おれのものにさわるな
場所はウルの執務室。
石造りの壁に夕陽が滲み、香炉の煙が薄く揺れている。机の上には積み上げられた政務書類。神前婚約式の誓詞案。全てが乱雑に散らばっていた。
ウルは椅子に座ったまま、拳を机に突き立てていた。血が滲むほど強く握られた手。青い瞳が鋭く血走り、荒い息を吐き続ける。
脳裏にこびりついて離れないのは、血だらけの真珠の体。彼女の泣き叫ぶ声。息を切らせながら「ウル、だけ」と泣いた顔。
その時、護衛が恐る恐る扉をノックした。
「……殿下」
無言。途端に空気が冷え切る。
護衛は喉を鳴らし、声を絞り出した。
「……医師から連絡が……」
ウルの瞳が僅かに動く。刺すような視線を護衛に向けた。その目があまりにも冷たくて、護衛は声を詰まらせた。
「……真珠様は…後宮の居室では処置が……入院が……必要だと……」
一瞬、空気が凍りついた。
ウルは動かない。だが、瞳の奥に狂気が瞬いた。護衛の背筋に冷たいものが走る。
次の瞬間。
「――っ!!!」
机を思い切り殴った。硬い木材が軋み、書類が弾け飛ぶ。インク壺が倒れ、黒い液が床に滴る。
「入院だと?」
低い声。だが、氷のように冷たく、爆発寸前の怒気を孕んでいた。
護衛が後ずさる。
「……で、ですが……殿下……命に関わると……」
ウルの目が細くなる。血走った青い瞳に、言いようのない痛みと殺気が滲む。
「誰の許しを得た」
吐き捨てるような声。あまりの怒気に護衛が震える。
「殿下、どうか……真珠様のために……」
ウルが椅子を蹴って立ち上がった。長衣の裾が乱れて揺れる。机の端を掴み、思い切り手を払うと、書類が散乱し硬貨が床に跳ねる。
「誰が入院など許した!!」
怒鳴り声が執務室を震わせた。護衛たちは全員頭を下げ、誰も顔を上げられなかった。
「俺のものを勝手に触るな。勝手に動かすな。……入院など、させるか」
護衛長が必死に声を上げる。
「殿下!! しかしこのままでは命が――!」
「黙れ」
声が壁に反響する。ウルの呼吸は僅かに乱れ、胸が上下する。額に汗が滲み、長い睫毛の奥で青い瞳が鋭く光った。
「……俺が治す。俺がやる。俺のものだ」
喉の奥で低く唸るように吐き捨てる。その声には、子供のような拗ねと狂気が入り混じっていた。
護衛が顔を伏せ、息を呑んだ。だが、震える声で告げる。
「……医師が……すでに点滴を……鎮痛と水分補正を始めています……」
ウルの瞳がギラリと光った。血走った視線が護衛を射抜く。
「勝手に……」
その呟きが獣の唸りに変わった。
「勝手に、俺の女に触るな」
その言葉と同時に、ウルは歩き出した。長い裾を乱しながら、床を踏み鳴らすように進む。護衛たちが慌てて後を追う。
「殿下、お待ちを!!」
ウルは振り返らない。無言のまま、医務室へ向かう廊下を真っ直ぐ進む。その背中からは、殺意にも似た気配が滲み出ていた。
⸻
医務室前。
扉の向こうでは医療女官たちが必死に点滴を繋ぎ、医師が真珠の身体を診ていた。
「血圧低下が続いている、急いで」
「水分補正を進めろ」
「秘部の腫脹が酷い、止血を優先しろ」
女官のひとりが顔を背け、泣きそうな声を絞った。
「こんなの……酷すぎる……噛む儀式がある事は知っていましたが…こんなの……」
アサナが歯を食いしばり、涙を拭った。噛む儀式、これはそんな生優しいものではない。まさに王太子としてこの国に君臨するための厄介な“オマケ”。
「黙りなさい。今は……真珠様を生かすことだけ考えるのです」
その時。
ドンッ!!!
扉が殴りつけられた。硬い木が軋み、女官たちが悲鳴を上げた。医師が手を止め、顔を上げる。
「な、なんだ!?」
再び。
ドンッ!!!!!
扉が大きく開き、枠が震えた。蝶番が悲鳴を上げる。
そこにウルが立っていた。
長衣の裾を引きずり、髪は乱れ、額に汗が滲んでいた。肩が上下し、呼吸が荒い。青い瞳は血走り、狂気を孕んでいた。
「どけ」
低い声。凍てつくような冷たさ。でもその奥には、壊れそうなほどの焦りと恐怖が滲んでいた。
女官たちが悲鳴を飲み込んで道を開けた。アサナだけが必死に真珠を庇うように立ちはだかった。
ウルの目が鋭く細まる。その青い瞳は、血と狂気と愛と憎しみでぎらぎらと燃えていた。
「どけ、アサナ」
声が低く震えた。まるで自分自身を抑え込むように。
アサナが震える声で返した。
「殿下、どうか、お控えください。真珠様は……これ以上は……」
ウルの拳が震える。血が滲むほど強く握られた。唇がひくつき、歯が軋む音がした。そして、喉奥から絞り出すように吐いた。
「俺のだ」
その言葉は命令でも、呪いでも、泣き言でもあった。
医務室に、痛いほどの沈黙が落ちた。




