昏睡
後宮の医療室は、ただ静かだった。厚い扉を閉め切り、外の喧噪を完全に断っていた。壁は砂漠の石灰を研ぎ澄ませた淡い白。天井のモザイクは夜空を模した青。かすかな香の匂いだけが、死の匂いを隠すように漂っていた。
真珠は、寝椅子に横たわっていた。白い絹のシーツは、彼女の血の滲みを隠している。首には包帯が巻かれ、輸液ラインが二本、白い腕に刺さっている。
酸素マスクが口元を覆い、肺は酸素を飲み込み全身に行き渡らせる。シューッっという酸素の音だけが、虚しく響いた。
目は閉じられ、睫毛が涙で固まっている。唇は血の気を失っていた。だが息をしている。それだけが、彼女がまだ生きている証だった。
ウルは、その傍にいた。椅子に深く腰を下ろし、両肘を膝に乗せ、組んだ手を顎に当てた。金の装飾は取り払われ、王族の装束は皺だらけだった。首筋に跳ねた血が乾いて茶色に変色していた。
紺碧は真珠を見ていた。見下ろすようにでもなく、守るようにでもない。ただ、絶望した男の目だった。医師団はもういない。処置を終え、経過観察だけを女官に任せ下がっていった。女官も気配を殺して立っていた。近づこうとするものはいなかった。一歩でも踏み込めば、ウルの目が射抜くことを知っていたからだ。
だから、部屋には酸素が漏れるかすかな音だけしかなかった。
ウルは微動だにしない。だが手が震えていた。握りしめた拳が、白くなっていた。
(俺が選んだ。俺のものだ。俺だけのものだ)
喉が詰まり、声が出なかった。何度も言葉を吐こうとして、飲み込んだ。
それでも真珠は眠ったままだった。いや――眠りですらない、昏睡だった。意識は遠く、呼びかけても届かない。瞳を開くことも、声をあげることもできなかった。
ウルは、傷を負ったその首を見た。何度も医師たちが縫い、消毒し、薬を塗った痕跡。それでも包帯にはじわりと滲む血があった。完全には塞がらない、鋭い刃の跡。
(お前は……俺から逃げようとした)
心臓を握られるように痛かった。胸の奥が熱く、でも冷たく感じる。
(あの目……あの声……)
「……バイバイ」
あの時の声が、脳裏にこだましたその声が、耳を裂く。王族の血が震え、喉が焼けた。
「……ふざけるな」
思わず声が漏れた。潰れた、呪詛のような声だった。本当は誰にも聞かれたくなかった。
「死ぬな」
吐き捨てた。震える声で、唸るように。
「お前は后だ。俺の后だ……死んで逃げようなどと、許すものか」
酸素マスクの中で、真珠は呼吸を繰り返した。機械が小さく鳴く音、それが唯一の応答だった。ウルは伸ばした手を震わせた。指先が、真珠の頬に触れると、そこは冷たかった。まだ熱が戻っていなかった。人形のように、動かなかった。
「……逃げようとするな」
喉が鳴り、目が潤んだ。頬を濡らすものを指で拭った。
「どこにも行くな……俺のものだ。神に誓った」
金細工の足枷は、今も彼女の足首を囲んでいた。細く美しい文様が、寝椅子の上で鈍く光った。逃げられない証。所有を示す装飾。
「お前は后だ……だから死ぬな」
言葉が詰まり、声が震えた。だが真珠は動かなかった。睫毛は動かず、唇も言葉を吐かなかった。
女官が小さくすすり泣いた。それをウルは睨みつける。慌てて女官は頭を垂れ、声を殺した。王太子の絶望がこの部屋を支配し、誰も口を開けなかった。
ゆっくりとウルは立ち上がった。だがすぐに腰を落とした。どうしてもここから離れられなかった。後宮の王座を背にした男が、ただ一人の女を見守るしかなかった。
「目を開けろ」
それはとても小さな声だった。彼の喉は潰れていた。
「……お願いだ」
その声に、権威も誇りもなかった。あの冷たい命令も、狂った愛も、剥き出しの弱さに変わっていた。王太子ではなく、一人の男がそこにいた。
だが真珠は応えない。その呼吸すら、補助がなければ危うい状態。薄暗い医療室の光が、血の滲む傷を隠さずに晒していた。ウルは頬を覆い、肩を小さく震えわせる。声が詰まり、泣き声を押し殺した。
(俺のものだ。誰にも渡さない。だから死ぬな……死ぬな)
医療室の扉は、分厚く閉じられていた。外の世界を完璧に遮断していた。砂漠の夜風も、世界の好奇の目も、すべてを締め出した。
だがウルの恐怖だけは締め出せなかった。
「……頼む」
それが王族の命令ではなく、ただの祈りだった。
静まり返った後宮医療室に、その声だけが落ちた。




