素直になること
昨夜のキスの感触が、まだ唇に残っていた。
月明かりの下で泣きながら触れ合ったぬくもりが、唇から消えなかった。昨日のことを思い出すだけで、胸が苦しくなる。あの人が泣いてくれた。謝って、名前を呼んで、愛してるって言ってくれた。全部受け取ったはずなのに。それなのになぜか、まだまだ足りなかった。
今朝会ったとき、ウルはまた距離を取った。「おはよう」って言ったら、驚いたように目を見開いて、すぐに伏せた。声は優しいのに、手は伸ばしてくれない。触れたら壊してしまうとまだ思ってる。また怯えさせると思ってる。
もう違うのに、「怖くない」って何度も言ったのに。むしろ——触れてほしい、抱きしめてほしい、あの人の腕の中に、ちゃんといたい。泣いても、震えても、全部受け止めてほしい。だって、真珠だって欲しいから。ウルが欲しくてたまらないから。
夜になっても、心臓の音がやまなかった。母に「おやすみ」を言ってベッドに入ったけど、眠れるはずがない。このまま朝まで一人でいたくなかった。もう冷たいベッドの上で独りで泣くのは、絶対に嫌だ。
決めた。自分から行く。女は度胸って言うじゃない。今度は抱いてって言う。まだ正直言って怖い、ウルが豹変してしまったらどうしよう。でも、そんな恐怖より以上に欲しかった。あの人の全部が。
昨日と同じ扉を開ける。部屋の灯りは落ちていて、ウルの姿が月明かりに浮かんでいた。彼は壁に背を預けて座っていた。真珠の気配に気づいて顔を上げた瞬間、驚いたように目を見開いた。
「……真珠?」
その声がいつもより低くて、少し掠れていた。
「どうした、何かあったのか」
また昨日と一緒、真珠を心配する声。その声は真珠の涙腺を刺激する。でも泣かないって決めたから、グッと涙を飲み込んだ。
真珠は喉を撫でて、震える足を一歩踏み出した。
「……ウルのところ、行ってもいい?」
緊張で喉の奥が詰まりそうだった。でも頑張って声を出した。その声に、やっぱりウルは眉を寄せる。
「どうした、眠れないのか」
「……うん」
掠れた声が出る。
「だから、そばにいたいの」
ウルが息を呑む。視線を逸らしかけて、でも真珠の目をじっと見た。何かを悟ったように、ゆっくり立ち上がった。ウルは背がとても高い。いつも威圧感を与えた体格なのに、今は怯えたみたいに動きを止めた。
「……真珠、無理はするな」
「無理なんか、してないよ」
また昨日みたいな、泣き笑いの様な声が出た。でも今日は泣かない、そう強く決めてきたのだ。
「ウルと、いたいの」
喉が震える。表情の読めない紺碧の瞳が、静かに真珠を見ていた。
「怖くないから」
真珠の言葉に、ウルの瞳が揺れ痛そうに唇を噛む。
「……近づいたら、お前が泣く」
「泣かないわ」
真珠より辛そうな顔をして、ウルはまた唇を噛んだ。この人は、また我慢した。一体どれだけの我慢をさせてきたのだろう。
「もう泣きたくない、だから、触って」
その瞬間、ウルの目が見開かれた。言えた真珠は、夜風が冷たかったのに、体中が熱くなった。
「抱いて」
喉が震え、声が小さくなった。でもはっきり言った。
「お願い……抱いて、ウル」
結局声は泣いていた。でも、決して震えなかった。
ウルは動けないほど動揺している。理性と欲望が、今まさにせめぎ合っているのだろう。大きな手が空中で震えた。真珠を抱き寄せる代わりに、必死に止めようとした。
「やめろ、真珠。まだお前は……」
「怖くない」
「俺は、お前を傷つけた」
「知ってる!」
