本当は、欲しかったんだ
後宮は基本いつも静かだ。耳が痛くなるほど、何も音がしなかった。白い石壁に囲まれた庭も、広間も、長い回廊も、どこも同じ。高く閉じた門の外に、もう帰る家はない。両親はすでに国に戻ったのだから。真珠を泣きながら抱きしめ、何度も帰ろうと言ってくれた。でも彼女は頷かなかった。
それを選んだのは自分だった。この檻の中に残ることを、ウルの腕の中に閉じ込められることを、覚悟の上で。自分を欲しがるあの男を、拒むことをやめた。彼を愛してしまったから。その重さごと、狂気ごと、抱きしめてやると決めたのだ。だから後宮に一人で残った。
でもそんな決意も、日常の中でじわじわと染み出す寂しさを完全には消せなかった。女官たちは、いるにはいた。でも遠巻きに控えていただけで、近寄ってくることはない。全てはウルの命令だった。
「真珠が呼ぶまで、誰も近づくな」「余計なことを言うな」「触れるな」
真珠は分かっていた。あの男の不器用さを。愛するあまりに、触れさせたくないのだと。自分を守るために、囲うのだと。それは愛されている証拠だと思った。
「……愛してるから、閉じ込める、かぁ」
ぽつりと呟いた声は、広い部屋に溶けた。その独り言に対して、誰も答えてくれない。女官は皆、息を潜めている。それがなんだか可笑しくて、でも少しだけ胸が締めつけられた。
「……極端すぎるじゃない」
思わず声が震えそうになった。真珠はここで、何もすることがなかった。本当はこの後宮を取り仕切る役割がある筈なのに、ウルはそれを良しとしない。ウルが、自分以外の人間と真珠が仲良くなることを許さないからだ。今までの人生、常に何かに打ち込んできた真珠としては、今はまさに飼い殺し状態。
「せめて話くらいしてくれたらいいのに」
そう思った。だが女官は目を伏せて動かない。皆、ウルの命令を破ることを恐れているのだ。
「ウルが怒るんでしょうね」
乾いた笑みが漏れた。真珠もウル怖いところを知っているが、たぶん女官たちの恐怖は別次元なのだろう。
「私のために、全部排除してくれてる……幸せ、だけど、ちょっと寂しいかな」
そう呟いて、膝を抱えた。
そのときだった。遠くで足音がした。大理石の回廊をゆっくりと進む音を聞き、思わず真珠は顔を上げる。女官たちが小さく息を呑んだ気配がした。そして、全員が頭を下げる。その光景はとても珍しかった。ウル以外の誰かが、この後宮の奥に入ってくるなど。
そして現れたのは、年老いた女官だった。他の女官よりも背は低く、白髪が綺麗にまとめられ、深い皺がその顔に刻まれていた。でも背筋は伸びていおりその歩みはゆっくりでも、ある種の威厳のようなものを感じた。真珠は少しだけ、眉を寄せる。相手が誰かわからない以上、無闇に馴れ馴れしくするつもりはない。誰なのか、そう思う間もなく、老女は真珠の目の前で止まった。そして深々と頭を下げた。
「真珠様」
低く、でも柔らかい声。女官たちがさらに頭を下げるのが見えた。
「……どなたですか?」
少し怪訝な表情のまま、真珠は問い返した。老女がゆっくりと顔を上げると、黒い瞳は深く、包むような眼差しをしている。
「アサナと申します」
「……ウルの差し金?」
その問いに、アサナは小さく笑った。
「はい。王太子様より、真珠様のお世話を仰せつかりました」
「お世話、ね」
真珠は乾いた笑いを浮かべた。
「他の女官と同じでしょ。何も言わない、何もしない」
「いいえ」
アサナは一歩だけ進む。
「私は王太子様より、特別に命じられて参りました」
「特別?」
真珠が思わず聞き返した。アサナは微笑んだ。
「はい。恐れ多くも、私は王太子様の乳母をつとめさせていただいておりました」
真珠は目を見開いた。
「……ウルの?」
アサナは頷いた。その言葉に真珠の胸がドクンと少し大きく脈打った。ウルの知らない子供の頃を、この人は知っている。その重みを感じた。
「王太子様は仰いました」
アサナの声は低く、でもどこか悲しげで。
「“お前だけは許す”と」
真珠の喉が詰まった。アサナは視線を落としながら、話を続ける。
「“話し相手になれ”と」
真珠は俯いた。
「……そう」
「“精神的に支えろ”とも仰いました」
真珠の肩が微かに震えた。
「……バカだな」
声が掠れた。
「更に“甘えさせろ”とのことです」
その一言で、真珠は笑った。でも泣きそうだった。
「……本当に、バカね、ウル」
喉が詰まった。
アサナは黙って膝をつき、深く頭を下げた。
「どうか、真珠様。話し相手にならせてください」
真珠は俯いたまま、指をぎゅっと握る。
「……いいの?」
「はい」
「怒られないの?」
「お許しを得ております」
「……そっか」
真珠は吐息を漏らした。
「……ちょっとだけ、話しましょう」
アサナは穏やかに頷いた。
「はい、真珠様」
真珠は目元を赤くしながらも、少しだけ口元を緩めた。
「……実は、少し退屈だったんだ」
「ええ。存じております」
「あと少しだけ、寂しいって思っていたの」
真珠の声が掠れる。アサナはそれに気づいていたが、特に触れずに静かに頭を下げた。
「寂しくないようにいたします」
「……ありがとう」
真珠は目を伏せて、ぽつりと呟いた。だがその顔は、アサナが現れる前とは比べ物にならないほど、明るく輝き始めていた。




