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神殿へ

白亜の神殿は、王宮とはまた違う冷たい静けさを湛えていた。香炉の煙が高い天井に漂い、刻まれた碑文が光と影の中に浮かび上がる。広い回廊を進む足音が、いつもより重たく響いた。


神殿の奥、謁見室。


大理石の床に幾何学模様のタイルが敷き詰められ、両脇には油灯が整然と並ぶ。香油の香りが濃く、冷気すら神聖に思える空間だった。


その中央に、王太子ウルシュガは立っていた。黒い長衣を着ているが、よく見れば乱れた裾、指先には新しい傷。青い瞳は鋭く、それでいてどこか疲弊していた。


正面に座すのは神官長。白い長衣に身を包み、銀の冠を戴いた老爺だった。瞳は澄んでいたが、鋭さを失ってはいない。アメニアの伝統と神意を守ってきた誇りが、静かな威圧感を生んでいた。


神官長はしばし黙していた。目を伏せ、香炉の煙を見つめ、ゆっくりと口を開いた。


『……先日ぶりですな、殿下』


ウルは声を返さない。わずかに喉が動くが、口はきつく結ばれていた。冷たい空気が二人の間を満たす。


神官長は目を上げる。老いた瞳が、しかし曇りなくウルを射抜いた。


『噂は、ここまで届いておる。真珠殿の容態も、ある程度は承知している。殿下が彼女を……』


言葉を切った。香炉の煙が揺れる。


『……深く傷つけられたと』


ウルの拳がかすかに震える。指の関節が白くなった。


神官長は続けた。その声は低く、しかし激しい非難ではなく、あくまで静かな叱責だった。


『儀式の前に噛み痕を刻むことは、本来厳に戒められる行為。神に誓う前に、所有を主張するなど……それは、本物の獣がすること』


ウルはその言葉を受け止める。しかし目を逸らさなかった。噛み殺すように言葉を絞り出した。


『……申し訳ない』


神官長はまぶたを伏せた。


『殿下の血が、誰よりも濃いことは分かっておる。代々の王家が、そうした血を誇りとし、同時に呪いとしてきた歴史も』


香炉の煙が天井に薄く消える。老神官は長い息を吐いた。


『……儂も、殿下のお父上が若い頃、同じような申し出を受けた。血筋は変わらぬものですな…ただ――』


老いた瞳が再びウルを射抜く。


『理解しておるだろう。その血が、どれだけの痛みを与えるか。そして、それを受け止めさせることの重さを』


ウルの喉が詰まる。だが目を閉じなかった。呼吸が荒くなるのを抑えつけるように、深く息を吐いた。


『……分かっている。だから、今日ここに来た』


神官長は頷いた。


『神前婚約式の延期を、正式に申し出ると』


ウルは短く頷いた。


『……彼女が回復するまで、式は……できない。今のままでは誓えない』


声がかすれた。喉がひくついた。それでも、言い切った。


神官長はしばらく黙していた。やがて、ゆっくりと口を開く。


『……よろしい。神殿としても、これ以上の強行は望まぬ。真珠殿のご回復を、まずは最優先としよう』


その言葉にウルは小さく目を伏せた。背筋を伸ばし、再び顔を上げる。


『……感謝する』


神官長はわずかに眉を寄せた。


『感謝など不要。これは当たり前のことだ』


香炉の煙が緩やかに流れる。老神官は目を細めた。


『……殿下』


神官長の低く嗄れた声が、静かに響く。


『彼女を守るのだ、傷つけることではなく。抱き潰すことではなく、守ることで所有を証明するのだ』


ウルはその言葉を飲み込むように受ける。血走った青い瞳がかすかに揺れた。呼吸が詰まったように止まる。


神官長は目を閉じた。


『……真珠殿に、儂からの言葉を伝えてくだされ』


そして、小さく呟くように続ける。


『どうか焦らずに。体を癒し心を癒し、神殿は真珠殿のために祈ろう。貴女が早く良くなるように』


その声は厳粛で、しかしどこかに滲む優しさがあった。老いた神官長の頬に深く刻まれた皺が、静かに緩む。


ウルはそれを黙って聞いた。何度か喉が動き、やっとの思いで声を出す。


『……伝える』


神官長は微かに頷いた。


『殿下。血は宿命だ。だが、それを制することもまた、王の証』


ウルの目が鋭く細まる。だがその奥に、逃げられない弱さが滲んでいた。


『……分かっている』


言葉を吐き出すように、噛み締めるように言った。


神官長は立ち上がらなかった。ただ、香炉の煙を見つめて目を閉じた。


ウルは黙って一礼した。足音を立てずに回廊へと去っていった。背筋は伸ばしていたが、その拳は震えていた。


香炉の煙が、最後までその姿を見送った。


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