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近くて遠い

庭の花が風に揺れる音が好きだった。真珠は木陰に敷かれた絨毯の上で、母と一緒に座っていた。その向かいにウルがいた。彼は真珠から距離は取って座っている。まるで腰を下ろす位置をきちんと測ったように、微妙に遠い。でも、ここにいてくれる。それだけで、少し安心した。


母が席を外すと、二人きりになった。二人の間を風が抜け、他に何も音がない静かな日。しばらく誰も喋らなかった。そっと、真珠は喉を撫でた。もう声は出る。


「……風が、涼しいね」


小さく言った。ウルは少し驚いたように目を見開き、それから柔らかく目を伏せた。


「……ああ。過ごしやすい季節になった」


その声を聞くと、胸がきゅっと締め付けられた。真珠は、ずっとこうして話したかった。今までは声を出すのが怖くて、できなかった。でも今はできる、できるようになった。


「……昨日は、ごめんね」


思わず言ってしまった。昨日、少し声を荒げてしまったから。些細なことだったけど、ウルはすぐに下を向いて謝った。


「いや……俺の方こそ。言葉が足りなかった」


真珠は首を振る。


「違うの、私……私の言い方も悪かった」


声がまた震えが、でもちゃんと出た。ウルは目を伏せたまま、静かに頷いた。


「……ありがとう」


それを聞いたら、また勝手に真珠の瞳は潤みだし、涙が滲んだ。泣きたくなんてなかったのに。そんな彼女の様子を見て、ウルも小さく笑った。


「泣かなくていい」


その言い方が優しすぎて、余計に泣きそうになった。


「……泣いてない」


声が少し掠れたけど、笑いながら言った。ウルも、小さく笑った。それだけで幸せだった。こんなに普通に話せる日が来るなんて、思ってなかった。


それからは、ゆっくりと会話が増えた。最初のころは母が二人の間にいた。でも時間が経つと、次第に二人だけでも話せるようになった。


「花の匂い、好きか?」


「……好きだよ」


「どの花が?」


「……白いの」


そんな些細なやりとりが、全部愛おしかった。自分の気持ちを相手に伝えられる、真珠は自分の声が戻ったのを実感した。ウルの声は優しい。低くて、少し掠れていて、不器用で。でも誠実だった。


(こんなの、狡いわよ)


聞きたかった声。何度も思い出しては泣いた声。ウルの声に冷たさは、もうない。あるのは、溢れんばかりの真珠への思い。今はちゃんと耳で聞ける。それが本当に嬉しかった。でも……


ウルは、真珠に触れなかった。彼女の方を見て頭を下げることはあっても、手を伸ばしてはこない。真珠が笑っても、目を伏せ微笑むだけ。真珠が泣きそうになると、途端に距離を取った。まるで、自分がまた真珠が壊れてしまうと思っているようだった。


「もう……怖くないのに」


そう思った。確かにあの夜は怖くて怖くて、いっそ消えてしまいたくなって首を切った。血が溢れて、これで死ねると思った。でも今は違う。声も出せるようになって、話もできるようになった。笑い合えるようになって、なのに、触れてくれなかった。自分を抱きしめてくれなかった。前はあんなに強引だったのに。閉じ込めるみたいに抱きしめたくせに。今は少しも、触れてこない。それが、とても寂しかった。


ある日、庭を歩いていて、ふと立ち止まり振り返ると、ウルがいた。いつもみたいに少し離れたところ。こちらをじっと見ている紺碧と、目が合った。私が立ち止まると、ウルは困ったように眉を寄せた。


「……何か?」


真珠が喉を押さえるのを見て、すぐにウルは視線を逸らした。


「無理しなくていい」


そう言って頭を下げた。


「無理じゃない、よ」


声が少し震えたが、真珠は勇気を絞って言う。もう思ってるだけじゃ、我慢できないから。


「もう……怖くないの」


ウルは何も言わず、ただ、また深く頭を下げた。それを見て、真珠の目に涙が滲む。


「……ごめんね」


それでも言えた。


「いつも、ありがとう」


真珠の声を聞いて、ウルの肩がわずかに揺れたが、顔を上げなかった。結局距離は埋まらなかった。二人の周りを優しく風が吹き、可憐に咲いた花が揺れた。


……私だけが、泣きそうになっていた。


その夜布団に入ってからも、真珠は考えていた。あの人は、一度自分を壊した。でも、それ以上に大事にしてくれた。誰よりも頭を下げて謝ってくれて、一緒に泣いてくれた。今も真珠を怖がらせないように、触れないように必死になっているようだった。それがわかるから、余計に泣きたくなった。


「抱きしめてほしいのに」


真珠は声を殺して呟いた。


「もう、怖くないのに」

 

そう呟くと、喉が詰まった。泣きたくなかったのに、涙が滲んだ。真珠はグズグズになりながら、もう一度声を押し出した。


「……好きだよ」


真っ暗な天井を見上げて、ぽつりと落とした声は小さすぎて、自分にしか聞こえなかった。その声が震えていた。そっと目を閉じ、布団の中で涙を拭いた。


「……よし!」


明日もまた声を出そう。ウルに自分から、少しでも近づこう。彼をこんなにも傷つけ、触れれないほど怖がらせているのは、自分のせいだ。こんなにもたくさんの愛を与えてくれるウルに、今度は自分が与える番だ。


少しでも、伝えたい。


「怖くないよ」って。「私を、抱きしめて」って。目を見てちゃんと言えるように。そう決めて、ゆっくりと目を閉じた。


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