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しばしの別れ

昼下がりの後宮は、風が抜けるたびに薄絹のカーテンが優しく揺れていた。真珠はアサナと並んで座り、涼しい影の中で小さな菓子を摘んでいた。女官たちは遠巻きに控え、やはり誰も口を挟まない。


「……このお菓子、ウルが選ばせたの?」


真珠が指先で小さな焼き菓子を転がす。アサナは深い皺の中に笑みを浮かべた。


「ええ。『甘いものを用意しろ。口に合うものだけを並べろ』と」


真珠は呆れたように鼻で笑った。


「ほんと、過保護だね」


「そうですね、愛情深い方です」


「不器用で、独り占めするくせに」


アサナは目を細める。


「坊っちゃまは、何もかも独りで抱え込む子でした」


「うん……」


真珠は頷き、菓子をそっと皿に戻した。


「だから私が抱え込んでやるって、決めたんだ」


「ええ。坊っちゃまにとって、それは救いでしょう」


穏やかな時間だった。アサナは老いた手でゆっくりとお茶を注いだ。真珠はその手を見つめる。アサナの手つきは、まるで流れるようで見ていてとても楽しい。


「アサナ、ウルって昔からこうだったの?」


「ええ。変わりません」


「ふふ。何だか安心する」


「ですが……少しは柔らかくなりましたね」


思わず笑ってしまう。


「そうなの?あれで?」


アサナが笑顔で頷く。じゃあ昔って、どれだけ俺様だったのだろうか、真珠は想像できなかった。


「ええ、真珠様のおかげです」


そう言われてしまうと、嬉しいような照れるような、真珠は目を伏せた。こほん、とわざとらしい咳払いを一つする。


「……でもさ、ちょっと退屈だよね。ここ」


アサナはそうですね、と言って微笑む。


「坊っちゃまはそれを心配しておられます」


ウルだってわかってたのか、小さくため息をついた。


「大丈夫だよ。退屈くらい、我慢できる」


その日の夕方、ウルが後宮に現れた。金と青の織り込みが入った王族の外衣を纏い、相変わらず厳しい目をしている。ウルの登場に気付いた真珠が振り返ると、その目がすぐに柔らいだ。


「帰ってたのね」


真珠は嬉しくなって笑みを浮かべながら彼の元へ。ウルは頷いたが、表情はどこか重い。


「政務が入った」


真珠は少し眉を寄せたが、すぐに笑顔を作った。ウルは必ず自分に予定を教えてくれる。まるで身の潔白を示すように。一回も疑ったことなんてないのにね。


「しょうがないよ、王太子なんだから」


ウルはじっと見つめた。その表情はあまり読めない。


「……一週間必要だと言われた」


真珠は思わず息を呑む。この国に来てから、一週間もウルに会わなかったことはなかったから。


「そんなに?」


「だが五日で戻る」


そう言い切る声が低くて震えていた。その言葉に、思わず真珠は目を丸くする。


「無茶しないで」


見上げると、美しい紺碧の目が細めたられた。


「お前が寂しいからだ」


ウルの返答に、思わず吹き出しそうになる。違うくせに、自分が寂しいくせに。……いやちょっとは寂しいけど。


「なによそれ」


ウルは睨むように真剣だった。この目だ、アサナが言っていた“睨むような目”。いつからか、この目が愛しさの裏返しなのだとわかったのだ。


「俺がいないと寂しいだろ」


「……大丈夫だよ」


真珠は手を伸ばし、ウルの胸にそっと触れた。


「アサナもいるし。平気。ウルは国のことしてきて」


ウルは口を開けかけ、噛み殺すように唇を閉じた。


「……俺も寂しい」


その声に、真珠の胸がきゅっと痛んだ。やっと言ってくれた本音に、どうしようもない愛しさが込み上げる。


「バカだね。私もだよ」


ウルが眉をひそめて、ぐっと抱きしめた。


「じゃあ行かない」


「行かなきゃダメでしょ」


「行かない」


「まぁそんな子供みたいな事言って」


「お前が泣くのが嫌だ」


真珠はクスリと笑って、ウルの胸に頬を寄せた。


「泣かないよ。待ってるわ、ここであなたを」


そして、その夜遅く。出発するウルを見送るために後宮の門の前に立った。ズラリと王宮兵が並ぶ。ウルは黒塗りの高級車のドア前に立ち、真珠を見下ろす。その目は暗く燃えていた。


「行くのね」


「……ああ」


「気をつけて」


ウルは喉を鳴らすように低く息を吐いた。


「待ってろ」


真珠は笑顔で短く頷づく。なるべくウルが安心できるように。自分が元気に見えるように。


「うん」


「泣くな」


「泣かないわ」


「約束しろ」


「うん、約束する」


すると、ウルは目を伏せる。金と青の装飾が月明かりに鈍く光った。


「……すぐ戻る」


何度も言ってくれる約束。この男は、真珠に対して常に誠実であろうと努力しているのだろう。独占欲や支配欲もあるだろうが、根底には自分への深すぎる愛があると言うことをわかっている真珠は、小さく笑った。


「うん、待ってるわ」


「お前は、俺のものだ」


「うん。ずっとだよ」


ウルは何かを言いかけたが、振り返って手を振るように兵を動かした。真珠はその背を見送り、車が見えなくなるまで見続けた。


後宮の門がゆっくり閉じる。重い音が響いて、その音は真珠の胸にのしかかった。誰もいない広い庭。遠巻きに頭を下げる女官たち。どうしようもない空気の中、アサナだけが優しく声をかけてくれる。


「お戻りになりましょう」


真珠は頷いた。

 

「……うん」


部屋に戻ると、豪奢な寝台がなんだか薄っぺらく見える。真珠は着替えもそこそこに腰を下ろした。今気がついたが、自分の手が少し震えている。


「……大丈夫」


小さく呟やく。自分に暗示をかけるように。


「平気。ウルがいなくても、平気」


そんな様子の真珠に、アサナは静かにお茶を差し出す。


「お寂しいでしょう」


「私はいい大人よ、大丈夫」


真珠は強がるように反論する。でも、目が潤んだ。


「……平気なはずだったのに」


アサナは黙って傍に座る。そっと真珠手を包んでくれる。その暖かさに、ぽつりと小さな声で言った。


「……やだな、広いのに。ひとりだと広すぎる」


アサナはゆっくりと手摩った。


「坊っちゃまも、きっと同じです」


真珠は唇を噛む。もう泣いてしまいそう。さっき約束したばかりなのに。


「ウル……早く帰ってきてよ」


その夜、豪奢な寝台は冷たかった。何度も寝返りを打ったが、誰の腕も伸びてこなかった。


「……おやすみ、ウル」


掠れた声で囁いて、真珠は目を閉じた。冷たいベッドが、こんなにも寂しいなんて知らなかった。噛み締めながら、ゆっくり意識が溶けていった。


一方、後宮を囲む庭園の植え込みの影。暗い中に身を潜めた男たちがいた。呼吸を潜め、夜風の中で計画を口早に確認する。


『警備が増えてる』


『だが後宮の中は手薄のはずだ」


『王太子がいない今しかない』


『内通者からの情報は確かか』


『4日後の交代時刻に決行する。あとは押し込むだけだ』


その声に、ざわりと風が鳴った気がした。煌びやかな王宮で、黒い思惑が蠢いていた。


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