約束できない、けど
静かな夜だった。医務室の明かりは落とされ、香炉の煙が細く漂っている。真珠はようやく安定して眠れるようになったが、まだ完全に動けるわけじゃなかった。包帯だらけの体を起こして座れるようになったのがやっと。でも、その顔には微かな笑みが戻り始めていた。
女官たちは廊下で控えていた。アサナも席を外していた。医師が調合室に入ったその隙。
静まり返った空気の中で、そっと扉が開く音がした。
真珠がゆっくりと顔を上げる。痛む首筋に包帯が擦れて、小さく息を呑んむ。
黒い長衣。乱れた黒髪。月明かりに青い瞳が細く光っていた。
ウルだった。
彼はしばらく扉の前で動かなかった。廊下の暗がりから、真珠を見つめているだけ。言葉を探しているようだった。喉が上下する。指がわずかに震えていた。
「……入って」
真珠のかすれた声。それだけで、ウルはゆっくりと足を進めた。重たい足取りだった。
寝台の脇まで来ても、座ろうとしない。ただ立ったまま、真珠を見下ろしていた。その視線は、鋭くもあり、怯えた獣のようでもあった。
真珠は静かに目を細めた。
「……来てくれたんだ」
ウルの喉が鳴る。返事の代わりに、長い呼吸を吐き出した。手はまだ震えている。それを必死に後ろで握りしめていた。
真珠は、その手をそっと見つめた。
「……ウル」
やっと名前を呼ばれて、ウルの目が大きく揺れた。
同時に唇を噛む。血が滲むほどに強く。
「……庇うな」
低く、割れた声だった。喉の奥で噛み殺すように言葉を吐いた。
「俺を……庇うな、庇われるほど……弱くない……惨めになる」
声が震え、目が血走っていた。でもそれ以上に、潤んでいた。
真珠は黙り、ただ、ゆっくりと片手を伸ばした。包帯だらけの腕で、そっとウルの震える手を取る。
その瞬間、ウルの目が大きく開く。そしてわずかに肩が落ちた。抵抗する力が抜けたようだった。
真珠は、弱くかすれた声で囁やく。
「私が……言いたいの、大丈夫だって」
ウルの喉が詰まった。顔が歪み、呼吸が乱れる。目も泳ぐ。それでも視線は外せなかった。
「……大丈夫、なわけがない。こんな……こんな体にして……」
真珠が少しだけ笑った。痛そうに、でも優しく。
「……そうだね、すっごく痛かった。今も痛いし怖いよ、でも……」
指先に力を込めた。ウルの大きな手を、包帯の中の弱々しい手が包み込む。
「……ウルも、怖かったんだよね。私を傷つけるのが、怖かったんだよね」
ウルの喉からひゅっと空気が漏れる音がする。手がびくっと震えた。涙は落ちない。でも瞳が熱に滲んで揺れていた。
「……またやるかもしれない」
声は掠れていて、息を殺すように吐き出した。
「……今、謝っても……また同じことをするかもしれない……この血が……お前をまた……襲うかもしれない」
真珠は目を細めた。小さく、でも確かに頷づく。
「……うん、知ってる。分かってる。だからって、逃げないよ」
包帯の手でウルの手を包む。自分よりもずっと大きくて、荒くて、でも今は怯えるように震えているその手を。
「……大丈夫だよ。ウルは、もう分かってるじゃない。『またやるかもしれない』って言えたじゃない。それでいいの」
ウルは堪えきれずに顔を歪める。震える息を吐き、喉を鳴らし、目を潤ませた。そしてゆっくりと腰を落とした。真珠の寝台の脇に、重力に負けるように座り込んだ。大きな身体を小さく折りたたむようにして、真珠に顔を寄せる。
「……すまない…もう…こんな真似……しない……誓う、だが…」
声が詰まって、言葉にならない。喉がひくつき、肩が震えた。
真珠はその頭を抱いた。包帯だらけの腕で、傷の走る手で、そっと撫でた。痛かったけど、それがなんだって思う。
「……ウル、私はここにいるよ。私を離さないで。でも……目一杯優しくしてね」
ウルは呻くように息を吐く。それでも力を込めて、真珠を抱きしめた。乱暴じゃない。優しく、震えるように。大きすぎる体で、小さな彼女を壊さないように。
真珠の耳元で掠れた声が震えた。
「……絶対に、手放さない」
真珠は泣き笑いした。小さな声で「うん」と返した。包帯だらけの手で、必死に彼を抱き返した。