もう堪え切れない涙が、スーッと頬を滑り落ちる。昨日も今日も、その前からずっと、ウルは後悔し続けてきたのだろう。彼の我慢は、贖罪の一つなのかもしれない。
「知ってるよ……でも、好きなの……」
止まらない涙は、頬から首を伝って流れていく。もう目が溶けるくらい、ポロポロ伝って流れ続ける。
「だから、触れて……」
ウルの瞳が潤んで、呼吸が荒くなる。
「……ダメだ」
ウルは必死に首を振った。その様子に、真珠の胸は一層苦しくなった。
「俺はまた、お前を壊す」
「もう壊れてる!」
叫ぶような、泣き声だった。
「壊れてるけど、生きてるの!ウルと一緒に生きたいの!」
息が切れた。喉が痛かった。それでも言った。真珠は一回、ウルによって壊された。けれど、再び真珠として生き返ったのだ、他ならぬウルのお陰で。
「触って、ウル。お願い。抱いて……」
ウルが崩れ落ちるように膝をつき、静かに頭を下げる。その姿は、まるで神に懺悔でもするようだった。
「……真珠」
声が震えていた。
「頼む、もう一度考え直してくれ」
「嫌」
真珠は強く涙を拭う。逆に真珠は、もう我慢なんてしない。言いたいことは言えるうちに言わないと、言えなくなることだってあるんだから。
「もう嫌なの、一人で泣くの。もう嫌なの、ウルが謝るの」
息を吸った。声が詰まりそうになった。
「……私が欲しいって言ってるのに、どうして拒むの」
ウルが顔を上げた。彼は泣きそうな顔をしていた。
「お前を愛してるからだ」
その言葉が、胸の奥に刺さった。この人は、愛しているのに触らない。触れないのかもしれない。自己を戒めているように。
「私もだよ」
でもね、
「私も、愛してる」
その瞬間、ウルの瞳から涙が零れた。震える手が伸びて、真珠の頬に触れた。熱かった。
「……そんなに、俺がいいのか」
ウルの声が酷く掠れた。
「他の誰でもないのか」
「そうだよ、ウルがいい」
「……俺の愛は重く歪んでいる。他の愛し方を知らない」
「わかってるよ」
真珠は素直に言いたいことを言う。自分に足りなかったこと、それは自分にもっと素直になることだったんだ。
「ウルじゃなきゃ、嫌」
真珠の言葉に、ウルが顔を歪めた。苦しそうに、でも、嬉しそうでもあった。
「お前を愛してる」
その声が泣いていた。
「……俺は、お前だけだ」
ゆっくり唇が重なった。熱くて、荒くて、涙で濡れていた。
「……抱くぞ」
「うん」
「もう、止められない」
「止めないで」
ウルが一瞬口ごもり、意を決したように続けた。
「俺はまた、壊すかもしれない」
「大丈夫だよ、もう壊れない」
この人の恐怖が、少しでもなくなるように。
「もう大丈夫、全部、ウルのものだから」
その言葉を聞いた瞬間、ウルが呻くように真珠を抱きしめた。腕がきつかった。息が詰まるほどだった。でも、怖くなかった。泣きながら笑った。
「……好き」
「愛してる」
「私も」
その後はもう、言葉なんて必要なかった。唇が重なり、息を奪われる。何度も何度も、名前を呼びあった。声が掠れても、叫び続けた。ウルも真珠と一緒に泣いている。震えた手で真珠を抱きしめた。
「あなたの全部を私にちょうだい」
「ああ、もちろんだ。俺の全ては真珠のもの」
二人は泣きながら笑った。夜が更けて、静寂が訪れても、何度も肌を重ねた。もう、離れないように。もう二度と、声を奪わないように。対等な形で結ばれるまで、何度も何度も、名前を呼び合った。
この後の話をムーンに載せてます。
タイトルは同じ「監禁は愛じゃなく〜」で、エピソードタイトルは「対等な関係」です。よければ覗いてみてください。
前よりはだいぶ甘く仕上がってます。




