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襲撃

それは本当に、突然だった。夜気を裂くように、鋭い叫び声が後宮を震わせた。


『敵だ!止めろ!』


兵の怒号。女官たちの悲鳴。真珠は部屋でアサナとお茶を飲んでいた。穏やかで、少しだけ寂しい夜だった。カシャン、とカップが落ちる音が響く。真珠は反射的に立ち上がった。


「……何?」


外から聞こえるパラパラと連続して聞こえる甲高い金属音。剣戟の音。誰かの呻き声。


「アサナ…」


声が震えた。老女の瞳が鋭く光った。


「真珠様、こちらへ!」


腕を掴まれ、引っ張られる。


「待って、何が――」


「急いでください!」


重い扉が音を立てて開く。その向こうに控えていた女官たちの顔が蒼白だった。


「襲撃です!後宮に賊が!」


「なんで……なんで私を…?」


声が震える。でも答えはなかった。アサナが手を強く握った。


「お考えにならないで。走ってください!」


後宮の回廊を駆け抜けると、夜風が冷たい。月光に照らされる庭が恐ろしく広く見えた。どこからでも影が襲ってきそうで、いつもの景色なのに別の世界のように感じてしまう。


「こっちだ!」


走った先にいた兵が手招きする。


「早く!後宮門は閉じられた!」


「避難路へ!」


真珠は思わず息を飲んだ。


「避難路?」


「王太子殿下のご命令で作られていたものです」


アサナが荒い呼吸で答えた。


「こんなこともあろうかと…!」


後ろから、断末魔のような悲鳴が響いた。金属がぶつかり、割れる音。


『下がれ!下がれぇ!』


兵の怒鳴り声。


『真珠様まで通すな!』


すぐ後ろだった。真珠は思わず振り返った。薄暗い回廊の先、黒ずくめの影が何人も飛び込んでくる。血飛沫が月光を赤く染めた。


「いや…」


足が止まりそうになる。気付いたアサナが真珠の意識を引き戻す。


「駄目です!行きます!」


「でも……でも、あの人たちが…!」


「殿下のご命令は、真珠様を守ることです!」


後宮の裏手、壁際に隠された扉があった。護衛がすでに開け放ち待機している。


「早く!ここです!」


アサナが背中を押す。真珠は転がるように狭い通路に飛び込んだ後すぐに、石扉が閉じる音がした。中は真っ暗な抜け道。


「アサナ…どこに行くの…」


息が荒い。喉が焼ける。


「安全な場所です」


「本当に…安全なの…?」


「殿下が作らせた場所です」


アサナの声が、今にも泣き出しそうだった。それに気づき、真珠は黙って頷いた。狭い石の階段を駆け下り、続き道を脇目も振らず走り抜ける。冷たい空気が肺を切った。


「足元に気をつけて!」


アサナが必死に支える。でも真珠の足は震えていた。


「なんで…私が…なんでこんな目に…」


声が漏れた。自分で驚くほど情けない声だった。


「私…ただ、ウルを待ってただけなのに…」


「真珠様!」


アサナが振り返って抱きしめた。


「泣かないで!ここで止まったらいけません!」


「……うん」


涙を拭う時間もなく、引きずるように進む。階段を抜けた先は狭い石室だった。護衛が一人、顔を血で汚して立っていた。


「ここを通します!」


「お願いします!」


護衛が頷き、別の扉を開ける。その向こうから冷たい外気が吹き込んだ。


「真珠様、あと少しです」


アサナの手が震えていた。全員が自分を助けようとしてくれている、その現実に真珠は歯を食いしばった。


「ウル…」


小さく呼んだ名が、暗闇に消えた。


「ウル、どこにいるの…」


胸が潰れそうだった。でも足を止めなかった。背後では、まだ戦いの音が響いていた。剣のきしむ音。爆発音。短く途切れる声。血の匂いすら、闇に混じっていた。


「もうすぐです!」


アサナが扉を開け放つと、外からは月光が差し込む。脱出路の終端だった。


「行ってください!」


石壁の扉が重い音を立てて開いた。冷たい夜気が吹き込む。真珠は震える息を吐きながら、必死に駆け出した。狭く、息苦しい避難路を抜けた先の外の空気は、やけに澄んでいた。

 

月光が白く照らす。逃げ切った。そう思った瞬間、足がもつれて前のめりになった。


だが、その体は地面には落ちなかった。硬く、広い胸にぶつかる感触。強い腕が背中と腰を抱き留めた。衝撃で息が詰まる。そして次の瞬間、背筋を走る戦慄。


「誰!?」


誰かいる。知らない誰か。襲撃犯か。もうここまで追ってきたのか。


「いやッ、放して!」


甲高い悲鳴が夜に割れた。真珠は腕の中で暴れた。必死で振りほどこうとして。


「放して…!来ないで!!」


全身が震えた。もう逃げ場などなかった。その腕は鉄のように硬く、彼女を決して離さない。背後ではまだ遠くで戦いの音が響いている。血の匂いが追いかけてきそうだった。


「暴れるくらい元気か」


耳元で、低く、静かな声が落ちた。その瞬間、暴れる動きがぴたりと止まった。息も止まり、頭が真っ白になる。その声を誰よりも知っていた。どんな夢より鮮明に刻まれた声なのだから。


「……ウル?」


掠れた声が勝手に漏れる。真珠の視界が急にクリアになり、恐怖の霧が一瞬で晴れた。自分を抱く腕。硬い胸板。夜気をはらんだ衣の匂い。そして何より、耳を刺すほど静かな声。それが、ウルだった。


「ウル…なんで…」


言葉が途切れ、問いが無数に頭に浮かんだ。

「いつ帰ったの」「どうしてここに」「助けてくれるの」「怖かった」「会いたかった」

全部言いたかった。でも喉が詰まって胸が痛かった。後から後から、涙が溢れて止まらない。


強い手が背中を撫でた。もう一方の手が後頭部を包むように抱えた。


「……もう大丈夫だ」


その言葉が決壊の合図だった。息が詰まって、喉が震えた。全身から力が抜けていく。


「ウル…」


掠れた声で呼ぶのが精一杯だった。そして、そこで糸が切れた。緊張の連続で張り詰めていた体が、彼の腕の中で完全に崩れた。脚がふらつき、頭がぐらりと揺れる。次第に目の前が暗転していく。


「ウル……」


その名をもう一度、口の端で呟く。声はほとんど聞こえなかった。でも確かに伝わった。そして、真珠はウルの腕の中で気を失った。


その時、ウルの目は誰も見たことがないほど冷たかった。抱き締めた真珠の頬を濡らす涙を、拭いもせずに見つめていた。その背後では、剣戟の音と怒号がまだ夜空を切り裂いていた。


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