アサナという女官
その王宮の一室は、光を柔らかく通す白い石壁に、太陽の傾きかけた光が滲んでいた。部屋の中は人の気配が少なく、絨毯を敷き詰めた広間は静謐そのもの。けれど、その空気を切り裂くように重く低い声が響いた。
『入れ』
王太子ウルシュガは、長い黒髪を緩く後ろに束ねたまま、低い声で命じる。アメニア王族直系の証である紺碧の瞳が細められ、その奥には鋭さと渇いた憂鬱が滲んでいた。腰に両手を当て、足を広げて立つその姿は威圧そのものである。
『……お久しゅうございます、坊っちゃま』
そう呼んだ声は柔らかかったが、加齢による喉の震えを隠せなかった。アサナは深い皺の刻まれた顔に穏やかな笑みをたたえている。背は曲がりかけ、黒い衣を丁寧に整えて身につけていたが、威厳の代わりに人を包むような温かさを持っている。彼女のその目は、王太子でさえも目をそらしたくなるほどに、全てを見抜いているようだった。
ウルはわずかに目を伏せ、その眉間に深い皺を刻む。
『……坊っちゃまと呼ぶな。今は王太子だ』
アサナは目を細めて、少し口元を綻ばせた。
『はいはい、王太子様』
『……』
ウルの指先が痙攣したように小さく動いた。
『余計なことは言わない。命令を伝える』
アサナは黙って頷いた。だがその目は、幼い頃から知るその少年が言葉を選ぶ時に、いつも唇を噛みそうになる癖を探すように見ていた。懐かしむような視線に、ウルの瞳が細まる。
『……真珠に仕えろ』
アサナのまぶたがゆっくりと伏せられる。やはりそういうことかと察したようだった。そのまま、深い吐息を漏らした。
『……あの方は、おひとりでお過ごしなのですか』
ウルは視線を逸らさず、淡々短く答える。
『そうだ』
『坊…王太子様がお決めになったのでしょう』
『……余計なことは言うな』
『はい』
しばし沈黙が落ちる。その空気は刺すように冷たかったが、同時に痛々しいほどの弱さを孕んでいた。ウルは逸らしそうになる目を気力で制し、顎を上げる。
『女官どもは必要最低限の世話しかしない。俺がそう命じた』
『それで』
『……あいつは孤独だ』
ウルの声は掠れていた。
『そうなるように、俺が命令した』
アサナは穏やかな表情の中に、僅かに哀しみが入る。やはりこの方は……
『俺の前では気丈に振る舞っている。俺に気を遣っているのだろう』
アサナは黙って聞いていた。ウルの視線が鋭く突き刺さる。
『それが気に食わない』
『……』
『俺が選んだ女だ、真珠も従った。だが孤独に慣れることはない』
『……そうでしょうねえ』
『なら、俺以外に精神的な支えとなれる相手を作る』
『……』
『その役は、お前だけだ』
声が低く沈んだ。本当は自分だけが后の支えとなりたい筈だ。だがそれは現実的ではないと理解しているのだろう。
『他の者は触るのも、見るのも、話すのもダメだ。だが……お前だけは、許す』
アサナは、深い皺を寄せた顔でゆっくりと頷いた。
『ありがたき幸せでございます』
ウルが苛立たしげに顎を逸らした。その矛先はもちろん、他の誰でもない自分自身。
『俺は……あいつを独りにしたくない』
声は低く絞り出すようだった。本当はわかっているのだろう、自分が后を傷つけていることを。
『だが、他人に渡すつもりもない』
アサナの瞳が少し潤む。
『坊っちゃま』
『やめろ』
『……王太子様』
『……』
『あなたは優しい子です』
ウルの眉が僅かにひくついた。
『優しくなどない』
『そうですか』
アサナは少しだけ声を柔らかくした。
『では、優しくない王太子様にお願いされましたので、心を込めてお仕えいたします』
ウルはしばらく口を開けかけ、何も言わずに目を伏せた。
アサナは一歩近寄る。彼女の白い髪が光を受けて淡く輝いた。
『真珠様は……お噂は聞いております』
『……そうか』
『坊っちゃまが、たった一人の后として迎えられた方』
ウルは呼吸を止めたように黙った。
『……私は存じておりますよ。あなたがどれほど、人を愛せない子だったか』
『黙れ』
『でもその方を愛してしまった』
『……』
『だからこそ、私は呼ばれたのですね』
ウルは鋭く目を向けた。
『他言はするな』
『もちろんです』
『あいつを独りにさせるな、甘えさせろ』
『はい』
『だが俺がいないときにだけだ』
『承知しました』
『……頼む』
最後はもう、ほとんど聞こえないような小さな声だった。だがアサナには届き、その声を聞いて彼女は初めて深く頭を下げた。
『はい。坊っちゃま』
『……』
ウルは目を伏せ、吐息を吐く。彼はもう怒鳴らなかった。頭を下げるアサナを、少しだけ柔らかくなった目で見下ろし続けた。




