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笑うんじゃない

会議室のような白い石造りの部屋から、真珠は書類を小脇に抱えて出てきた。長い会議だった。神官、文官、侍従長、女官長……誰もが王太子とその伴侶予定者にふさわしい態度で接していたが、その空気は冷たく張り詰めていた。


内容は婚約式の段取り確認。祭壇の装飾、神殿行列、参列者リスト、結びの儀の誓詞。真珠はきちんとメモを取り、必要なところは質問もした。完璧な“王太子妃候補”の振る舞いだった。


やっと終わりを告げた会議室を出て、真珠は安堵の息を吐く。石廊下の風が少し冷たく、汗ばんだ首筋に心地よい。その瞬間、軽い声がかかった。


「――真珠様、少しよろしいでしょうか」


振り返ると、黒い書類鞄を抱えた若い文官だった。

まだ20代前半か、中頃くらい。長衣の下から覗く手首は細く、緊張しているのか声が少し上ずっていた。


「先ほどお話しに出た神前の誓詞案ですが、神官側から追加修正が入りました。こちらに写しがございます。お手元の書類と差し替えをお願いいたします」


そう言って、きっちりした手つきで写しを渡してくる。真珠は瞬きしてから、穏やかに微笑む。


「ありがとうございます。急な修正でもきちんとまとめてくださって助かります」


受け取った紙束をめくり、端を揃え、抱えなおす。その所作が柔らかく、落ち着いていた。文官は頬を赤くして、少しだけ頭を下げる。


「いえ、こちらこそ、失礼いたしました……!」


真珠は軽く会釈を返し、そのまま歩き去る。何でもない、公務上のやり取り。けれど柔らかい言葉と礼儀正しい仕草。まるで日本にいた頃の彼女の“職業的な愛想”そのもの。


その様子を、少し離れた回廊の影で見ていた男がいた。


白衣を纏った護衛に視線を制されるのも無視し、

暗い柱の陰に立ち、鋭い紺碧の瞳が真珠と文官を追っていた。


ウル。


石の冷たさが背にしみても動かない。指先がゆっくりと拳を握りこむ。「ただの業務連絡」だと分かっている。真珠が笑ったのは愛想だと分かっている。


それでも。


――ああ、なんて柔らかい声だ。

――どうして俺以外に向ける。

――どうして、その顔を俺以外に見せる。


胸の奥に、泥のような嫉妬がじわじわ広がる。それは焼け付くように熱く、同時に氷のように冷たい感情だった。こんなことは些事だ。大したことじゃない。分かっている。だが目が離せなかった。


真珠が最後に軽く微笑んで去る姿を見届け、ウルは暗い影の中で、声もなく息を吐いた。


「……俺の、だ」


誰にも奪わせない。誰にも渡さない。どこへ行っても、伴わせる。目の届く場所に置く。もう閉じ込めるやり方ではなく、どこへでも連れていく。


そう決めたはずだった。


けれど。


――それすら、苦しい。


青い瞳がわずかに細められる。護衛が緊張して息を呑む気配を感じても、気にしなかった。心の中で冷たい言葉を吐き捨てる。


(殺してやろうか、あの若造)


その想いを、誰にも言わずに飲み込む。真珠がこちらへ戻ってくる気配に、ウルは静かに、冷たい仮面を整えた。



――――


書類を小脇に抱えたまま、真珠は廊下を歩く。長い会議で張り詰めていた神経が、まだ軽く痺れていた。保守派の襲撃未遂から間もない。こんな公的な打ち合わせでも、背筋を伸ばしていないと自分が飲み込まれる。だから、少し息を吐いて気を抜いた。そこへ、空気が変わった。


石廊下の先。柱の陰から、音もなく一人の男が現れる。


ウルだった。


真珠はわずかに目を見張る。さっきの打ち合わせ後、側近から何か伝言を受け取り部屋を出たはずだった。いつ戻ってきたのか、いつからそこにいたのか、全然分からない。


長衣の裾が揺れる。一歩、また一歩。まるで逃がさないように。周囲の護衛は距離を取り、誰も声をかけない。ウルの周囲だけが、異様に静かだった。


真珠は口を開きかけて、言葉を飲む。ウルの瞳が、鋭くて深い青だった。冷たく、けれどどこか血走った熱を孕んでいた。


「……ウル?」


それだけ、か細く呼ぶ声に、ウルは何も返さない。

ただ近づいてくる。


視線が絡む。青い瞳が、真珠の顔を隅々まで舐めるように見た。表情は硬い。怒っているようにも見える。けれどその奥に、暗い欲望が揺れていた。


真珠は息を呑んだ。それを見て、ウルの喉がごくりと動く。


無言のまま、彼は真珠のすぐ前に立つ。距離が非常に近い。鼓動が跳ねる距離だった。


ウルは視線を落とし、真珠が抱える書類束を見た。そして、ゆっくりと手を伸ばす。


真珠は条件反射で抱え直そうとして、止まる。ウルの大きな手が、無理やりではなく、けれど抗えない力で紙束を奪い取った。抱え、片腕に収める。空いたもう片方の手で、真珠の手首をそっと、しかし逃がさぬ強さで掴む。


「……」


やっぱり何も言わず、ただ、真珠を見下ろしている。瞳が深く沈み、闇を孕む。声を発さない分、その感情が痛いほどに伝わる。


――お前は俺のものだ。

――誰にも触れさせるな。

――どこにも行くな。


言葉にしない代わりに、ウルの手が真珠の手首を握る圧が増す。でも決して痛くはしない。その執着だけが、滲むように伝わった。


真珠は眉を寄せて、小さく息を吐く。


「……ウル」


呼ぶ声は、困惑とも、抗議とも、諦めともつかない。


ウルはその声に、やっとわずかに目を細めた。口元がほんのわずかに動く。笑っているようにも見えた。でもその笑みは冷たく、鋭い。


「帰る」


たった一言。低い声が喉の奥で響く。


そして、強引ではなく、しかし決して拒めない力で手を引いた。真珠を自分の隣に引き寄せ、そのまま廊下を歩き出す。背後で護衛たちが慌てて隊列を組む音がした。でも二人の間は、静寂だけが支配していた。


石造りの廊下に二人の足音が響く。真珠は連れられるまま、ウルの横顔を盗み見た。


暗い瞳。固く結ばれた口元。その奥に滲む、狂気にも似た愛情。


心の中で小さく震えた。それでも歩みを止めなかった。


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