怖い男
食後の静けさが、部屋を包んでいた。テーブルの上には食器の残骸が残され、スプーンがカップの中でわずかに音を立てた。真珠は椅子にもたれ、コーヒーカップを口元に運ぶ。苦味の効いた一杯が、ようやく気を落ち着かせてくれる。
ウルは対面でグラスを転がしながら、じっと彼女を見ていた。その視線は獲物を見る肉食獣のようで、けれどどこか陶酔すら感じさせた。
真珠はゆっくりと目を閉じ、吐息と共に笑みを浮かべた。それは、あくまで丁寧な拒絶の笑顔。
「お帰りは、あちらです」
真珠は、すっと手のひらをドアの方へ向けた。まるで接客マナーのように、美しく洗練された追い出し方だった。
ウルの目がわずかに細まり――口元が、ゆるやかに吊り上がる。
「…君は本当に面白い。この状況で、俺に対してその態度が取れる女が、他にいると思うか?」
「いるんじゃないですか?興味ないですけど」
真珠は即座に返し、椅子を引いて立ち上がった。背筋は真っすぐで、恐怖も戸惑いも見せない。だが、それでもウルは一歩も動かない。まるで、「帰る」という発想が彼には存在していないかのように。
「…まだいるつもり?」
「悪いか?」
「悪いに決まってるでしょう。ここ、私の部屋よ。あなたのじゃない」
そう言うも、ウルに鼻で笑われるだけだった。なぜ動こうとしないのか、しびれを切らした真珠は、そのままバッグを手に取り、ドアへと向かう。
「…鍵を開けて部屋に入ったのはホテル側。なら、フロントに文句を言えばいい」
低く呟きながらドアノブに手をかける。
だが、背後からふわりと声が飛んできた。
「…ああ。やっと君が動いた」
その声は、なぜか異様に耳に残った。振り返ると、ソファにかけていたウルが、まるで最初から立っていたかのように、ゆっくりと、彼女の方へ歩を進めてくる。そして――ドアの手前、数歩先で立ち止まり、彼女の視線を真正面からとらえる。
「今夜は、俺が折れてやる」
笑っていた。だが、その笑みはあまりにも整いすぎていて、恐怖を煽った。
「そう、君はまだ準備ができていない。無理に囲えば、美しいものが濁る」
「……は?」
「そうだな、今日のところは引こう。だが忘れるな」
ウルは彼女の耳元すれすれを通るように、低く言った。
「君がどこへ逃げても――俺は、必ずそこに立っている」
そしてウルは、軽やかにドアを開け、何もなかったような足取りで部屋を出ていった。数人の黒服たちが無言で中に入り、手際よくテーブルを片付けていく。ほんの数分後、すべての痕跡が――なかったことのように消えていた。
静寂が戻った室内に、真珠はただひとり取り残された。ソファに視線を向けても、そこにウルが座っていたことを示すものは、何もなかった。
思い返せば、ウルと偶然バッタリ会う時、周りにウル以外いただろうか?エレベーター前でも、ブティックでも、スパでも、カフェでも...!気にし出したら止まらない。
その場に立ち尽くしながら、ふと心の底から湧き上がった感情があった。
――逃げられないのかもしれない。
彼の目。
彼の言葉。
彼の笑い方。
それらが、まるで檻のように、ゆっくりと自分の周囲を囲っていく感覚。まだ鎖は巻き付いていない。けれど、逃げ場はもうすでに失われている。そんな気がしてならないのは、自分の考えすぎだろうか。
真珠は、震える指先でカップを持ち直し、冷めたコーヒーを口に運んだ。その苦味は、まるで目の前の男が残した感情の残骸のようだった。