新エンジェル様
【新エンジェル様】ーーーーーーーーーーーーーーー
夕暮れの教室。夏休み前の放課後は、不思議なほど湿った空気が漂っていた。
蝉の声が窓の外でけたたましく響き、扇風機の風も届かない隅で、四人の女子高生が机を寄せ合っていた。
「ねえ、ほんとにやるの? エンジェル様」
囁く声には震えがあった。だが、他の三人は笑ってごまかすように頷いた。
彼女たちの前には、方眼紙に書かれた文字盤。ひらがな、数字、そして「はい」「いいえ」。
人差し指を合わせた十円玉が、蝋燭の揺れる火を受けて微かに光っていた。
「エンジェル様、エンジェル様。どうかここにおいでください……」
一瞬、風が窓を叩いた。閉め切ったはずのガラスが、ぐっと内側に押されたように鳴った。
四人は肩を寄せ合い、ただ待つ。
――すべてが悪い冗談にすぎない。
そう思おうとした瞬間、十円玉が震え、じわりと「はい」へと滑った。
「……来た」
誰が言ったのか分からない。声はすでに、四人の誰のものでもなかった。
彼女たちは怯えながらも、質問を投げかけた。
「明日の天気は?」――『晴れ』。
「好きな人はいる?」――『はい』。
最初は笑い交じりだった。けれど次第に、十円玉の動きは加速していった。
誰も指を動かしていないのに、鋭い力で紙を引き裂きそうなほど。
「……エンジェル様、もうお帰りください」
震える声でそう唱えると、十円玉は一度だけ止まった。
しかし。
ふと気付くと、四人の人差し指はもう紙の上になかった。
十円玉はひとりでに回り続け、ぎり、と音を立てて床に転がり落ちた。
その夜。
儀式に参加したひとりが、眠りながら天井を見上げていた。
いや――「見上げさせられていた」。首は後ろへ折れ曲がり、眼球は虚ろに天井を凝視している。
天井には黒い染みが浮かび、やがてそれは「羽を広げた何か」の形をとった。
彼女は声にならない悲鳴をあげ、布団から手を伸ばした。だがその指先は――冷たく小さな子供の手に握られていた。
その手は力強く、爪を立て、骨を砕くほどに握り締めてきた。
翌朝、彼女はベッドの上で硬直して発見された。
首は不自然に後ろへ折れ、爪の食い込んだ指先は黒く壊死していた。
残された三人は、声を合わせて言った。
「終わらなかったんだ……エンジェル様は、まだ……」
儀式の夜にひとりを失ったあと、残された三人は恐怖に沈黙していた。
夏休みに入ったはずなのに、彼女たちは互いに顔を合わせることすら避けるようになった。
けれど、避けても無駄だった。
最初の異変は、一番気の弱い沙耶に訪れた。
朝、机の上に――十円玉が置かれていた。
硬貨は真新しいのに、どこか湿って黒ずんだ臭気を放っている。誰も触っていないのに、じわ、と縁を濡らす水滴が浮かび上がった。
「やめて……もう関わらないで……」
彼女は泣きながらそれを窓から投げ捨てた。
しかし夜、机に戻ると――再び十円玉が置かれていた。
まるで「帰ってきた」とでも言うように。
数日後、沙耶は忽然と姿を消した。
残された部屋の机の上には、十円玉と「はい」の文字が赤インクで塗りつぶされた紙だけがあった。
次に、真由に異変が訪れた。
彼女は夜ごと夢を見る。
教室の真ん中に十円玉が転がっている夢。
拾い上げようとすると、周囲の机に座ったクラスメイトたちが一斉にこちらを見て微笑む。
「早く、指を乗せて」
夢の中でそう促されるたび、真由は汗だくで目を覚ました。
目覚めても、布団の横に十円玉が並んでいた。ひとつ、ふたつ、みっつ……夜ごと増えていく。
そしてある朝、彼女の布団は空っぽだった。
残されていたのは紙切れに滲んだ赤い字。
『まだ帰れない』
残ったのは、ただ一人、優奈。
三人の失踪に怯え、彼女は引きこもるように家から出なくなった。
窓もカーテンで覆い、電話にも出ず、食事もろくに喉を通らない。
だが、どうしても避けられない瞬間が訪れた。
深夜二時、机の上の携帯が震えた。
ディスプレイには番号の代わりに「エンジェル様」と表示されている。
恐怖で固まりながらも、指は勝手に画面をタップした。
耳元から、幼い声がした。
『遊びましょう』
『あなたはまだ、終わらせていない』
次の瞬間、通話口の向こうから、机を叩く音が響いた。
トントン、トントン。まるで「順番を待つ指」のように。
優奈は泣きながら携帯を投げ捨て、布団に潜り込んだ。
だが、耳のすぐ横で――同じリズムの音が続いていた。
トントン、トントン。
布団の中で、自分の指が動いていた。意思に逆らって。
そして、掌にいつの間にか冷たい硬貨が押し付けられていた。
暗闇の中、優奈は悟った。
もう逃げられない。
翌朝、彼女の部屋は空っぽだった。
机の上には、四枚の十円玉が並べられていた。
そして紙切れに滲んだ赤文字。
以来、その高校では誰も十円玉を握ろうとしない。
だが、夏になると必ず噂が蘇る。
――「机の上に勝手に十円玉が置かれる」
――「指を誘うように転がってくる」
蝉の声に混じって、耳の奥で囁きがする。
『遊びましょう』
『遊びましょう』
『次はあなたの番』
指を乗せたら最後、あなたはもう帰れない。
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