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惜別の時、狂気の王

後宮の白い廊下を、ゆっくりと四人が歩いていた。真珠の足音は小さく響き、白の衣をまとって、髪は丁寧に結い上げられていた。


いつもなら女官たちが後ろに続くのに、その日は誰もいなかった。ウルが「不要だ」と一言で追い払っていたのだ。護衛たちも距離を取っていた。王太子の気配に押され、全員が黙りこくって頭を垂れている。


真珠の両親は少し前を歩いてる。父は背筋を伸ばしていたが、肩が震えていた。母はハンカチを握りしめ、唇を噛んでいた。曲がり角を一つ、また一つと過ぎるたびに、外の光が近づいてくる。アメニアの乾いた風が、窓の隙間から差し込んだ。


日本とは違う、異国の匂い。それが「帰れない距離」を教えてくる。


外門の前で立ち止まると、白い石畳が眩しかった。そこには準備された車が待っていた。二人の荷物は驚くほど少ない。アメニアから贈られた品を除けば、ほとんど日本から持ってきたものはなかった。どこか取ってつけたような異質さがあった。真珠はそれを見て、小さく息を吐いた。


「……お父さん、お母さん」


声が震える。でも真珠は泣かなかった。自分が泣いてしまうのは、両親にもっと心配をかけてしまうとわかっていたから。


「ここまで来てくれて、ありがとう」


父が顔をしかめて視線を逸らす。母が泣きそうな目で見つめ返した。無言の時間が少しあり、父が先に口を開いた。


「真珠、お前……本当に、いいんだな?」


低い声だった。怒鳴りもせず、説得もせず。ただ、確認する声。その声に真珠は頷いた。


「うん」


「もう帰れないんだぞ」


「分かってるよ」


父の眉が震えた。


「泣くな」


真珠は泣いていなかったが、父の目の方が潤んでいた。


「私、大丈夫だから」


それを聞いた母が嗚咽を漏らした。


「真珠……っ……!」


母は駆け寄って、真珠を抱きしめた。その母の行動に、女官たちが小さく息を呑むのが分かった。王太子の目の前で。でもウルは何も言わなかった。ただ無言で見下ろしていた。腕を背中で組んで、喉を鳴らして、ただ見ていた。


「ごめんね」


真珠は母の背を撫でる。


「勝手な娘で、ごめんね」


「帰ってきなさいよ……いつでも……」


「帰らないよ」


母が肩を震わせて泣いた。

 

「私、ここで生きるって決めたの」


「こんなところで……! こんな遠い国で……!」


「……ウルの後宮で、生きるよ」


はっきりと言いうと、言葉が重く落ちる感じがした。真珠の簡潔な答えを聞き、母が嗚咽を止める。泣き疲れたみたいに、肩で息をしていた。


「そう……」


そっと目を伏せて、頷いた。


「そうなのね」


「うん」


真珠は泣かなかった。でも、どうしても声が震えてしまう。


「お父さんも……」


父はそんな真珠を見ていた。その目は赤く、たぶん彼らは前日から泣いていたのだろう。


「……後悔するな」


「しないよ」


「泣くな」


「うん、泣かない」


父が鼻を鳴らして、真珠の頭に手を伸ばした。その手は、少し強引に真珠の頭をぐしゃぐしゃに撫でる。励ます時の、父の昔からの癖。


「……大人になったな」


真珠はふんわりと、二人に向かって笑った。


「ありがとう」


その空気を、ウルが裂いた。低く、喉を震わせるような声で。


「……真珠は、ここで生きる」


その声に、全員が彼を見る。途端に父の目が細められた。母は泣きながらも真珠を抱き寄せそうになったが、思わず止まった。ウルの声は冷たく、鋭く、それでいてどこか滲むものがあった。


「お二人の娘は、もう後宮の女だ」


吐き捨てるように聞こえたが、その目は真珠を抱き寄せるように柔らかい。


「後宮に入った女は二度と出られない」


事実なのだが、改めて聞くと重い現実に真珠が小さく震えた。対して、父が低く唸る。


「分かってる」


ウルは真珠の肩を引き寄せた。その指先は震えている。


「……だが、安心して帰れ」


父は目を見開いた。ウルは喉を詰まらせた声になりながら、それでも目に力を入れ前を向く。


「ここでは、俺が面倒を見る」


「……ウル」

 

