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見えない努力

灼熱の陽光が射す王宮の石造りの回廊を、真珠は軽い緊張とともに歩いていた。青いヴェールが風に揺れるたび、真珠はその端を指先で押さえる。ウルはゆっくりと横を歩き、その紺碧の瞳が真珠を一瞥した。


「怖いか?」


ふと、低い声が落ちる。真珠は顎を上げた。


「当たり前でしょ。でも、あなたの隣なら行くわ」


その返答に満足したのか、ウルの口角がわずかに動く。だが何も言わずに先を促した。


王宮の中にある王太子府。その中にある王太子財務局に真珠たちはやってきた。


文官、役人、武官が入り混じり、報告書が山積みの机が連なる。埃の匂い、インクの匂い。真珠は緊張を隠さず、それでも真正面から中に入った。


最初に反応したのは若い文官だった。


「……あの、王太子殿下。后殿下は……ここは……」


ウルは冷たく答える。


「後宮の女ではなく、王太子妃だ」


それだけで空気が張り詰めた。誰も逆らえない。重い扉が、ゆっくりと開かれ白く磨かれた床にウルの長い影が伸びた。真珠は軽やかにドレスの裾を直し、その後に続いた。


周囲にはウルの側近たちが並んでいる。文官、護衛、王宮の役人、そしてアサナ。

 

突然の王太子の登場、そして本来ならこの場にいるはずにのない“女”。一気に部屋の空気が張り詰める。そんな中、特段いつもと変わらず、ウルの視線はその場にいる全員を射抜いた。


「進捗を報告しろ」


いつもの低い声に、誰もが息を詰める。文官が震えながら書類を差し出し、アメニア語で矢継ぎ早に数字と名前を読み上げた。その発音は固く、緊張のためか喉を詰まらせた。詰まるたび、ウルの眉がわずかに寄る。苛立ちを感じ取った側近たちの顔が青ざめていった。


しかし――その時だった。


真珠は一歩前に出て、背筋を伸ばし、声を上げる。


「失礼。続きを私にください」


突然のことに、文官が目を剥く。


「は……お后様、ですが……」


「いいから」


真珠は柔らかく、しかし命令する声で遮った。戸惑いながらも渡された書類を手に取ると――真珠は澄んだ声で読み上げた。


完璧なアメニア語で。流れるように。数字、地名、人名、役職、礼儀的な敬称まで。全て正しく。


その場が静まり返る。文官の口が半開きになり、護衛たちが顔を見合わせた。ウルすらも、その鋭い紺碧色の瞳を細めた。


「……今、何と言った」


低い声で問う。真珠は顔を上げた。その顔は、薄く、意地悪な微笑みを浮かべていた。


「アメニア語で報告を続けただけですけど?」


周囲が息を呑む音が響いた。


ウルの喉が鳴る。あの冷静な男が、一瞬だけ目を見開いた。


「……どこで、覚えた」


真珠は小さく肩をすくめた。


「アサナがずっとそばにいてくれたから。教わったの」


アサナは後ろで静かに頭を下げる。だがその頬はわずかに緩んでいた。


それを見たウルの目は、スッと細くなる。その瞳の奥で、驚きと苛立ちと、抑えがたい喜びが入り交じった。


「俺に報告がなかったが」


低い声が響いたが、真珠はその声に目を逸らさなかった。


「別に。驚かせたかっただけよ」


その声は、まるで昔の真珠のように挑発的だった。


「だって私、王太子妃ですもの。アメニアの言葉も分からずに、あなたの隣には立てないでしょ?」


真珠の言葉に、ウルは息を止めた。そして、わずかに眉を上げる。その紺碧の瞳が射抜くように真珠を見つめる。だが言葉が出なかった。あれだけ他人に命令し、叩き伏せ、全てを意のままにしてきた男が、一瞬言葉を失った。


真珠は涼しげに視線を返す。その瞳は、確かにアメニアの后のものだった。誇り高く、冷たく、しかしその奥にはウルしか知らない温かさがあった。


ウルはゆっくり息を吐き、そして絞り出すように言った。


「……良い」


その声はかすかに掠れていて。


「その調子で、俺の横に立て」


真珠は柔らかく微笑んだ。


「当たり前でしょ。私はあなたの后なんだから」


周囲は誰も声を出せなかった。ただ、あの氷のような王太子が、その場で僅かに息を詰める様を目撃し、見てはいけないものを見てしまった気がした。


そして次の瞬間、鋭い声が全員に命じた。


『――全員、聞いたな。今後、后への報告はアメニア語でのみ行え。そして、この女の言葉を法だと思え』


真珠はゆっくりとウルの横に歩み寄り、軽く礼をする。そして、アメニア語で告げた。


『ご命令、確かに』


ウルの指が一瞬震える。しかしその目は、獲物を離さない獣のように細められていた。


「――真珠」


低い声でその名を呼んだ。


「二度と、俺を驚かせるな」


真珠はくすりと笑った。


「無理ね。だって、あなたをもっと驚かせたいもの」


無邪気に笑うその姿は、ウルが求めてやまないものだった。あまりに眩しいその笑顔に、ウルは自分の選択が間違っていないことを改めて噛み締めた。


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