お姉さんの意地
夜の後宮は、灯りを落とすとひどく静かだった。外の風が薄いカーテンを揺らし、月の光が白く差し込む。正妃の部屋の中、真珠は一人で座っていた。膝を抱えて、喉を押さえた手をそっと外す。
(もう大丈夫)
けれど心臓の音がうるさい。息も浅い。ウルのことを考えるたび、どうしようもなく胸が苦しくなる。でも、自分から行くしかない。年上なんだから。お姉さんなんだから。こっちが傷つけたのだから、あの人より先にちゃんと伝えなきゃ。
真珠はゆっくり立ち上がる。その足は震えていた。でも止まらない、もう止まらないって決めたから。
ゆっくりとした足取りで、真珠は後宮内の執務室までやってきた。その重厚な扉を開けたら、すぐそこにウルがいた。座って背を壁に預けて、静かに目を閉じていた。気配に気づいて目を開くと、ウルの顔が一瞬驚いたように強張った。
「……真珠」
ウルの声は震えていた。
「どうした」
そして、第一に自分を心配する声だった。真珠は喉を撫でて、深呼吸する。ウルが立ち上がろうとした瞬間、真珠は手を伸ばして制した。
「来ないで」
その短い一言で、ウルが動きを止めた。彼の顔は、緊張で息を詰めていた。でも真珠は構わずゆっくり歩く。一歩、一歩。足音が月明かりの中ではやけに大きく響いた。真珠は息を深く吸い込む。声が詰まりそうになったけど、自分を奮い立たせて声を押し出した。
「……もう、謝らないで」
ウルの眉が僅かに寄る。
「お前を傷つけた」
「知ってるわ」
声が震える。
「もうわかってるの。だから、謝らないで」
ウルが唇を噛む。スッと目を逸らそうとしたから、真珠は手を伸ばしてその頬を掴んだ。その瞬間、また手が震えた。触れた肌が熱かった。怖くて泣きそうだった。でも意地で涙を堪えた、彼より年上なんだから。
「見て」
掠れた声だが、強く響いた。ウルの瞳が自分を捉える。その表情が、なんだかとても切なくて、泣きそうで、でも真珠は離さなかった。
「……私、怖くないの」
言葉が滲む。だけど止めない。
「もう、怖くないの」
言いながら、真珠の唇が震えた。
「なのに、なんで触れてくれないの」
ウルが小さく息を呑んだ。
「お前を……壊したくない」
その声が、泣きそうだった。
「また怖がらせたくない」
「もう、怖くないって言ってるのに!」
感情が溢れて大きな声が出た。その声は掠れ、途中で喉が詰まりそうだったけど、必死で吐き出した。
「私だって……触りたいのに……!」
涙が溢れ、もう止まらなかった。それでも、真珠はウルから手を離さなかった。頬を掴んだ手が震えた。
「お願い……触って」
声が震える。まるで泣き笑いみたいな声だった。
「私、もう……ウルに触ってほしいの……」
ウルは目を閉じ、肩が小さく震えた。そしてゆっくりと、その大きな手が自分の手を包んだ。温かかった。怖くなかった。むしろ、安心して泣きそうになった。
「……すまない」
ウルが言う。
「すまない」
「……もう謝らないで」
真珠は泣きながら笑った。
「ウルが謝ると、私も泣きたくなるの」
真珠の笑顔に、ウルの瞳が揺れる。見たくて見たくて、神に祈り続けた笑顔が今まさに、ウルの目の前にあった。じわじわと、月明かりが滲んだ。
二人はどちらからともなく、ゆっくりと額を寄せ合い触れる。頬を擦り合わせるみたいにして、額を合わせた。ウルの呼吸を近くで感じ、それはとても荒い。自分も息を整えられなかった。
「……触れていい?」
掠れた声で聞いた。ウルは答えられなかった。でも、離れなかった。それが返事だった。
真珠は震える指でウルの頬を撫でた。触れるたび、喉が熱くなるようだった。
「……好き」
小さな声で言った。涙で声が滲んでいく。
「好きだよ……ウル」
その瞬間、ウルの腕が自分の背を抱いた。とても強く引き寄せられた。ちょっと驚いて、体はびくっとする。でも怖くなかった。むしろ、待っていた。胸が潰れるほど苦しかったけど、嬉しくて泣きそうだった。喉を震わせて嗚咽が漏れた。
「すまない」
「やだ、もう謝らないで」
「真珠……」
呼ばれた声は泣いていた。その声を聞いて、やっぱり真珠も泣いた。声を殺さず泣いた。
「ウル……」
その名前を呼ぶと、唇が触れた。触れた感触は、とても優しくて、熱かった。何度も触れ、角度も変えた。深い口付けで、濡れた音がする。ウルとキスした真珠は、嬉しくてまた涙が頬を伝った。
「好きだよ」
「……俺も」
ウルの声が震えていた。
「俺も、お前だけだ」
それが、一番欲しかった言葉だった。真珠の気持ちもウルの気持ちも、全部伝わった。全部、受け取った。だから、泣いた。声を上げて泣いた。泣きながら二人はキスをした。互いの舌を舐め、唾液を啜って、まるで溶け合うようにキスしていた。何度も触れて、何度も確かめた。
「私を……抱きしめて」
「離さない」
「絶対?」
「絶対だ」
それを聞いて、真珠は泣き笑いで頷いた。喉が詰まって、声にならなかったが、ウルは分かってくれた。もう逃げないって、伝わった。だから、二人は長いキスをした。夜が更けていく音を聞きながら。ずっと、ずっと触れていた。もう二度と離れないように。




