、今までに見たこともない光を放った。ゆっくりと、しかし力強く、脈打つような、深く、濃い虹色の光。間違いない。主だ。


「――来たっ!」


 ナギの、叫び。次の瞬間、彼の持つ釣竿が、ありえない角度にまで、しなった。

 ぎりりりりりりっ!


 リアムが組み込んだ、魔導リールが、悲鳴のような音を立てる。だが、糸は切れない。竿も、折れない。ナギが、全体重をかけて、竿を支える。


 一進一退の、攻防。


 ナギの額から、滝のように汗が流れる。腕の筋肉が、ちぎれんばかりに張り詰めている。


「負けるかあああああっ!」


 雄叫びと共に、ナギが、最後の力を振り絞った。水面が、盛大に、爆ぜた。現れたのは、ナギの胴体ほどもある、巨大な虹鱒。


 陽光を浴びたその鱗は、もはやただの鱗ではない。まるで、虹そのものを切り取って、その身にまとっているかのようだった。観客たちの、一瞬の静寂。


 そして、それが、割れんばかりの大歓声へと変わった。勝負を決める、大きな魚。それは、二人の技術と友情の、確かな証だった。

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