真珠が振り返る。ウルは真珠を見下ろし、額を寄せた。


「俺の唯一の女」


真珠は目を伏せて頷いた。


「お二人の願った未来とは違うだろう」


「………」


「だが――」


ウルは真珠を見たまま、両親に言った。


「必ず最後まで愛し抜く」


母は声を上げて泣き、父は目を伏せて黙った。でもその肩は落ち着いたように見える。父が小さく吐息を漏らして短く頷づき、母は震える声だが最後まで言った。


「……幸せに、してあげてください」


ウルは一瞬だけ目を伏せた。その後、真珠の肩を抱く腕に力を込めた。


「無論、世界一幸せにすると誓おう」


その声は低く、かすれていたが決定的だった。最後に母は、真珠をもう一度抱きしめた。


「幸せに……なりなさい」


「うん」


「元気で」


「うん」


「体に気をつけて……」


「うん、二人もね」


言葉が詰まって、言いたいことは他にもたくさんあるのに喉から出てこない。母は顔を背け、父が肩を貸して車へ導いた。最後に振り返った父の目が、真珠の目とぶつかる。父は何も言わなかった。でも頷いた。真珠もそれに、無言で頷き返した。


扉が閉まると、車は音もなくゆっくりと動き出した。砂埃が白い石畳を覆う。真珠は微動だにせず、車が角を曲がって消えるまで見送った。その横で、ウルも一歩も動かなかった。砂埃が二人の衣を汚したが、誰も拭わなかった。


車が見えなくなってから、真珠は小さく息を吐き、肩を落とす。その瞬間、ウルの腕が伸び無言で引き寄せられた。真珠は何も言わずに抱かれ、そのまま顔を埋める。ウルの胸が上下するのを感じ、体は震えていた。

 

「……もう行った」


低い囁き声が降ってくる。その言葉に、真珠は唇を噛んだ。


「……分かってる」


「見えないだろう」


「……うん」


「なのに、まだ見ているのか」


声は冷たくて、でも落ち着いていた。もう両親に会えない現実がまざまざと突きつけられ、真珠は小さく啜り泣く。ウルはその音を聞きながらも、視線を外さなかった。


「帰りたいのか」


真珠は肯定も否定も、何も言わなかった。ただ目を伏せて、肩を揺らす。その沈黙を、ウルは長く待った。やがてウルが小さく息を吐く。


「……お前が帰りたいと言ったら」


真珠が微かに顔を上げた。真珠のその目に滲む恐怖を、ウルは正面から受け止める。


「俺はお前を殺していただろう」


声は淡々としていた。激情は滲ませず、ただ冷たい事実を告げるように。そのあまりの言葉に、真珠は喉を鳴らし、目を見開いたまま息を呑んだ。


「そんな……」


「それしか方法がない」


遂に、真珠の頬を涙が伝う。やっと、こぼれた。ウルの手がその涙を親指で拭う。優しい動作だったが、瞳は冷たく光っていた。


「帰せない。そんなもの、帰せるわけがない」


「ウル……」


「他の誰かの女になるのか?俺以外の国で、誰にも縛られずに生きるのか?」

 

真珠は唇を噛んだ。


「想像するだけで……気が狂う」


「……ウル」


「誰にも触らせたくない」


「……」


「俺から離れるのなら、もう死ね」


声は低かった。静かすぎて、余計に逃げ場がなかった。真珠は泣きながら首を振った。


「…帰らないわ」


「本当か」


「帰らない……ウルのところにいる」

 

その言葉に、ウルの瞳が僅かに揺れた。初めて、呼吸が乱れる。涙を流す真珠をゆっくりと抱き締め、自分の胸に埋めさせた。


真珠は胸に顔を押しつけて、嗚咽を漏らす。ウルの手が真珠の後頭部を撫でた。そして、ウルの瞳が細められる。その奥に潜むのは安堵ではなく、狂気だった。


「……もう二度と帰れないぞ」

 

抱きしめるウルの腕が震えている。ウル自身、酷いことを言ってる自覚があるのだろう。でも彼の狂気的な愛が、言わずにいられない。抑えられないのだ。


「……これで」


低く、掠れた声が頭上で落ちた。


「お前はもう、帰れない」


真珠は目を閉じた。頷いた。


「うん」


抱きしめる腕が更に強くなる。すぐに痛みが走った。でも、その痛みさえ、今ではとても安心してしまう。


「俺とともに、生きろ」


「……はい」


真珠は門の中へ引き戻された。後宮の白い回廊がまた二人を包む。もう、後戻りはなかった。この国で、後宮で、この男の腕の中で。それが真珠の「選んだ檻」だった。そしてウルの「手放さない世界」だった。


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