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ありがとう

真珠は静かな日々を過ごしていた。後宮の奥深い場所。豪華な装飾は相変わらずだったが、その扉は開かれていた。ウルが命じたのだ、「閉じ込めるな」と。門番さえいなくなった後宮は、まるで別物だった。


真珠は庭に出て、白い花の咲く小道を歩く。母と父が日本から来てくれたことで、彼女の表情はずいぶん柔らいでいった。母と座って紅茶を飲みながら、ゆっくりと深呼吸をする。喉を押さえたまま、それでも少し笑ってみせる。


「声を出そうとしなくてもいいよ」


と母が言った。


「生きてるだけで、ちゃんと伝わるから」


その言葉に、真珠の胸の奥が熱くなった。


まだ声は出なかった。空気が漏れるだけの音しか出せない。それでも、時折息を吐くように「あ」と短く声を出す練習をした。医師が勧めてくれたリハビリ。少しずつ自分の体に、声を出すことを思い出させるために。


ウルはその様子を遠くから見ていた。真珠のリハビリを、決して急かさなかった。彼女の部屋に来ても、無言で座るだけ。真珠が視線を落としている間は、ただじっと待った。視線が合うと、軽く頭を下げて微笑む。いつかのように、勝手に近寄ることはなかった。強く抱きしめもしない。彼女の意志を尊重するという、不器用な約束を守り続けていたのだ。


真珠はそれを、全部見ていた。見ないふりをしていたが、ちゃんと分かっていた。閉じ込めることを愛だと信じていた王子が、必死で自分を自由にしようとしている。それがどれほど彼にとって難しいことか。


ウルが臣下に冷たく命令する声を遠くで聞いたこともあった。「後宮の鍵を外せ」「監視をつけるな」「命令を守れないなら職を辞せ」と。その時の彼は、とても苛立った声だった。でもそれは、真珠を閉じ込めないために、彼自身と戦っている苛立ちだった。


庭に出た日、ウルが離れた場所で立っているのを見つけた。その日は陽射しが強い日だった。彼の額には汗が滲んでいたが、真珠が座ってお茶を飲む間、ずっと立ち続けていた。守りたいのに、近寄らない。声をかけたいのに、何も言わない。その姿が、私の胸を強く締めつけた。


別のある日、真珠は縁側に座っていた。夕陽が差し込み、柔らかな風が吹く。母が笑顔で花を活けているような、穏やかな日だった。もうどこにも鍵はなかった。誰も彼女を閉じ込めようとしなかった。ウルが、それを許さなかったからだ。


不意に視線を動かすと、やっぱりウルがいた。少し離れた柱の陰で、こちらを見ていた。真珠と目が合うと、慌てたように目を伏せ、そしてゆっくり深く頭を下げた。王族らしからぬ、深いお辞儀だった。誰に教わったわけでもない、不器用な謝罪の仕草。彼は何度もそれを繰り返していた。


そんなウルの姿を見て、真珠は胸が熱くなるのを感じた。喉が震え、押さえた指先に、まだ傷痕が僅かに触れた。死にたかったほど怖かった場所。けれど今、その恐怖を消そうとしてくれる人がいた。自分のために、王という地位さえ投げ出そうとする人がいた。


夕陽が赤く染める中で、真珠は深く息を吸った。怖い、でも、伝えたい。喉を押さえたまま、震える声を吐き出した。


「……あ……」


短い音だった。だが、音を聞いた瞬間、ウルの顔が上がった。目が見開かれ、呼吸が止まったようだった。真珠は喉を撫で、もう一度息を吸った。


「……あ……り……」


声はしわがれ、掠れきっていた。以前とは全く違う、別人のような声。でも、止めたくなかった。


「……が、とう……」


それは確かに言葉だった。自然に、無理にじゃなく、心から出た言葉だった。言い終えた後、真珠の目から涙が零れた。


ウルは遠くから立ったまま動かなかった。でも肩が震え、顔を伏せていた。声を出すのを必死で堪えているようだった。真珠はもう一度、喉を震わせた。

 

「……ありがとう……」


空気が温かく震えたようだった。その声を聞いて、ウルは涙を堪えきれずに手で顔を覆った。嗚咽が漏れてくる。遠く離れているのに、その声ははっきりウルに届いた。


真珠はそれを見て、また涙を流した。喉を押さえたまま、小さく笑う。


「ありがとう……ウル……」


声は途切れ途切れだった。でも、それでよかった。それでも、ちゃんと伝わった。初めて、心から出た「ありがとう」だった。王宮の長い回廊に、その小さな声はいつまでも柔らかく響いていた。


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