少しズレてる二人
1ヶ月。真珠は数えた。
あの夜から、一日一日を。噛み痕は薄くなり、赤みも退いた。軟膏を塗り続けたおかげで、掻き傷もほとんど目立たない。包帯はついに外された。体も動く。痛みも、もうない。
でも、心は忘れていなかった。あの夜の熱と痛みと声を。ウルの震える手と、潤んだ目を。泣くほどの執着を。
だから、決めた。二度と同じ轍は踏まない。もうウルをあんな目にさせない。自分もあんな風に壊れない。
真珠は鏡の前で髪を整えた。青白い薄衣に身を包むと、傷はもう見えない。けれど心に刻まれたものは隠さない。それはもう、自分の一部だった。
今日は久しぶりに政務に同行する日。王宮へ行く。自室を出ると、ウルが待っていた。黒い長衣、金の装飾。相変わらず威圧感と気品を纏った姿。
でも真珠の目には、その奥にある小さな傷が見える。癒えかけたけれど、まだ完全には塞がらないもの。
ウルは何も言わなかった。ただ手を差し出す。指先が微かに震えていた。真珠はそっとその手を取る。そして、軽く頷いた。
王宮への廊下を歩くとき。真珠はほんの少しウルの後ろを歩いた。彼の手を離し、決して並ばない。踏み込みすぎない。彼を立てる。でも置いていかれはしない距離で。
視線はやや下げた。周囲の役人や女官たちと目を合わせない。何かを探るような視線も、憐れむ視線も、浴びないように。必要以上に目立たないように。それが真珠なりの処世術だった。
執務室。
重厚な机と書類の山。側近たちが忙しなく出入りする。真珠はウルの斜め後ろに座った。背筋を伸ばして、首を長くして、しかし伏し目がちに視線を落とす。声をかけられれば、はっきり答える。でも自分からは言わない。意見は聞かれたときだけ。それが「王太子妃の仕事」だと学んだ。
でも、ウルの視線は違った。書類に目を落とすフリをしながら、ふと目を上げるたびに、真珠を見ていた。
その目には苛立ちと焦燥と――そして嫉妬があった。
「お前は、何をそんなに大人しくしてる」「誰のために伏し目がちにしてる」「そんなに儚く見せるな」「周りが見るだろう」
心の中で何度も噛みしめていた。でも声には出せない。人前だったから。だから無言で、目だけが濁っていた。
そしてウルには分かっていた。真珠が黙っている理由を。自分のせいだということを。
「壊さないように」「怖がらせないように」
真珠なりの優しさだということを。
それがまた、ウルを苛立たせた。優しいと思うほどに、「俺がそうさせた」自覚が突き刺さる。そして同時に、その伏し目がちの横顔が、あまりにも綺麗で、儚くて、欲しくて、今すぐ引き寄せて抱きしめたくなる。
周囲の文官たちは緊張していた。
「殿下、お手元の書状にご署名を………殿下?」
ウルは応じる。だが筆先が荒い。視線が真珠に行ったままだった。
真珠はその気配を感じていた。でも顔を上げない。絶対に目を合わせない。怖いからじゃない。ウルを煽らないために。
「私、大丈夫だから」「ちゃんとあなたの後ろにいるから」
無言でそう示していた。
ウルは拳を握った。喉が詰まる。口を開きかけて、飲み込む。
「黙ってるな」「俺を見ろ」「でも……見られたら抑えられない」
そんなぐちゃぐちゃな思考が渦巻く。心配で、嫉妬で、愛しさで、でも「もう二度と壊さない」と決めたから必死に飲み込む。だから睨むように見つめるしかできなかった。
政務は滞りなく進んだ。真珠は一言も無駄を言わなかった。ウルのために。自分のために。二人のために。
でもその静けさが、ウルには息苦しく、愛しく、どうしようもなく欲しかった。
朝の政務が終わる頃。廊下に出た瞬間、ウルは小さな声で絞り出すように言った。
「……大人しいな」
真珠はそっと振り向いた。伏し目がちのまま、微かに笑った。
「……だって、王太子妃だもの。ちゃんとしなきゃ」
ウルは喉が詰まった。目が滲むように熱くなる。そして、すぐに顔を背けた。
「……クソ……帰るぞ」
真珠はまた微笑んだ。その背中を追いかけて、小さく頷いた。




