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水を得た魚

石造りの高い天井に、熱を帯びた空気が滞っていた。分厚い書類棚が壁際に整然と並び、革張りの長机がいくつも連なっている。役人たちは筆記具を走らせ、計算盤を叩き、声を潜めて命令を伝えていた。


その空気は、王族の到着を告げる号令で一変した。


『王太子殿下ご到着!』


全員が一斉に立ち上がり、頭を深く下げる。ペンが机から転がり落ちても、誰も拾おうとしない。張り詰めた緊張が、瞬間的に部屋全体を包んだ。


重い扉が開く音が響く。最初に現れたのはウルだった。黒地に金糸を走らせた刺繍の正装。紺碧の瞳は細く冷たく、息を飲むような威圧感を放つ。その気配だけで、財務院の空気が二段階冷えた。


そして、ウルの後ろから真珠が姿を現した。深い青に繊細な銀糸を散らしたドレスは、アメニアの伝統柄を意識して誂えたもの。額には薄い金の飾りをあしらい、長い黒髪は編み込んでまとめられている。その瞳は、ウルと同じくらい真っ直ぐで、冷静だった。


主任格の役人が顔を上げ、声を震わせる。


『よ、ようこそお越しくださいました、王太子殿下、お后様……!』


ウルは視線だけを落とした。その声は低く、鋭い。


『書類は』


『は、はいっ!』


副官が両手で抱えるようにして厚い綴りを持ち、恐る恐る差し出す。それをウルは受け取ろうとしなかった。そっと、横に立つ真珠に視線を送る。


『真珠』


低く響く声で、名前を短く呼ぶだけ。真珠は頷き、柔らかく微笑んで受け取った。


『ありがとうございます』


流暢なアメニア語。その一言に、役人たちの間で微かなざわめきが走る。


『……后殿下、アメニア語を……』


『いや、前より上手くなってるぞ…』」


真珠は護衛が下げた椅子に腰を下ろし、静かに書類を開いた。紙の上に、アメニア語がびっしりと書かれている。経費項目、支払い先、還付金、備蓄量、中央からの配分、村落への割当。


その書類を、真珠の指がさらさらと行をなぞる。徐々に目が細くなり、自然と唇が動く。


『水路修繕……昨年より減額……還付金……変動……』


おもむろにペンを取る。護衛が差し出したインク壺を受け取る手は落ち着いていた。


『……』


真珠は小声でアメニア語の数字を読み上げながら、机上の計算盤を弾いた。


『5800……。割当は6000……』


その時眉が僅かに寄る。もう一度、前のページに戻る。そして指で数字をトントンと叩いた。


『……』


周りの役人たちが、不安げに顔を見合わせ始めた。副官が咳払いをして声をかける。


『お后様……なにか?』


その声に、真珠は顔を上げた。その顔は微笑んでいたが、瞳の奥は冷たかった。


『すみません。……この還付の計算が合わないのです』


主任が慌てて机に駆け寄る。


『ど、どこでしょう……』


真珠はページを開いて見せた。


『こちらです。東部の水路修繕予算。還付金が200単位、帳簿と一致しません』


『え、ええと……』


主任の声が裏返り、部屋のざわめきが増した。


真珠は、あえて優しく首を傾ける。


『小さなミスでしょうか?』

 

『そ、それは……』


思わず声が詰まる。だが真珠は視線を外さなかった。


『書き間違いですか?』


『え、えっと……』


男のペンを持つ手が震えた。真珠は構わず再びペンを取り、メモを取り始める。


『南西部農業補助費……こちらも減額の内訳が不透明です』


また別の一行を指差す。


『この数字も合いません』


主任が青ざめた顔をして、返事を失った。護衛たちですら視線を交わし、静かに息を呑む。


ウルは背後で腕を組み、氷のような瞳を向けていた。だがその口元は微かに動いていた。まるで笑っているかのように。


真珠は計算盤をそっと置き、手を組む。


『すみません、説明をお願いできますか』


『……』


『間違いであれば、それで結構です』


しどろもどろになりながら、主任役人は声を絞り出した。


『そ、それは……』


真珠は少し微笑んだ。


『では、出納係を呼んでください』


その瞬間。部屋の温度が一気に下がったようだった。途端に副官が走り出し、出納係が慌てて呼ばれる。駆け込んできたのは、書類を抱えた若い出納係だった。頭を下げ、顔を上げたときには既に顔色が悪かった。


