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王者の勘

出立の前夜。後宮の回廊をゆっくり歩きながら、ウルは一度も真珠から目を離さなかった。


部屋の奥で小さく笑い、アサナと話すその姿を、脳裏に刻むように見つめていた。だが、どうしても拭えない感覚があった。どんなに綺麗な宮殿でも、どんなに厚い石壁でも、どんなに多くの兵を置いても。心が騒いだ。


「……」


自分は猜疑心の塊だと自嘲する。だが、その勘は間違っていたことがなかった。


『アサナ』


老女を呼び止めた時、彼女は静かに頭を下げた。


『殿下』


『真珠を頼む』


『心得ております』


『何があってもだ。お前だけは、最後まであいつの傍を離れるな』


アサナは目を伏せたまま、唇を引き結んだ。


『……坊っちゃまは、何か感じておいでなのですね』


『不穏だ』


低く吐き捨てた声に、自分でも苛立ちが滲むのを感じた。


『何が起きてもおかしくない』


アサナが静かに頷いた。


『承りました』


それだけでいい。王太子の勘は無視できないのだから。

 

アサナが了承するのを確認し、ウルは踵を返す。その夜、彼は兵たちを集めて命じた。


『後宮の警備を増やせ。交代シフトを変えろ。内通者を洗え』


『王太子殿下、いくら何でも過剰かと…』


紺碧の瞳が冷たく光った。


『お前の仕事は俺を止めることか』


兵は震えながら「はっ」と頭を下げた。その様子に、ウルは口の端を歪めた。


『やれるだけのことをやれ。それでも足りない』


『承知しました』


兵が散っていった後も、ウルは庭に立ち尽くしている。夜風が裾を揺らす中、目は後宮の奥を捉えていた。


『……檻だ。お前を閉じ込めた俺の檻』


それなのに、不安は消えなかった。




そして外国の離宮。


執務室に積まれた書状は山のようだった。だがウルは狂ったようなスピードで署名し、命令を下し、決裁を取った。


『次だ』


『殿下、少しお休みを――」1


『次だと言った』


側近たちは青ざめ、目の下に濃い隈を刻んだ。それでも誰も文句は言えなかった。紺碧の瞳が血走っていた。


『次を寄越せ』


『殿下、この速度では…』


『五日で帰る』


『はっ!』


『それより早く終わるようなら、貴様らに褒美を考えよう』


その言葉を聞き、ゾンビのようだった側近たちは目の色を変えて動きだす。側近たちは見た目生きる屍のようだったが、今では目だけ爛々としていて逆に不気味な様子となりながら書類を運んだ。疲労と恐怖が支配する執務室の中で、ウルだけが不眠のまま燃えるような視線を紙に落とし続けた。


だが、真珠のいない夜は果てしなく長かった。広い離宮の部屋に一人で座ると、全ての音が嫌になるほどよく響く。


『……静かすぎる』


指先を組む手に、嫌な汗が滲んだ。真珠のいない寝台を見て、思わず吐き捨てた。


『愚か者が』


それは自分に向けて発した言葉だった。


寂しがるなと言ったのは誰だ

泣かないと約束させたのは誰だ


『全部、俺だ』

 

喉が詰まったが、それでも口を噤んだ。涙など落とさない。ただ心が焼け爛れるように痛かった。


そして政務を終え、真珠と約束していた予定より一日も早く出立した。誰もが「無理だ」と言った。だがウルは無言で睨みつけながら、車を走らせ、街道を駆け抜けた。帰還の途上、何度も自分を戒めた。

「大丈夫だ」「増やした護衛がいる」「アサナがいる」「真珠は無事だ」

何百回も唱えた。だが心臓がずっと早鐘を打っていた。


そして帰還の直後。最初に届いた報告は――


「後宮が襲撃されました!』


部屋の中の空気が凍りつく。側近たちが一斉に息を呑んだ。ウルの目がゆっくりと細められる。


『……もう一度言え』


『後宮が襲撃され、警備兵が応戦中との報告です』


紺碧の瞳が氷のように冷たくなる。


『誰だ』


『まだ…詳細は…!』


『真珠は』


『……避難路へ!』


ウルはその場で立ち上がった。椅子が後ろに跳ね飛ばされた音が、異様に大きく響いた。


『全員配置につけ。後宮周辺を封鎖。生かして捕えろ。遺体も確保しろ』


冷たすぎる声に、側近たちは頭を下げたまま震えた。


『真珠様は……!』


『避難先に急げ』


その声は身震いするほど冷たかった。


そして。避難路の出口で待ち構えた。冷たい夜風を切る音だけが響く。銃を下げ、微動だにせず、目を凝らした。

 

そして扉が開いた瞬間、飛び出してきた小さな影。それを一歩で抱き止めた。


「誰!?」


初めは自分に気づかずに悲鳴を上げ、暴れる真珠。泣き叫ぶ声を必死に抑え込んだ。腕の中で暴れる熱を感じて、思わず安堵してしまう。


「暴れるくらい元気か」


耳元で低く囁く。途端に真珠の動きが止まった。次の瞬間、全てが崩れたように泣き出し、そのまま気絶した。


ウルは抱きしめたまま動かなかい。気絶した真珠の頬に落ちる涙を感じた。


「……かわいそうに」


喉の奥で呟いた声は、自分でも気味が悪いほど低かった。唯一の女を、こんな恐怖に陥れ、自分の檻の中でさえ守れなかった。


怒りが爆発する。頭が冷え切るほどに。その目は、後宮を背後にしてなお燃え盛っていた。


「全部、潰す」


その声は夜風に溶けた。そして、抱き上げた真珠の重みを確かめながら、一歩を踏み出した。


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