惨劇の現場
陽が高く昇る頃、後宮内に走る足音があった。
休暇を終え、ようやく戻ってきた元乳母のアサナは、慌ただしく状況を確認していた。昨日の后様は神前婚約式の確認をされたはずだった。だが女官たちの顔色が青く、泣き腫らした目で震えているのを見た瞬間、全てが変わった。
「真珠様は……?」
声を絞り出すと、泣きそうな顔の女官が震え声で答えた。
「……、あの、王太子殿下が、お部屋に……今も……」
アサナの心臓が冷たく強張った。一瞬で血の気が引く。休暇を取っている間、何があったのか。どんな空気になっていたのか。自分がいたら止められたのかもしれない。
だが後悔している時間はなかった。アサナは踵を返し、後宮の廊下を駆けた。
真珠の居室前。女官長が蒼白な顔で立ち尽くしていた。護衛は気まずそうに目を逸らす。どうやら誰も止められなかったようだった。
アサナは深く息を吸い、そして扉を叩いた。
「王太子殿下。アサナでございます。入室をお許しください」
答えはなかった。ただ中から、重い息遣いと、布擦れの音だけがかすかに漏れた。
アサナは震える手で扉を押し開けた。香の煙が冷えた空気に漂う。陽光が寝台を明るく照らしていた。
その上に、真珠がいた。傷だらけで、痣と血にまみれ、息も絶え絶えでぐったりしていた。薄く腫れ上がった唇が小さく動き、声にならない呻きだけを吐く。
そしてその真珠を、ウルが抱えていた。裸のまま、汗に濡れた髪が乱れている。蒼い瞳は潤んだようにギラつき、欲望を滲ませたまま真珠の頬を撫でていた。
アサナは息を呑む。まさかこんな、“いつかあるだろう”とわかっていたはずが、想像以上の惨状に言葉が詰まる。
「……王太子殿下」
声を震わせないようにした。なんとか必死に平静を保つ。
その時、ウルは振り向いた。その目は血走っていて、焦点が定まらない。けれどアサナを認識した瞬間、僅かに目を細めた。
「出ていけ」
低い声だった。命令のように冷たい。けれどどこか自分自身に向けた苛立ちも滲んでいた。
アサナは唇を噛んだ。気力で震える声を抑え込む。
「真珠様を、こちらへ」
ウルは黙ったままだった。真珠の髪を梳く手が、震える。焦点の合わない目で自分の名前を呟く真珠を、ゆっくり見下ろす。
「……ウル、だけ……」
か細い声。その言葉にウルの喉が詰まった。青い瞳がわずかに揺れる。そこには、確かに「やりすぎた」と思う一瞬の罪悪感が滲んだ。
だが、次に口を開いたとき、その声は冷たく押し殺されていた。
「お前が悪いんだ」
真珠に向かって絞り出すように吐き捨てた。その言葉に、アサナは眉を寄せた。
「殿下」
鋭く呼ぶ。睨むような視線を受けたが、怯まなかった。
「――真珠様を」
長い沈黙。ウルの胸が上下していた。その瞳に渦巻く狂気と葛藤。
やがて、吐き捨てるように息を吐き、ゆっくりと真珠を解放した。その身体を、アサナへ押し渡すように突き出す。アサナは慌てて受け止めた。その身体の軽さに、血の気が引く。だが震える腕でしっかり抱きしめる。
「……真珠様」
小さく名前を呼ぶ。真珠の反応は弱い。目は半分閉じて、口元だけが動く。
「……ウル、だけ……」
アサナの心臓が絞られる。そっと清潔な布を取り出し、血と汗と涙にまみれた体を覆った。乱れた寝台に散らばった血染めの布を避け、きつく抱きしめる。
「もう、大丈夫です。私がいます」
真珠の頬を撫でる手が震えた。アサナの目尻に涙が滲む。
その横で、ウルが立ち尽くしている。裸のまま、陽光に照らされる筋肉が張り詰め、拳を握りしめていた。青い瞳が真珠を貪るように追った。まだ理性を繋ぎ止めているようでいて、その奥で炎のように欲望が揺らめいていた。
一歩、真珠へ近づこうとした。その瞬間、アサナが肩を入れて立ち塞がる。
「お下がりください、殿下」
声が震えた。でも目は逸らさなかった。ウルを睨み返す瞳は、真珠に仕える者としての決意で満ちていた。
