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王宮内では「普通」

アメニア王宮は、巨大な迷宮のような建物だ。白い石で築かれた回廊。影を落とす幾重もの格子窓。乾いた風を和らげる中庭の噴水。王族や貴族たちが優雅に往来し、香料と薬草の香りが漂うその場所は、異国人の目には「豊かな楽園」にすら見えるだろう。


だが、その奥底には誰も口にしない「当たり前」が沈殿していた。王族は苛烈だ。それが、この国の常識だった。


王太子殿下が正妃候補を入院させた――

噂は電光石火で広まった。当初は後宮全体が凍りついたようだった。夜通し灯りが消えない医務室。慌ただしく走る女官たち。薬草を刻む匂いが廊下まで溢れた。泣きながら包帯を替える若い女官もいた。


『殿下……あれは、酷すぎます……』


震える声で、誰かが漏らした。でも、それに答える声はなかった。誰も真正面からは頷けなかった。頷いてしまえば「殿下を非難する」ことになるからだ。臣下として、宮廷人として、あってはならないことだった。




老医師は黙々と薬を調合した。灰色の眉を顰め、手を止めない。包帯に滲む血と膿を見ても表情を変えなかった。


『さすがにここまで酷いのは初めて見たが』


心の中で呟き、手を動かす。それが自分の仕事だった。王族の噛み痕を治し、感染を防ぎ、命を繋ぐこと。「こんなものは日常だ」と自分に言い聞かせた。でも目の端に滲む涙を拭う若い薬師を見て、深く溜息をついた。


『覚えておけ、これがアメニア王族だ』


小声で、それだけを伝えた。




後宮の古株の女官たちは顔を顰めた。


『血が濃いから』『お若いし』『やっぱり殿下は王様によく似ていらっしゃる』


誰も真珠を責めなかった。むしろ気の毒がった。


『大変な方に選ばれた』『でも、それが王妃というもの』


泣きながらも、最後には諦めたように頷いた。


『仕方ない。王家だから』


その一言で、全てが片付けられた。




宮廷の廊下を歩く侍従たちも噂した。


『殿下も血筋がいい証拠だ』『王家の愛は獣の愛だ。今更だろう』『正妃が耐えられるなら、それでいい』『むしろ安心したよ』『支配者はそうでなくては』


声を潜めつつも、どこか満足げだった。




神殿の神官たちも神妙な顔をして集まった。


『神前婚約式を延期するしかあるまい』『殿下の血の濃さは、確かに神意だ』『后様の忍耐こそ、神への奉納』『……それにしても、死人が出なくて幸いだった』


苦い声で結論を出した。


『神の加護があったのだろう』


そう言い、祭文を捧げた。だが誰も「暴力」を責めなかった。それがアメニアだった。




歴史はこうした「愛」で彩られていた。王太子の父王も、若き日に同じことをした。王妃は血だらけで包帯を巻かれ、薬で眠らされた。でも民は王妃を「国母」と呼んだ。耐えた后だと讃えた。そして王は「強い王」と崇められた。


曽祖父王の時代には、記録にすら残らないほど酷い事件があった。後宮に葬られた女人の墓が、今も誰にも語られずに残っている。死人が出ても、王家は「強くあれ」と言われた。それこそがこの国の在り方だった。


『獣性が強いほど、王権は強い』


それはこの国の信仰であり、政治哲学だった。


『欲深さこそ神意』『支配こそ秩序』『所有こそ愛』


神殿の奥深くに刻まれた石版にすら、その言葉が残っている。




だからこそ、今回も同じだった。

泣いた者はいた。震えた者もいた。

けれど最終的には皆、目を伏せた。


『王家だから』『殿下だから』


それで終わった。


そして、誰もが思った。


『后様は本当に強い方だ』『殿下に相応しいのは、あの方しかいない』『誰もあの血を受け止められない』『泣きながらでも「好き」と笑える女はいない』『……あの人なら、王家を変えるかもしれない』


そんな声もあった。でもそれは小さな希望にすぎなかった。王宮は結局、変わらなかった。


翌朝には香炉が焚かれ、絹の衣擦れが響き、噴水が涼やかに水を打った。廊下を行き交う貴族たちは笑った。文官は巻物を運び、軍官は靴音を響かせた。王宮は、いつも通りだった。


アメニア王宮は、そんな場所だ。残酷を飲み込み、痛みを噛み殺し、「それでこそ王家だ」と言い切る場所。愛と暴力を分けられない場所。それを誰も疑わない場所。


だから真珠が痛めつけられても、泣いても、入院しても――「殿下だから」で終わった。そして、それがこの国の「普通」だった。


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