『お后様……』


場違いなほど、真珠は柔らかく頷いた。


『こちらをご覧ください』


開かれたページを指で示す。


『この減額されたお金は、どこにいったのですか』


途端に、出納係の目が泳ぐ。


『え……あ、えっと……』


『書類に内訳がありません』


『そ、それは……』


出納係の声がどんどん小さくなる。それに合わせるように、真珠は声を落として囁いた。


『……隠しましたね?』


その声は、柔らかく、しかし背筋に氷を落とすようだった。


観念したかのように、出納係が膝から崩れる。


『……申し訳ありません……!』


真珠は僅かに首を傾げた。


『命令されたのですね』


『……』


『誰から』


出納係は震えながら唇を噛んだ。


『……副局長補佐です』


部屋が水を打ったように静まり返った。ペンを持つ手が止まり、帳簿を閉じる音もなくなる。


護衛たちが構えるように一歩踏み出す。


氷のような冷たい紺碧が、場の空気をさらに冷やすようだった。


真珠はペンをそっと置いた。深い青いドレスが静かに揺れる。


『ありがとうございます。話してくださって』


真珠の声は優しさにあふれ、出納係の目に涙が滲んだ。


『申し訳……ありません……』


真珠は静かに首を振った。


『謝罪は後でいいです。今、真実を話してくれたことに感謝します』


それを聞いていた役人たちが、震えたように背筋を伸ばす。主任も副官も声を失い、真珠の一言を待つしかなかった。


そして、その全てを黙って見ていたウルが、ようやく口を開いた。


『真珠』


その声は低く、しかし響いた。真珠が静かに振り向く。


『……やれ』

 

その一言は、まるで裁きの宣告のようだった。その一言に、護衛長が小さく頷き、部屋の扉へ合図を送った。護衛がすぐに走る。


真珠は少しも動じなかった。ペンを置いた手を組み直し、机の上の書類をゆっくり揃える。周りの役人たちは固まったように動けない。紙をめくる音も、計算盤を弾く音も消えた。


室内の空気は、夏の午後なのに冷たく、粘つくようだった。ウルは背後に立ったまま、微動だにしない。紺碧の瞳が鋭く全体を睨む。視線が交わっただけで、役人たちは息を詰めた。


『副局長補佐、到着!』


その時、護衛の声が響いた。扉が重く開き、革靴の足音が近づく。現れた男は中年、分厚い役人服に飾り帯を締めた官僚だった。厳格さを纏い、普段は威圧的に振る舞っているのだろう。だが今は、明らかに顔色が悪い。首筋に汗を浮かべ、目を泳がせながら頭を下げた。


『お后様……王太子殿下……』


ウルは一瞥をくれただけで口を開かない。この場の全てを、真珠に任せているのだ。


真珠は席を立ち、書類を抱えたままゆっくりと前に出る。その動きは無駄がなく、静かで、それでいて威圧感を放った。


『こちらに』


彼女の指が示したのは机の前の椅子だった。副局長補佐は躊躇いながら腰を下ろす。スッと護衛が左右に立った。


真珠はゆっくりと書類を開き、アメニア語で書かれた数字を指でなぞる。


『こちらの還付金の内訳ですが』


声は落ち着いていた。むしろ優しいと言っていい。


『説明をお願いできますか?』


副局長補佐は声を詰まらせた。


『……それは、会計上の都合で……』


『どのような都合でしょう』


『え、ええと……』


『書類にはありません』


ページをめくって見せる。


『内訳も記載がなく、別帳にも転記がありません』


『……』


真綿でじわじわ絞められるとはまさにこのこと。男の喉がごくりと鳴った。


部屋中が見守っていた。副官たちは額に汗を浮かべ、ペンを置いたまま動けない。若手の書記官たちは青ざめていた。ウルは背後で腕を組み、口を閉じている。だがその紺碧の瞳は、鋭利な刃物のように副局長補佐を睨みつけていた。


真珠はもう一度、柔らかく声をかけた。


『では、どなたの指示で、この記録を削りましたか』


『……』


『個人的な判断ではないはずです』


『……私は……』


男の声が途切れる。真珠は静かに待った。あくまで穏やかに、でも逃げ道を与えない目で。


そして、ついに男は口を開いた。


『……上層部の指示です』


『具体的には』


『……次官から……』


周囲がどよめく。それをウルの声が一瞬で制した。


『静まれ』

 

その一言で、誰も息を飲む音すら立てなくなった。


真珠はそっと書類を閉じた。


『財務院次官の命令で、予算を減額し、その分をどこかへ回したと』

 

