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第10話 祭りの知らせ

 フィアのオルゴールが、優しい音色を取り戻してから数週間。リバーフェルの街は、日に日に華やぎを増していた。春の深い緑と、咲き乱れる花々の色彩。工房の窓から見える景色だけでも、世界の彩度が高くなったような気がした。


 リアムの日常にも、小さな変化。

 街へ買い物に出れば、「よお、森の兄ちゃん!」と声をかけてくる者がいる。パン屋のエルナさんは、いつも焼きたてのパンをおまけしてくれた。先日、ドワーフの頑鉄の店を覗いた時も、彼は悪態をつきながら、珍しい鉱石の欠片を放ってよこした。「勉強の足しにしろ」と。


 悪くない。この街での暮らしも。

 リアムは、そう素直に思えるようになっていた。その日も、リアムは街の中心部にある掲示板の前で、少しだけ足を止めていた。集まった人々が、一枚の大きな貼り紙を囲んで、何やら楽しげに話している。


 そこに書かれていたのは、大きな文字。


『今年も開催! 春の豊漁祭!』


 街中が浮き足立つ、年に一度の大きなお祭り。その知らせ。リアムがその文字をぼんやりと眺めていると、不意に、背後から大きな声で名前を呼ばれた。


「リアームッ!」


 振り返るより早く、肩を強く掴まれる。もちろん、ナギだ。


「よう、買い物か? それより、見たかよ、これ!」


 ナギは、リアムの肩を掴んだまま、興奮した様子で掲示板を指差した。その黒い瞳は、子供のようにきらきらと輝いている。彼の頭の上では、丸い耳がぴょこぴょこと小刻みに揺れていた。


「豊漁祭、今年もやるんだってさ!」


「ああ、そうみたいだな」


「今年は、すげえぞ。俺も、出るからな!」


「出る? 何にだ」


「決まってんだろ! 若手漁師の腕比べ大会だよ!」


 ナギは、ぐっと胸を張った。その顔には、自信と、そして少しばかりの緊張が浮かんでいる。


「へえ……」


「なんだよ、その気のねえ返事は!」


「いや、お前が出るのはいいが、勝てるのか?」


 リアムの素朴な疑問に、ナギは「むっ」と頬を膨らませた。そして、リアムの腕をぐいと掴む。


「とにかく、工房に戻るぞ! お前に、大事な話があるんだ!」


 有無を言わさぬその力強さに、リアムは溜め息をつきながらも、なされるがままに工房へと連れ戻されるのだった。


 工房に戻るなり、ナギは部屋の中を落ち着きなく歩き回り始めた。何かを言いたげに口を開いては閉じ、頭をガシガシとかき、かと思えばリアムの周りをうろうろと徘徊する。その姿は、まるで檻の中の動物だ。


「何なんだ。さっきから」


 道具の手入れをしながらリアムが尋ねると、ナギはぴたりと動きを止めた。そして、意を決したように、リアムの作業台の前に、どん、と両手をついた。すごい剣幕だ。


「リアム! 俺、勝ちたいんだ、今年の大会!」


「そうか。頑張ればいい」


「そうじゃなくて! 絶対に、勝ちたいんだよ!」


 身を乗り出し、ほとんど叫ぶように言う。彼の言葉には、いつもと違う熱がこもっていた。真剣なその想い。ナギは一度息を吸い込むと、少しだけ、声のトーンを落として語り始めた。


「俺のじっちゃん、覚えてるか? この前直してもらった釣竿の、持ち主だったじっちゃん」

「ああ」


「じっちゃんがさ、昔、優勝したんだ。この大会で」


 ナギは、遠い日を思い出すような目をした。


「家に、今も飾ってあんだ。じっちゃんがもらった、木彫りの魚のトロフィーが。俺、ガキの頃から、それを見るたびにずっと思ってた。いつか俺も、じっちゃんみたいになりてえって……!」


 ぎゅっと、拳を握りしめるナギ。


「一人前の漁師だって、天国のじっちゃんに、胸を張って言えるようにさ。だから、勝ちたいんだ。今年こそは、絶対に」


 その瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。冗談でも、思いつきでもない。彼の魂からの、本当の願い。リアムは、黙ってその言葉を聞いていた。道具の手入れをする手は、いつの間にか止まっている。


 友の、静かで、しかし燃えるような決意。それが、リアムの心に、じんわりと広がっていく。


 しばらくの沈黙。それを破ったのは、ナギだった。彼は、今まで工房の誰にも見せたことのないような真剣な顔で、リアムに向かって、ゆっくりと頭を下げた。

 深く、深く。


「頼む、リアム!」


 絞り出すような、声だった。


「俺に、お前の力を貸してくれ! お前の作る、世界で一番すげえ漁具で、俺を勝たせてくれ!」


 顔を上げたナギの瞳は、少しだけ潤んでいた。


「俺の腕と、お前の技術。その二つが合わされば、絶対に勝てる! 俺は、そう信じてるんだ!」


 リアムは、何も言えなかった。ただ、目の前の友の姿を、その瞳に焼き付けていた。初めて出会った、嵐の日の夜。壊れた釣竿を手に、必死に助けを求めてきた、あの時の姿と重なる。


 だが、今の彼の瞳には、あの時のような悲壮感はない。あるのは、未来を見据えた、力強い希望の光。リアムの脳裏に、王都での日々が、一瞬だけよぎる。彼の技術は、常に誰かの欲望のために求められた。もっと豪華なものを。もっと強力なものを。もっと、国威を示すためのものを。だが、今、目の前の友が求めているのは、そんなものではない。


 祖父への想い。自らの成長の証。そして、友への信頼。その、どこまでも純粋で、温かい願い。応えないわけには、いかなかった。リアムは、ふっと息を漏らすと、わざと面倒くさそうに、頭をかいた。


「仕方がないな」


「リアム……?」


「最高の道具を用意してやってもいい。それがあれば、お前のその、へっぽこな腕でも、もしかしたら勝てるかもしれんしな」


 それは、彼なりの、最大限の肯定の言葉。照れ隠しの、エール。

 その意味を、ナギが理解できないはずがない。一瞬、きょとんとした顔をしたナギだったが、次の瞬間、その顔がくしゃりと崩れた。


「……っ!」


 そして。


「うおおっしゃああぁぁぁっ!」


 工房中に響き渡る、大絶叫。

 ナギは、その場でぴょんと飛び跳ねると、「やったー!」と叫びながら、リアムに思いきり抱きついてきた。


「おい、やめろ、暑苦しい!」


「やった、やったぞ! ありがとう、リアム! お前、最高だ!」


 リアムの背中を、遠慮なくバンバンと叩く。その勢いで、リアムの体がぐらぐらと揺れた。ナギの喉からは「キュルルルッ」と喜びの音が鳴り続け、彼の感情を映す尻尾は、ちぎれんばかりに左右に振られている。


「だから、離れろと……!」


 ようやくナギを引き剥がしたリアムは、乱れた服を直しながら、呆れたように、でもどこか嬉しそうに、友人を見つめた。その目には、いつもの冷静さに加え、新しい炎が灯っていた。職人としての、闘志の炎が。


「やるからには、中途半端なものは作らん。リバーフェルの連中が、全員度肝を抜くようなやつを、作ってやる」


 リアムのその言葉に、ナギは力強く頷いた。


「おう! やってやろうぜ、相棒!」


 ナギが、がっとリアムの肩を組む。こうして、二人の、たった一つの優勝を目指す、特別な日々が始まった。

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