待ちに待った退院
医務室の窓から差し込む光は、柔らかく暖かかった。約一ヶ月渡る長い入院生活で、真珠はこの匂いにも少し慣れていた。薬草の香り。香炉の煙。清潔な白布の感触。
けれど今日は、その全てが少しだけ違って見えた。医師が真剣な顔で包帯を解き、傷を確かめる。小さく頷いたあと、眼鏡越しに真珠を見つめて静かに告げた。
「……もう大丈夫でしょう。痛みもほとんどないようですし、感染も完全に抑え込めました。退院を許可します」
その言葉に、周囲の女官たちがぱっと顔を輝かせた。
「本当に……!」
「よかった、真珠様……!」
「おめでとうございます!」
真珠は少し驚いて目を丸くしたあと、すぐに微笑んだ。
「……そんな、大袈裟だよ」
声はまだ少しかすれていたけど、前よりずっと柔らかかった。
アサナが腕を組み、深いため息をついた。
「やっと……ですね」
そして、真珠をじっと見て目を細めた。
「ですが、まだ無理はしないでくださいね。体が動くからって調子に乗って、寝込んでしまわないように」
真珠は思わず小さく笑ってしまった。
「……はーい」
片手を挙げておどけてみせる。その仕草にアサナは頬を緩め、泣きそうになりながらも睨むように目を細めた。
「全くもう……」
女官たちが退院の支度を手伝う。長く寝台にいたせいで少し痩せた身体を、新しい衣に包む。久しぶりに着る柔らかい絹の感触が心地よかった。体を起こすときも、もうほとんど痛みはない。深く息を吸い込むと、肺が広がる感覚が気持ちいい。自分の体が戻ってきたことを実感した。
「……やっと、自分の部屋に帰れるんだ」
小さく呟いた声が、女官たちの涙を誘った。
「本当に、お帰りなさいませ」
「心配しました……」
真珠は目を細めて、彼女たちの手をそっと握った。
「ありがとう」
医師も荷物をまとめながら頷いた。
「退院しても、軟膏は塗り続けてください。あと、強く掻いたり擦ったりは絶対にしないように。……殿下にも、そのようにお伝えください」
その言葉に、アサナも女官も全員が一瞬沈黙した。真珠は頬を赤らめ、小さく俯く。
「……わかってます」
掠れた声で答えたその顔に、医師は苦笑していた。
そして、いよいよ退院のために部屋を出ようとしたその時だった。
扉の向こうで、何かがざわめいた。小走りの足音。女官たちが慌てて脇によける。
そして、見慣れた黒衣が現れた。黒い長衣の裾を乱し、息を荒げた男が立っている。青い瞳が鋭く光り、しかしどこか怯えたように真珠を射抜いた。
ウルだった。
しばし、言葉を失う二人。
ウルの胸が上下する。全速力で来たらしく、肩で息をしていた。口を開きかけ、しかし声が詰まったように止まる。
真珠は目を瞬かせた。そして、ゆっくりと小さな笑みを浮かべた。
「……来てくれたの」
その言葉で、ウルの肩がわずかに落ちた。喉が動き、青い瞳が揺れる。拳を強く握って、震えを隠すようにしていた。
「……退院、するって……聞いた」
声は低く、掠れていた。けれど、確かに真珠に向けられていた。
真珠は軽く頷いた。
「うん。もう、大丈夫だって」
アサナが横で鼻をすすった。
「心配で迎えに来られたんですか?坊っちゃま」
ウルはアサナに視線を送る。いつもなら睨むようなその目も、今はただ、怯えた獣のようだった。そして、また真珠を見つめた。
「……本当に、大丈夫か」
小さな声。けれど切実な声。
真珠は少しだけ目を伏せた。長い睫毛が震えた。そして、再びウルを見つめ返した。
「……うん。もうちゃんと歩ける……あなたのところに、帰れるよ」
その一言で、ウルの喉がひくついた。拳を握りしめたまま、一歩だけ近づいた。でもそれ以上踏み込めなかった。
真珠はそれを見て、小さく笑った。
「……怖い?」
ウルは目を見開いた。息を呑む。そして、かすかに首を振った。
「……ああ、怖いのは……俺だ」
真珠はゆっくり手を伸ばした。包帯はもう外され、白い薬が塗られた跡が薄く残る指先で、ウルの拳にそっと触れた。
「……大丈夫。私は、あなたのところに帰るんだよ」
ウルの肩が震えた。息を乱し、目を伏せた。そして、その手をそっと握り返した。
周囲の女官たちも、アサナも、泣き笑いで見守っていた。医師も溜息をつきながら、でも目を細めて頷いていた。
その日。真珠はついに医務室を出て、自分の部屋に戻った。そしてウルは、その傍を決して離れなかった。