『……はい』


『用途は』


『……分かりません』


『……分からないはずがありません』


その声はまだ優しい。だがその響きは凍りつくほど冷たかった。


あまりの圧に、男が崩れ落ちそうになる。真珠はそれを制するように、そっと手を上げた。


『あなたの責任ではないとは言いません。ですが、今ここで真実を話したことは、必ず考慮します。その上で、王太子殿下と私が裁きを決めます』


ウルは微動だにせず、ただ真珠を見ている。その瞳の奥で、何かが確かに変わった。口元がわずかに動くも、言葉は吐かない。全てを真珠に任せた。


周囲の役人たちは固まっていた。何人かは冷や汗を拭くことも忘れ、真珠を見つめ続けている。


あの外国から来た后。アメニアの言葉を流暢に操り、数字を読み解き、官僚の嘘を暴いた女。声を荒げず、だが静かに逃げ道を断った。


真珠は書類を閉じ、ゆっくり息を吐いた。


『ここにいる皆さん』


室内に声が柔らかく響く。全員が彼女を見た。


『私は王太子の后です。アメニアの未来を守る義務があります。これを看過することは、民を裏切ることです。そして、私たち自身を裏切ることです』


物音ひとつ立たない部屋の空気が張り詰めた。


真珠は深く頭を下げた。


『私は后として、この改竄を断罪します。そして、再発を許しません』


誰も声を上げなかった。ただ、ひたすら静寂だった。


そして、ウルがようやく口を開く。低く、鋭く。


『全員聞け』


その声だけで役人たちが背筋を伸ばした。


『后の言葉を記録しろ。そして今日、この場で起きた全てを家族に伝えろ』


誰も返事をしなかった。ただ、深く深く頭を垂れるだけ。恐怖と、同時に何か別の感情がそこにあった。畏敬、あるいは、服従。


『再び同じことをすれば、二度と王宮には戻れないと知れ』


 ウルの声が低く響き、石造りの執務室に重く落ちた。


もう誰も返事をできなかった。全員が深く頭を垂れ、指先を白く握り締めていた。ペンを落とした若い書記は、拾うことも忘れて額を机につけるように頭を下げた。


真珠は書類を閉じ、ゆっくりとした所作で革紐をかけた。その指先は一度たりとも震えなかった。


ウルは後ろからその動きを見ていた。背筋を伸ばし、片手を組んだまま。瞳は深い碧に沈み、光を鋭く反射していた。だがその奥にあったのは、静かな評価だった。


主任役人は、脂汗をにじませながら震えた声を絞る。


『……お后様……申し訳……ございません……』


真珠は視線を落とさない。ただ、首をわずかに傾けただけだった。


『許しを請う前に、正してください』


役人の顔が青ざめ、しかし頷いた。


『……はい』


副官も同じように息を詰める。机の端を握りしめる手が白くなった。それでも、目を逸らせない。外国人の女。だが、后。誰も逆らえないお后様の命令。


若手の書記官は、膝をついたまま嗚咽を飲み込んだ。


『……俺たち……終わった……』


先輩に肘で小さく突かれた。


『黙れ』


それ以上、何も言えなかった。


真珠は深く息を吸い、ゆっくりと吐く。


『……今日、この場で起きたことを忘れないでください。私は后として、アメニアを守ります。皆さんにも、それを助けてほしい』


その声は震えない。静かに、でも絶対に後退しない強さを帯びていた。


頭を下げる音が揃う。石の床にぶつかるような重い音だった。その音を、真珠は黙って聞いた。


『……解散』


ウルの一言は鋭く、切り裂くようだった。


『后の前から下がれ』


役人たちが一斉に立ち上がる。誰も目を合わせない。机を回り込み、護衛に誘導され、後ずさるように部屋を出ていった。靴音が床に響き、次第に遠のいていく。


そして扉が重く閉じられた。部屋にはウルと真珠、そして数名の護衛だけが残っている。空気が落ち着いたというより、張り詰めたままの静寂が落ちた。


真珠は革紐でまとめた書類を抱え、机の前に立ったまま、その背筋はまだ伸びている。頬は紅潮していたが、呼吸は一定だった。


ウルは動かず、じっと真珠を見つめていた。瞳が細まり、その奥で微かな光が揺れた。


ゆっくりと、ウルが前に出る。革靴の音が石の床を打つ。真珠が反射的に顔を上げた。二つの視線が交錯する。ウルはすぐには何も言わなかった。その紺碧の瞳は、真珠の瞳を逃さない。やがて低い声が落ちた。


「……よくやった」


真珠は一瞬目を見開いた。


「……ありがとうございます」


声は小さい。だがはっきりしていた。


「ただ、少し……震えています」


ウルの眉がわずかに動いた。真珠は小さく息を吐く。


「でも、止めません。私は后だから」


ウルは目を細める。唇が、鋭さを帯びたまま僅かに歪む。


「震えてもいい。それを隠さず立つのが后だ。それを隠させるのが、俺の役目」


真珠は、ゆっくり頷く。


「……はい」


ウルは一歩近づき、真珠の手から書類を取った。革の束を軽々と抱え、護衛に渡すように顎で示す。


「後は俺が持つ」


真珠の頬が、少し緩む。


「ありがとう」


ウルは返事をしない。ただその瞳を逸らさず、真珠を見つめたままだった。鋭く、でも離さない目で。


護衛たちは視線を落とし、一歩下がる。後宮で見慣れた「支配者とその后」ではない。今日は、王太子と后の二人だった。王宮に長く仕える老護衛は、そっと目を伏せる。


「……あのお后様、やるな」


「しっ」

 

