最愛の家族
後宮の謁見室は、常に砂漠の王権を誇るような金と白の荘厳さに満ちていた。
だが今日は違った。その豪奢さが、どこか居心地悪そうに沈黙している。空気が重く、息を呑む音すら響き渡った。
真珠は車椅子に座っていた。首にはまだ包帯が薄く巻かれている。左足首には、細く繊細な金の足枷が光っていた。傷は癒えたはずなのに、声はまだ出ない。痩せて骨張った肩に、真新しい後宮衣装が不自然にかかった。
真珠から少し離れて、女官たちは周囲に控えていた。彼女らは目を伏せ、緊張で指先を白くしていた。後宮内でも噂は伝わっている。「王太子殿下が、妃殿下にゲストをお呼びした」と。でも、女官たちは王太子の思惑を読めなかった。「妃殿下の笑顔が見たい」などという、甘い言葉は一切口にしない男だった。彼の目はいつも、支配者の冷たい紺碧を灯していたから。
だが、その男が――
後宮の最奥に、遠路はるばる呼び寄せたゲストを、自ら案内していた。金の扉がゆっくりと開く。砂漠の空気と異国の空気を切り裂くように。部屋が開かれ、スーツに身を包んだ中年の男女が足を踏み入れた。二人は、硬くなった表情をし、疲労で少し俯いた背中だった。でも、目だけは必死に室内を探していた。
そして、見つけた。
車椅子に座る最愛を。
二人が視界に入った途端、真珠は固まり、目を見開いた。声を失った喉がヒクヒクと痙攣する。包帯が絞めつける感覚がした。でも声は出なかった。
「真珠!!」
「……っ!…」
真珠の母の声が割れた。
真珠も懸命に声を出そうとした。だが、僅かに空気が震えるだけで、母を呼ぶ声も父を呼ぶ声も、やっぱり出なかった。喉が詰まり、唇が震えるだけだ。
母の泣き声に、場の空気が破れたようだった。それは、悲鳴のような泣き声だった。その声に、女官たちが息を呑み、護衛が動こうとした。でもウルが手を上げて止めた。
そして、瞬間――母が駆け寄った。転びそうになりながら、娘の前に膝をついた。その手が震えながら真珠の頬を包んだ。髪を掴み、包帯を触って泣き崩れた。
「真珠……ごめんね……ごめんね……」
喉が詰まるような泣き声だった。娘の肩を抱いた。でも細くて軽かった。泣きながら、その体を震わせた。
父も無言で傍に座り込んむ。硬いスーツの膝をついた。大きな手で真珠の肩を抱き、その手が微かに震えていた。目が赤く充血し、唇を噛む。でも、堪えきれずに声を震わせた。
「……おい、真珠…なんだよ、これ…何があったんだよ……」
頬が涙で濡れ、喉が詰まった。それは、男が泣く声だった。
真珠は何も言えない。声が出なかったから。泣きたくなかったのに、涙が止まらなかった。もう癖のように、喉を押さえる。震える指先が包帯を掴んだ。でもやっぱり声は出なかった。嗚咽すら出ない。かすれた空気が喉を擦るだけだった。それでも、泣いた、子どものように。父と母の胸に顔を埋めて泣いた。肩を震わせ、声にならない泣き声を上げた。
女官たちは目を伏せ、鼻を啜る。音を殺して涙を拭った。護衛たちも目を逸らした。側近たちは慌てて王太子を振り返る。
「殿下、これほどまでに……」
側近の声が震えていた。だがウルは動かなかった。護衛も、側近も、女官も見ない。彼は、真珠とその両親だけを見ていた。視界にある三人を、何の表情も映さぬ紺碧の瞳が細く揺れる。そして、ゆっくりと前へ進み出た。
部屋に砂漠の王の長衣が擦れる音が響いた。
ウルは、いまだ抱き合って泣き続ける三人の目の前に立ち、床に片膝をつき、深く、深く頭を下げた。すでに王冠も外している。礼とともに、長い黒髪が肩から流れ落ちる。それは、王族に許されないほど深い礼だった。
護衛たちが「殿下!!」と慌てて駆け寄ろうとしたが、「動くな……」と、側近が制した。側近の声も震えている。ありえない王太子の姿を見て、全員が硬直していた。
そして、低く、掠れた声が落ちた。
「……私が……全部悪い」
ウルの声は震えていた。途中で喉が詰まり、でも吐き出すように続けた。
「真珠を……こんな姿にしたのは……私だ」
その言葉を聞き、母が泣き声をあげる。父が真珠を抱きしめた手を強くした。二人と一緒に、真珠は泣きじゃくった。声にならない嗚咽が身体を震わせた。涙が母の胸を濡らした。
ウルは頭を下げたままだった。金の装飾が床を打つ。握った手は、爪が食い込むくらい握られている。ゆっくり息をして、でも喉が詰まって、吐息が震えた。
「申し訳……ない」
やっと吐き出せた声は掠れていた。気を張りつめなければ、彼は泣きそうだった。呼吸は次第に乱れ、さらに強く拳を握った。爪が食い込んだ手のひらには、血が滲みはじめていた。
「私が…すべてを奪った。お二人の、大切な娘を」
母はとうとう泣き崩れ、父が顔を歪めて涙をこぼした。真珠は声を出せず、空気を引き絞るような泣き方だった。それでも必死に母を掴んでいた。
謝罪の間、ウルは頭を上げなかった。護衛たちが震えた声で「殿下……」と呼ぶ。側近も、何度も「お顔をお上げください」と進言した。でも、ウルは動かなかった。そのまま片膝を床につけ、震える声で吐き捨てた。
「…赦してほしいなどとは…言わない。私は……后を守れなかった。后を、真珠を……壊したのは、私だ」
部屋では、誰も動けなかった。後宮の謁見室が、泣き声と嗚咽だけに満ちる。母は娘を抱きしめたまま泣き続けた。父は娘の肩を支えたまま泣いた。真珠は声を失ったまま、子どものように泣いた。ウルは深く頭を垂れたまま、ただ「申し訳ない」と震える声で繰り返した。




