幸せの余韻
夜はまだ終わらないはずなのに、窓の向こうが少しずつ青みを帯びてきていた。
真珠は布団に半分埋もれたまま、ウルの胸に頬を寄せている。心臓の音がゆっくりになっているのが分かった。さっきまで荒く息を乱して、名前を叫んでいたのが嘘みたいに静かだった。でも、まだ汗ばんだ肌は触れ合っていた。
離れようなんて思わなかった。それはウルも同じだった。大きな腕がゆっくり背を撫で続ける。時折、指先が震えていた。それが愛しくてたまらなかった。
「……眠くない?」
真珠がそっと囁いたその声は、かすれていた。昨夜、泣きすぎたせいだろう。ウルが低く息を吐いた。
「眠い」
短く、それだけ言った。彼の声もかすれていた。真珠がくすっと笑うと、ウルの胸が小さく震えた。
「じゃあ、寝ようよ」
「まだ……お前を見てたい」
その一言で、真珠の頬が熱くなる。
「見なくていいから」
そう言いながら、ウルの胸に顔を埋めた。愛しいって顔に書いてあるくらい、嬉しそうなウルを見ていられない。彼の手が背を抱きしめた。
「可愛いな」
掠れた声が頭上で落ちる。
「やめて」
「嫌だ」
「恥ずかしいってば」
「それがいい」
真珠は小さく唇を噛んで肩をすぼめる。その動きにウルの腕が強くなったが、痛くはなかった。ただ、愛されている重みだった。
しばらく、何も言わない静かな呼吸だけが混ざった。外の風が窓を鳴らす音が遠い。真珠は目を閉じたまま、そっと指先を動かした。ウルの胸を撫でてみる。耳をあてると、少し速い心臓の音。
「まだ、速いね」
小さく言うと、ウルが喉を鳴らした。
「お前がいるからだ」
声が掠れて、息が混ざる。
「私も」
囁くように返した。
「ウルがいるから落ち着くのに、でも心臓は速くなるの」
ウルが指先で真珠の髪を梳いた。絡まった髪をそっと解くように。
「泣き疲れた顔してるな」
「ウルのせいよ」
「そうだな」
少しだけ笑った声がした。
「だが泣かせたのは俺でも、泣き止ませるのも俺だ」
真珠は目を開けて、ゆっくりウルを見上げた。月明かりがまだ少しだけ残っていて、ウルの目も潤んでいた。
「ありがとう」
小さく言うと、ウルが深く息を吐いた。
「こっちの台詞だ」
掠れた声が、いつもより優しく響いた。でもなぜか、急にウルの顔が曇り始める。何か思い詰めたみたいに、眉を寄せていた。
「……俺はまた…お前を閉じ込めるだろう」
低く唸るような声だった。後悔するような響きさえあった。その声は、ただ苦しそうで。
「閉じ込めないと言いながら……抱きしめて、結局また閉じ込めてる」
指先が真珠の背を撫でる。ウルの手は優しくて、でも僅かに震えていた。
「俺の愛し方はお前を苦しめる、わかっているのに」
変えられないんだ、最後は囁くような小さな声だった。
「それでもお前を、離せなかった」
額を真珠に押し付けたまま、眉を寄せて目を閉じた。少しづつ、ウルの呼吸が荒くなる。
「すまない」
小さな声を吐き出す。
「またお前を、縛ってしまう」
真珠は静かに聞いていた。口元にうっすら笑みを浮かべて、小さな声で、でもはっきり言った。
「……バカね」
ウルが目を開いて、驚いたように真珠を見つめる。真珠はふっと息を吐いて、得意げに顎を引いてみせた。
「分かってたよ」
声が掠れていても、どこか誇らしげな真珠。
「ウルがそういう人だって」
ウルは眉を寄せ難しい顔をしている。また小さく笑った真珠は、片手を持ち上げてウルの頬を優しみ包んだ。
「閉じ込められるだろうなと、分かってたわ」