若い護衛が慌てて肘で小突いた。


ウルはおもむろに手を差し出す。真珠は一瞬ためらい、でも素直に手を取った。

 

「行くぞ」

 

「はい」


彼の大きな手に引かれ、真珠は歩き出した。執務室を出ると、廊下に並ぶ護衛たちが一斉に頭を下げる。その背筋は、先ほどよりも真っ直ぐで、后を伴う王太子を迎える礼儀として、完璧だった。


真珠は小声で呟いた。


「……私、間違ってなかった?」


その問いに、ウルは前を向いたまま答える。


「間違っていたら、俺が止めていた」


「……」


「お前は今日、后だった」


真珠は一瞬目を伏せる。そして顔を上げ、前を見て歩いた。財務局からの長い石造りの廊下を歩き抜けると、外の空気が感じられる中庭に出る。護衛たちは距離を取り、目を伏せて背後に控えた。その時、完全に二人きりになった。


ウルは歩みを止めた。真珠も自然と足を止め、振り返る。紺碧の瞳が、真正面から彼女を射抜いた。さっきまで役人たちを威圧していた眼差しとは違う、だが鋭さを失わない目だった。


「……」


短い沈黙。ウルは腕を組み直し、少しだけ顎を引いた。低く、だがはっきりした声を落とす。


「どこで、あんな数字を読み、人を問い詰める術を覚えた」


真珠は一瞬目を瞬かせる。それから、すぐに表情を緩めた。まるで、何か小さないたずらが成功した子供のように、口元を隠す仕草をした。そして視線を上げ、ウルを見据えた。


「……前の仕事で、似たようなことをやっていたから」


その声はどこか誇らしげで、でも気恥ずかしそうでもあった。額の飾りが光を反射し、彼女の瞳がきらりと光る。


「数字を読むのは好きなの。嘘を見つけるのも。人に説明を求めて、逃げられないようにするのも、慣れてる」


ウルは微動だにせず、その言葉を受け止める。だが口元が、いつもよりわずかに強く引き結ばれた。顎の筋肉が僅かに盛り上がり、その目に読めない感情が渦を巻いていた。


真珠はそれを見逃さなかった。ちょっと首を傾げ、いたずらっぽく笑う。


「……驚いた?」


ウルはほんの一瞬だけ視線を逸らす。それはほとんど誰にもわからないくらい短い仕草だったが、真珠には分かる。だが次の瞬間には、もう鋭く戻ってきた。声は低く、吐き捨てるように言う。


「……そうでもない」


真珠はその言葉を聞き、思わず吹き出す。口元を手で押さえ、肩を小さく揺らして笑った。声を抑えきれない。


「……ふふ。そっか」


目尻が柔らかく下がる。


「……ウルって、本当にそういうところは変わらないよね」


ウルは表情を崩さない。だがその紺碧の瞳が、僅かに柔らかくなる。風が吹き抜け、真珠の青いドレスの裾を揺らした。ウルは真珠をじっと見つめた。その視線は、冷たくもなく、威圧的でもなく、ただ深かった。ひたすらに、真珠という存在をその目に刻みつけるように。そして、ごく低い声で、誰にも聞こえないように言った。


「……お前が后で良かった」


真珠は目を瞬かせる。その頬に、ゆっくりと赤みが差した。言葉を失い、少しだけ視線を逸らし、でも、またウルを見た。柔らかく、でも真っ直ぐな声で。


「……ありがとう」


ウルは小さく鼻を鳴らした。


「礼は要らん」


それでも、その目が全てを物語っていた。誇り。絶対的な所有。この女を選んだ、自分を疑わない男の顔だった。


真珠はその視線を受け止める。怖がらず、逃げず、ただ頷いた。


「これからも、言うよ。嫌なことは嫌だって。」


ウルは短く息を吐く。


「……勝手にしろ」


でも、その声は、少しだけ掠れていた。


沈黙が落ちる。風が庭の砂利をかすかに鳴らした。ウルは真珠の方を向いたまま、一歩近づき、手を伸ばす。真珠はその手を取った。


二人はゆっくりと歩き出す。王宮の奥へ。后と王太子として。


だが何よりも、一人の女と男として。


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