責めないで
薄曇りの昼下がり、入院室は静かだった。香炉の煙が細く揺れ、消毒薬と薬草の匂いが満ちている。
真珠は上体を起こしていた。まだ完全ではないが、体を支えて座れるようになったのが何よりの進歩だった。女官たちが嬉しそうにお粥を運んでくれる。アサナは薬を整理してくれる。医師は表情を緩めて経過を見守る。
「もう……そんなに心配しなくても平気よ」
真珠は笑って言った。声はまだ掠れていたけれど、不思議と穏やかだった。
けれど――
包帯交換の時間になると、空気が変わった。
女官たちが丁寧に包帯を解くたびに、目を逸らすのが分かった。消毒液を浸した布を当てる手が震えた。アサナが無言で深呼吸する音も聞こえた。
鏡を見たわけじゃない。でも自分の首を、肩を、胸を、腕を、腹を見下ろすだけで分かった。
紫黒の内出血が広がり、噛み痕は凹凸を作っていて、掻き毟った線状の傷はまだ赤く盛り上がっている。所々滲む血と、薬の匂い。
……まるで交通事故にでも遭ったみたいだ。全身打撲どころじゃない。これは……誰が見ても悲鳴を上げるだろう。
痛みは確かにある。でもそれ以上に、この姿が衝撃だった。
「この傷、残るよね……」
真珠はそれを見つめて、息を吐いた。自分の体じゃないみたいだ。でも、痛いのも、自分だ。
「ご安心ください、後宮には傷に特化した軟膏がありますので」
医師が柔らかく答える。傷に特化、まぁ薄くなるくらいかな、と思う真珠。まさかアメニア王族の“厄介な性癖”のため、改良に改良を重ねた特効薬があることを、彼女はまだ知らない。
女官の一人が泣きそうになって顔を伏せた。アサナが震える声で「申し訳ありません」と謝った。
真珠は目を閉じた。深く呼吸して、また開く。そして、小さく微笑んだ。
「……そんな顔しないで、みんな泣きすぎよ。私、大丈夫だから」
声は弱かったけど、冗談めかして笑った。みんなが泣き笑いになった瞬間だった。
包帯を巻き直してもらい、清潔な寝衣を着せてもらった後。部屋に残っていたのはアサナと真珠だけだった。医師と女官たちはそっと下がっていた。
アサナは寝台の脇に座り、無言で手を握っていた。年季の入った皺のある手が、真珠の細い指を包む。
温かかった。
しばらくの沈黙。
真珠は目を伏せる。喉が詰まるように痛んだ。でも、その痛みを押し込んで、声を出すことにした。
「……ねえ、アサナ」
アサナが眉を寄せた。
「何でしょう」
震える声だった。真珠は息を吸い、掠れた声で、でも真剣に言葉を選んだ。
「……今回のこと、きっかけはたぶん私だったの」
アサナの眉がピクリと動く。真珠は目を伏せたまま続けた。
「……あの時、若い文官に呼び止められて、ただ返事をしただけだったのよ。何気ないやり取りだった。私からしたら……『たった一言』だった。でも、ウルからしたら……もう、耐えられなかったんだと思う」
喉が詰まって、言葉が切れる。アサナはゆっくり息を吐いた。でも何も言わない。ただ聞いていた。
真珠はまた話し出した。吐く声が震えた。
「……正妃を囲わないなんて、アメニア王族では初めてなんでしょう?どこにでも伴うって、あの人が言った。だから私、安心してた。私だけ特別なんだって、少しだけ……思っちゃった」
涙が滲む。でも零さない。
「……でも、想像以上だったんだと思う。ウルを……追い詰めてたんだね。…私が、あの人の理性を、耐えられる限界を、超えさせたんだ」
アサナの手が震えた。でも、離さなかった。
真珠はゆっくり顔を上げた。赤く腫れた瞳で、アサナを真っ直ぐ見た。
「……だから。アサナ、お願い。ウルを……あんまり責めないで。私も悪かったの」
アサナは何度か口を開きかけて、言葉を呑み込んだ。皺の間に涙が滲む。そして、声を絞り出した。
「……貴女様は……ほんとに……」
それ以上は言えなかった。声が詰まって震えてしまったから。
真珠は少し笑った。涙を零しながら、笑っていた。
「……仕方ないじゃない、惚れた弱みってやつね」
廊下の影で、ウルはそれを全部聞いていた。
拳を握りしめて、歯を食いしばっていた。耳の奥が熱くなって、喉が詰まって、呼吸がうまくできなかった。
「……馬鹿者」
掠れた声で吐き捨てた。でも、その声は震えていた。




