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片道切符

あの日以降、真珠の前にウルは一度も現れなかった。


彼女は無事に帰国し、再び日常の中に身を置いていた。誰にとっても夢だったはずのハワイ旅行は、真珠にとっては現実離れした奇妙な体験に過ぎなかった。


オフィスの窓の外には、いつもと変わらぬ都会の景色。後輩の有瀬が、未完成のプレゼン資料を手に頭を抱えている。


「有瀬くん、ここは構成を一度見直したほうがいいかも。ほら、伝えたいことは分かるけど――」


「ありがとうございます!真珠先輩、やっぱすごいです…!」


そんな日々が続き、真珠も心から戻ってきたと実感していた。


そんなある朝、部長から直々に声がかかる。


「橘くん。…実は、君にひとつ任せたい仕事がある」


 そう言って差し出されたのは、分厚い海外案件のファイル。新規契約交渉、商品監修、現地市場の視察――社として初の海外展開。行き先は――


「アメニア……ですか?」


最近耳にした国名に、思わず問い返す真珠。


アメニア王国。中東の乾いた大地にあって、常に緑と水に恵まれた奇跡の王国。石油にたよらずして豊かな国土を持ち、内政・外交ともに独立と中立を貫いてきた稀有な存在。独自の文化を千年以上守り続け、現在においても独特な価値観が根付いているという。戦火の影が届いたことは一度もなく、世界の富豪や政治家、王族がこぞって投資し、学びに訪れる場所。高品質の農作物と果樹、豊かな自然、そして近代的な都市計画。そのすべてが、「理想の国家」と称されるにふさわしかった。


その国名は、ハワイで聞いたウルという男の正体と、どこかで繋がるような気がして、真珠の胸に微かなざわめきを残した。


「期間は3週間。出発は1週間後。…どうだ、行けそうかね?」


真珠は一瞬だけ迷った。けれども――自分のスキルが、未知の地で必要とされるなら。そして、心のどこかであの変わった男との再会を、期待しているのかもしれない。


「…はい。行きます」


そう応えた真珠の瞳には、迷いも戸惑いもなかった。即答する真珠の胸には、熱と同時にかすかな既視感が宿っていた。


 


一方その頃、アメニアの王宮では――


ウルが、黄金に輝く果実酒を手に、参謀たちにひとつの提案をしていた。


「我が国に、最も有能な交渉者を招きたいと思っている」


穏やかに微笑みながらも、その視線は決して笑っていなかった。彼の目の前に置かれていた資料の表紙には、“SAKURA CORPORATION:SHINJU TACHIBANA”の名前が踊っていた。


「現地との対話を、より建設的な形で進めたいと思っている」


理性的に。合法的に。そして確実に、彼女をこの国に呼び寄せるために。


 



成田国際空港、国際線搭乗口前。きっちりとジャケットを羽織った真珠は、緊張と高揚の入り混じった心を抱えていた。中東の王国、アメニア。外交案件ではなく、あくまでビジネスの交渉——けれどこの地への日本企業の進出は初。責任の重さに、息を吸うたび背筋が伸びる。


搭乗手続きを終え、ふと周囲に視線を巡らせる。部長から「現地語の問題があるため、英語通訳を一名同行させる」と聞いていたが、誰のことだろう——その疑問に答えるかのように、声が飛んだ。


「先輩、お疲れ様です」


振り向いた真珠の目に飛び込んできたのは、スーツ姿に身を包んだ青年。有瀬 貴人。会社の後輩であり、最近ではチームリーダーに昇進したばかりの若手エースだった。さらに言うと、180cmを超える高身長に、色素の薄い甘い顔立ち。聞き上手でありながら、言うべき時は言う有瀬くんは、社内の人間関係に疎い真珠でさえ知っている程モテていた。


「…有瀬くん?どうしてあなたが……」


「通訳、俺ですよ。今日からしばらく、お世話になります」


にこやかに笑うその顔は、少し照れくさそうにすら見えた。真珠は一瞬言葉を失う。まさかの展開に混乱しつつも、数歩近づき、問いかける。


「でも、有瀬くんって……アメニア語、話せたの?」


「いいえ。アメニア語はほとんどの日本人が扱えません。現地でも第二言語が英語なので、英語での通訳になります。母がイギリス人で、英語はネイティブなんです」


「…そうだったの?」


思わず漏れる真珠の声に、有瀬は静かに頷いた。


「実は俺、ハーフなんですよ。あ、最近はダブルって言うんでしたっけ」


「知らなかった…」


「先輩に嫌われたくなくて、余計なこと言わないようにしてたんです」


その言葉に、真珠の胸の奥で何かがチクリと疼く。仕事ぶりは認めていたし、後輩としては可愛げのある青年。けれど彼がどれほど真珠という存在に思いを抱いていたか——彼女はまだ、知らなかった。


「…これから、よろしくね。有瀬くん」


「もちろんです。どこに行っても、先輩のサポートしますから」


有瀬はそう言い、どこか誇らしげに笑った。その眼差しに宿るものの正体を、真珠はまだ読み取れない。


搭乗アナウンスが流れ、ふたりはゲートへと歩を進める。異国の空へ。異なる価値観の地へ。だが、この再会は偶然などではなかった。


有瀬は最初から、真珠を追ってきたのだ。海の向こうでも、彼女の隣に立つために——



(……私の知らない場所。私の知らない人たち。そして――彼は、きっといない)


けれどその予想は、アメニアの白い宮殿の奥で、静かに裏切られようとしていた。


真珠は日常会話程度の軽い英会話はできますが、専門用語が飛び交うビジネスでは全く歯が立たないため通訳必須なんです。

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