ウルの眉がぴくりと動き、その奥の瞳が獣のように細まる。護衛たちが息を呑んだ。
長い、重い沈黙。
ウルはやがて、わずかに口角を歪めた。それは笑みというより、苛立ちと欲望を噛み殺すような動きだった。
「連れて行け、だが男に触らせるな」
吐き捨てるように言った声は、低くくぐもり、床を震わせた。
アサナは深く頭を下げ、そして真珠を抱え直す。血に濡れた布が重く、肌に張り付いた。
そのままゆっくりと寝台を離れる。背後でウルの視線が、熱を帯びたまま突き刺さった。まるで、獲物を奪われた獣のように。
「……ウル……だけ……」
アサナの目尻から涙が一筋落ちた。
「もういいです、もう大丈夫です……」
アサナは真珠の頬を撫で、声を殺して泣いた。
「……真珠様……」
それ以外に言葉が出なかった。
女官たちも蒼白な顔で周りを固め、誰もが泣き出しそうな顔をしていた。
「水を……水を持ってきて!清潔な布も!」
アサナは震える声で指示を飛ばした。女官たちが慌てて駆け出す。
その時、真珠が小さく呻いた。
「……ウル……」
かすれた声。それがまたアサナの胸を締め付けた。
「……もう、いいんです。私たちがついています」
アサナは腕を真珠の背に回し、そっと抱き上げようとした。だがその身体はあまりに軽く、そしてあまりに酷かった。
「アサナ様、これは……まさか」
震える声。若い女官が泣きそうな目で呟く。アサナは目を伏せ、歯を食いしばった。
「……王太子殿下から、男は触るなと厳命されています。女だけで運びましょう」
その言葉に女官たちが顔を見合わせる。恐怖と、嫌悪と、でも仕える者としての覚悟。全員が無言で頷いた。
アサナはそっと真珠を抱き起こした。
「……大丈夫、すぐに医務室へ行きます」
頬を撫で、血と涙で汚れた髪をかき上げた。真珠の目が少しだけ動いた。
「……ウル……だけ……」
またその言葉。アサナの喉が詰まった。
「……はい。殿下のところに戻るために、今はまずご自身のことを考えましょう」
アサナは合図を送り、女官たちと必死に運び出した。後宮の廊下を抜けるたび、他の侍女や警備の目がこちらに集まった。だが誰も声を上げられない。真珠の姿があまりにも酷かったからだ。
⸻
医務室。
扉が開かれると、薬草と消毒薬の匂いが鼻をつく。老医師が振り返り、目を見開いた。
「……なんと、」
思わず声が漏れた。
真珠を寝台に下ろすと、医師は手を伸ばしかけて、躊躇した。そこに広がっていたのは、噛み千切るように刻まれた歯型。引っ掻かれ、抓られ、爪痕で裂けた肌。青黒く広がる内出血。そして、腫れ上がり裂けた秘部から滲む血と白濁。
「……これは……」
絶句する。これを「性行為」と呼ぶのは、もはや嘘だった。医師は声を絞り出した。
「……これは、まさか、拷……」
言葉を呑んだ。それを口に出した瞬間、すべてが終わる気がした。国も、後宮も、そして真珠自身も。唇を噛み、頭を垂れた。
アサナが泣きそうな声で訴える。
「……どうか、どうか、真珠様を……」
医師は震える手を伸ばし、触診を始めた。指先に伝わる熱。脈は弱く、体温は低下している。軽度の失血。そして脱水。
「入院が必要です」
低い声で告げた。その言葉が重く落ちた。
アサナはすぐに頷いた。
「準備を」
医師が看護師たちに指示を出す。
「点滴を、今すぐだ。まずは水分補正、脱水を防げ。あと鎮痛剤を調合する」
真珠が小さく呻く。喉が掠れ、かすれた声が漏れる。
「……ウル……」
アサナは真珠の髪を撫でた。
「もう、言わなくていいんです。殿下のところに戻るために、治しましょう」
女官たちは涙を拭き、必死に手伝った。清潔な布で血を拭い、汗を拭い、包帯を巻き直す。
看護師は針を刺し、点滴を繋ぐ。真珠の脈は弱いまま。点滴は、それがまるで命の細い糸だった。
医師が渋い声で告げる。
「殿下には、絶対安静が必要と伝えてください。次にこんなことがあれば……助からない」
アサナは震えた手で目を覆った。涙を堪えながら、短く頷いた。