喉を震わせながら、唇を噛みそうになったけど踏みとどまった。
「でも、逃げなかったでしょ、私」
ウルの瞳が揺れた。もう一度、真珠は小さく笑った。
「むしろ自分から行ったよね」
肩をすくめるようにして、ちょっと得意げだった。
「一応年長者だからね。たぶんウルは手を出せないだろうから、私から行かなきゃって」
ウルの喉が鳴る。目を伏せそうになるのを真珠の手が止めた。
「見て」
小さく命令するみたいに言った。
「私、ちゃんとわかってるんだから」
ウルはまた、自分の額を真珠の額に当て、小さく息を震わせた。
「……本当に分かっているのか」
低く、震える声だった。
「俺がお前をどうするのか、どれだけ欲しがるのか」
「分かってるよ」
即答した真珠は、ゆっくり目を閉じた。
「だから言ったんだよ、『抱いて』って」
喉が震えた。
「あなたに愛されたくて」
声が小さく震えるが、構わずいう。今言いたいから。
「でもあなたの愛し方が怖いのは本当ね。まぁ今ではそれすら愛しく思ってしまうんだけど」
涙が滲んだ。
「だから、もういいのよ」
ウルの呼吸が止まった瞬間だった。真珠が涙を拭わずに続ける。
「閉じ込めたっていいよ」
また喉が震えた。
「私も、ウルを縛るから」
「……真珠」
「お互い様、でしょ?」
泣きながら笑った。
「でも、たまには息抜きさせてくれると嬉しいな」
ウルは息を吐いた。深く、重く、胸の奥をかき乱すように。そして真珠を強く抱きしめる。真珠が小さく声を漏らして、そのままウルの胸に顔を埋めた。
「……離さない」
低い声が震えた。
「お前を一生、ここに閉じ込める」
「……うん」
くぐもった声で真珠が応えた。
「俺を恨んでくれてかまわない、自分で言ったことすら守れぬ男だと」
ウルの腕がまた強くなった。
「でもお前がそう言うなら……もう二度と逃がさない」
「いいよ」
真珠が甘えたように、でも勝ち誇ったように言った。
「私も、ウルを閉じ込めるから」
ウルは小さく喉を鳴らして、頬を真珠の髪に押し当てた。目を閉じて、深く息を吸う。この匂いを、ぬくもりを、呼吸を、自分のものと刻みつけるように。
「……お前が欲しい」
かすれた声で呟いた。
「俺の、真珠」
真珠が小さく頷いたのが分かった。そして、そっと顔を上げて唇を触れさせる。触れるだけで深くはなく、優しい音がした。それに、ウルが息を呑む音がする。
「……もう一回」
「欲張りだな」
「したくないの?」
囁く声が甘く滲むと、ウルの腕がまた強くなった。
「…したい」
低く、決意みたいに言った。
「お前が欲しい。全部欲しい。ずっと欲しい」
「うん」
「他の誰にも渡さない」
真珠の目が熱くなり、また涙が滲む。
「私も、ウル以外いらない」
指先がウルの頬を撫でる。硬い輪郭が震えた気がした。
「もう、離さない?」
「絶対離さない」
「私も」
涙が落ちると、ウルがそれを舌で掬う。そして深く、長くキスをした。
夜明けが近づいても、二人は離れなかった。熱は冷めない。ただ呼吸を混ぜて、心臓の音を聴き合った。
互いの名前をもう一度呼び合って、また唇を重ねる。抱きしめる腕を緩めることはなかった。
「真珠」
「……おいで、ウル」
ただそれだけで、世界が満たされるようだった。あの夜の血も涙も、全部溶かして包み込むように。
もう二度と、何も奪わない。
もう二度と、独りにしない。
その約束を、何度も目を閉じて交わした。
ー朝の光が差し込むまで、二人は一つの布団の中で、ずっと寄り添い続けた。




