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怪物じゃなくなる日(真珠side)

砂漠の国の夜は冷たかった。昼間の灼熱を忘れさせるほどに、夜風は肌を刺した。


後宮の奥の部屋。


豪奢な彫刻の柱、白い石壁、金の細工がわずかに月明かりを返していた。そこに、私は座っていた。声を失ったまま。


喉の包帯はもう外れていたのに、声は出なかった。

無理に出そうとしても、私の心が声を出さないようにしているらしい。自分の体なのに、自分ではどうすることもできないなんて、つくづく人間の体は不思議なものだ。


声を出せない喉を押さえながら、真珠は目を伏せる。足元には、あの金の足枷が嵌っている。美しく優美でいて、それでいて自分をウルから離れないようにする枷。「后だ」という証のように、逃がさないという意志のように。


でも――それはもう私を殺すほどの鎖ではなかった。今は、少し違う意味を帯び始めていた。


あの夜のことは、はっきりとは覚えていない。ぼんやりしていて、もしかしたら薬のせいかもしれない。頭の奥が霞んでいて、周りの声も遠かった。ウルの声すら、あまり聞こえなかった。ただ、絶望だけがはっきりとそこにあった。


「もう終わりだ」「これ以上逃げられない」「私は物だ」「もう自分がなくなる」


そんな声が頭の中で鳴り続けた。だからナイフを握ってしまった。あれは計画なんかじゃない、ただの衝動だった。もう何も考えられなかったし、考えたくなかった。消えたかった。痛みも血も、あの時は何も怖くなかった。それすら、今では断片的にしか思い出せず、まるで夢みたいにぼやけている。あの時の自分は、もう自分じゃなかった。


本当は、死にたくなかった。今ははっきりわかる。

死にたくなんて、なかった。ウルと、もっとちゃんと話したかった。どうしてこんなことをするのか聞きたかった。私のことをどう思っているのか、言葉で言って欲しかった。私も、自分の気持ちを伝えたかった。怖いって言いたかった。嬉しいって言いたかった。生きたくないわけじゃなかった。生きたかった。


私は、本当はウルのことが好きだったんだ。


ただ、囲われて生きていくのが怖くて、あの時はそれを言葉にできなかった。口を開けば泣いてしまうから。死ぬことでしか、それを止められないと思うほど、追い詰められていたんだと思う。


両親が呼ばれた日。

私が泣き喚く姿を、ウルは見ていた。父と母に泣き崩れた私を、声も出せず子どものように泣く私を、紺碧の瞳で、ただ見つめていた。その目は鋭いけれど、酷く濁っていた。どこまでも沈んで、何かを諦めたように。


でもその後、彼は父と母に頭を下げた。床に膝をつけ、王太子としての誇りを捨てて。その背中は小さく震えていた。護衛たちが止められず、側近たちが慌てふためいた。それでも彼は、頭を上げなかった。


(こんなことが、できる人だったんだ。)


心の奥で、少しずつ氷が割れる音がした。ずっと私は「怪物」だと思っていた。閉じ込めて、香を焚いて、声を奪って、足枷をはめた男。でも――怪物なんかじゃなかった。泣くことができる人だった。壊したものを、取り戻せるとは思っていない。それでも、頭を下げることはできる人だった。 


両親はアメニアに滞在を許された。「いつまででもいてください」と告げられたそうだ。期限を設けないというのは、王宮としては破格だった。護衛も女官も、二人を私と同じように扱った。


初めは両親も怯えていたけれど、少しずつ、砂漠の風景を歩くようになった。母は花を見つけて微笑んだ。父は護衛に冗談を言うようになった。私に会うたびに、笑おうとしてくれた。でも涙を堪えていた。その優しさに、また泣いた。


それだけじゃなかった。日本の家も、ウルが手を回してくれていたと聞いた。生活が不意に止まった両親の家計も、見えない形で補填されていた。父の職場には「家族の都合でしばらく滞在する」と正式な休職扱いにしてもらい、母の通院先には「転院先を紹介する」手配までされていた。おそらく国が動いたのだろう。アメニア王室が、動かしたのだろう。ウルが、動かしたのだろう。


私は素直に驚くしかなかった。あの冷酷で、自分しか見ないと思っていた人が、そんな気遣いをした。彼は私を逃がさないし、帰さない。その意思は今後も変わることはないのだろう。金の足枷がそれを告げていた。でも、その中で「生かす」ことを本気で考えてくれていた。私の家族まで、生かすことを。ただの所有欲じゃなかった。その奥に、私にはまだ名前のつけられない感情があった。


夜、薄い布団の上で、声もなく涙が止まらなかった。両親が来てくれて嬉しかったし、抱きしめてくれた温かさを思い出したから。それとともに、なんて親不孝をしてしまったんだと、酷く後悔した。だが、その後悔ができるのも、今生きているから。それを叶えてくれたのが、他ならぬ彼だった。


憎かった。憎かったはずだった。でも、今ではそれだけじゃなくなっていた。胸が痛く、彼を見ると今でも喉が詰まる。声を出せない分、泣くしかなかった。


あの夜に戻れるなら、ナイフなんか持ちたくない。泣きながらでもいいから、声を振り絞って「嫌だ」「怖い」「助けて」「でも、好き」って言いたい。

何も隠さずに、全部ぶつけたかった。抱きしめてほしかった。泣いてほしかった。謝ってほしかった。でも、もう遅い。傷は消えない、私が自分でつけた傷。ウルの心にも、きっと同じ傷が残ってる。その傷を見つめながら、これからも一緒に生きるしかないんだ。


アメニア王室も変わり始めていた。女官たちは私を見る目を変えた。怯えるように距離を取っていたのに、今はそっと布を差し出してくれる。足枷を拭き、包帯を優しく巻き直してくれる。「妃殿下」と震える声で呼びかける。その声に、涙が溢れた。答えられないのが苦しかった。でも、ありがとうと心で繰り返した。


護衛たちも目を逸らさなくなった。無言の命令を待つだけだった彼らが、両親を丁寧に案内するようになった。母が怖がると、護衛の男が小さく頭を下げ、父が質問すると、少し慣れない英語で答えてくれた。砂漠の国の人たちが、私の家族を受け入れようとしていた。王太子の命令が、王宮全体を少しずつ変えていた。


私は今でも声が出せない。それでも感じていた。

この冷たい砂漠の国が、少しずつ、柔らかくなっていくのを。その中心にいる男の横顔を、こっそり見た。紺碧の目が鋭く光っていたけど、その奥が少しだけ和らいでいた。私を見て、声を失った私を見て表情を歪め、泣きそうになる顔を、王族としての威厳で押し殺していた。


それを見て、胸が苦しくなった。「ごめん」とも「ありがとう」とも言えなかった。私の声は出なかった。でも心の中で、必死に伝えた。震えるように、叫んだ。


(ありがとう)


喉が詰まり、やっぱり声にはならなかった。でも涙が一筋落ち、それを拭う彼の指が震えた。彼の手は、温かかった。


(ありがとう)


私を、閉じ込めないでいてくれて。

私を、まだ見ていてくれて。

私を、まだ、愛してくれて。


アメニアの風が吹く。夜の砂漠が、冷たくて、少しだけ心地よかった。

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