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神官長という老人

厚い石壁に囲まれた神殿奥の控室は、香の煙が満ちていた。銀のランプに映る光が彫刻を照らす。天井近くの壁には古代文字で聖句が刻まれている。


中央には年老いた神官長。白髪を結い、額に銀の冠を載せ、杖を支えに座っていた。その目は白濁していたが、鋭さを失っていなかった。

 

この国の宗教において、彼の立場は特別である。王国の精神を支える「神の声」。神官長とはつまり神の声を代理する者、その権力は絶大だった。子供の頃のウルを膝に抱いたことすらある男である。


扉がゆっくりと開いた。青いドレスの裾が引き摺られ、真珠が入ってくる。その後ろにウルが立っていた。影のように無言で。深い青の瞳が全てを威圧していた。


神官長はウルを見上げ、乾いた声を出した。


「……殿下。あなたが后を連れてくる日が来るとはな」


ウルは一瞬も目を逸らさず睨み返した。しかし言葉は吐かない。


対する真珠は、深く礼をした。震えはあったが、よく通る声が控室に柔らかく響く。


「神官長様。お時間を頂き、感謝いたします」


そのアメニア語は、まだ固さは残るものの流暢だった。神官長の眉が僅かに上がった。


「ようこそ真珠殿。素晴らしい挨拶ですな」


穏やかな笑み。だがその瞳の底は、まったく伺い知ることはできない。神官長はスッと表情を消してウルに向き直る。


「お前は、何を望んでここへ来た」


ウルはゆっくりと背筋を伸ばした。


「神前婚約式を行う」


その言葉を聞き、神官長は一瞬目を伏せる。そしてゆっくりと問い返した。


「それは、お前一人でだな」


「違う」


ウルの声が鋭く、しかしはっきりとした。


「俺はこの女を伴う」


「王太子よ。神前婚約式はお前一人が神に誓いを立て、王として妻を迎える覚悟を示すもの。女を連れてはならぬ。それが古からの掟だ」


老神官の声は決して怒号ではない。だが静かで重い。


ウルの青い瞳が鋭く光る。


「知っている」


「ならば、なぜ掟を破ろうとする」


ウルは息を吐いた。指先が微かに震えたが、すぐに握りしめる。


「真珠は異国の女だ。この国の血を引かず、この国の神を知らない。だが俺は、この女を正妃とする」


対する神官は、静かに答えた。


「お前がそう望むなら、それだけで充分だろう。お前は王太子、やがては王だ」


「だめだ」


ウルの声が低く唸るようになる。


「俺が認めるだけでは足りない」


神官長は長い沈黙に沈んだ。香がゆらりと揺れる。


「……これまで后は王太子の所有物だった。承認は王太子が代わりに受ける、それが伝統だ。后が民に頭を下げ、神に誓うなど前例がない」


真珠は静かに神官長の話を聞く。前例のないこと、それを覆すことの大変さは、想像に難くない。


「お前は、神の前でその女を抱きしめるのか」


ウルは短く答えた。


「そうだ」


間髪入れぬ返答に、神官長は静かに目を閉じる。


「お前がここで誓うなら、真珠殿にも神の名を呼ばせる覚悟をさせろ。儀式に連れてくるなら、この国の娘以上の誓約をさせる。神の証を求めるのだ。それでも良いか」


ウルは少しの迷いもなく頷いた。


「構わない」


「彼女は異国の神を捨てることになる。それでもお前は望むか」


「捨てさせる」


神官長は深く息を吐き、目を開く。その瞳は老獪で、それでもどこか慈悲を滲ませていた。


「……王太子。お前は本当に、この国そのものをお前の女に抱かせる気だな」


真珠は座ったまま、震えた息を呑んだ。この国の神に、自分の覚悟とやらを示さなければならないという未来が、まだ現実とは思えなかった。そもそも、この国の娘以上の誓約とはなんなのか。自分の神を捨てるとは。いまいちよくわからない内容で、でも話の腰を折るなんて、そんな真似もできなくて。


真珠は俯いたまま、白い石床に落ちる自分の影を見つめた。香の煙が細く揺れる。その向こうで、ウルと老神官が視線を交わしているのが分かった。


静寂が重たかった。何かを拒否する言葉も、受け入れる言葉も出てこない。その横で、ウルは片手を真珠の腰に当てていた。その手は温かいが、全身から殺意が滲んでいた。


「認めろ」


低く、抑えた声だった。


「俺の后だ。この女を拒む者は、俺が殺す」


神官長は動じない。むしろ小さく鼻で笑った。さすが幼い頃のウルの泣き顔も知る男だ、彼の威嚇がまるで効いていない。


「だからお前は未熟だ。殺すことと導くことは違う」


ウルの目が細く光り、室内が張り詰める。


その時。真珠が小さく息を吐いた。そして、神官長に正面から視線を戻した。


「お言葉、痛み入ります。ですが……私は王太子殿下の后である前に、この国の民です。神を畏れ、神に仕える民です。王太子の所有物ではありません。この国の未来を担う后である自覚があります」


神官長の白濁した瞳がわずかに揺れた。


「……言葉だけなら誰でも言える」


真珠は深く頭を下げた。


「はい。だから私は民の前で誓います。王太子殿下の愛に応え、この国を支え、神に仕えるとどうか、その機会をお与えください」


その声は震えていたが、はっきりと響いた。


長い沈黙。香の煙がゆらめき、彫刻に影を落とした。聖職者長は杖を握り締めた。


ウルは一言も発さず、真珠の背に手を添えている。その紺碧の瞳は「拒むなら殺す」と告げていた。だが神官長は、あくまで真珠を見つめる。やがて低く、絞り出すように言った。


「……あの男に足りぬものを、お前が持っているのだな」


真珠は息を呑み、そっと顔を上げた。神官長は笑っていなかったが、その声は柔らいだ。


「よかろう民の前で、お前自身に誓わせよう。それがこの国の后となる試練だ。神はお前を見極めるだろう」


ウルの指が、真珠の腰を僅かに強く掴んだ。ウルは無言で頷く。次に、神官長は静かに首を縦に振った。


「だが儂の名で軽々しく赦しは出さぬ。神前婚約式を行うなら、その覚悟を国に示せ。お前だけでなく、真珠殿もともに」


ウルは口元を僅かに緩める。それは笑みというより、獲物を捕えた猛獣のような表情だった。


「望むところだ」


真珠も頷く。


「ありがとうございます」


神官長は、最後にちらりとウルを見る。


「お前も分かっておけ。所有物ではなく、后を得るということがどういうことかを」


ウルは答えなかった。ただ、真珠を抱くように引き寄せた。


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