翌日の余韻
青い天蓋の奥に、鈍く光る朝日が差し込んでいた。香炉から焚かれていた濃密な香気は消え、夜の淫靡な気配は拭い去られている。それでも空気の奥にはまだ、かすかに「神の寵愛」の残り香が漂っていた。
真珠は、視線をゆっくりと落とした。乱れたシーツの中、薄布一枚をまとった体。肌に走る、まだ赤みを帯びた痕跡。そして何より──足と腰に力が入らなかった。
(……最悪だな、これ)
身体を起こそうとしただけで、足が言うことを聞かない。肘をついて上半身を起こすたび、鋭い痛みが腰を刺した。悔しさで喉の奥が焼ける。でも泣くのだけは、死んでも嫌だった。
(一体何回抱いたのよ)
3回目くらいまでは覚えている。だがそれ以降は、頭に霧がかかったようになり、夢か現か判断できなかった。真珠はゆっくりと水差しに手を伸ばす。中はとても冷えた水だった。真珠は一気に中身を煽った。
──やっと、頭が冴えてきた。ようやく、昨夜のすべてを冷静に思い返せるようになった。
着物を着せられ布を被るよう強制されたこと。
重たいネックレス。
香炉の甘い煙。
そしてウルの、勝ち誇ったような低い声。
「……后、だってさ」
吐き捨てるように言葉が漏れた。自分でもわかっている。こんなの、后なんて立場じゃない。名ばかりだ。後宮に囲われた「女」なんて、歴史上いくらでもいた。正室ではなく、側室でもなく、ただの「所有物」。――つまりは妾だ。
胸が、鈍く痛んだ。悔しさだけじゃなかった。怒りも、惨めさも、自分で呆れるほどにごちゃ混ぜだった。
(……私、何やってんだろう)
しばらくして、扉の外で気配がした。
軽いノックもなしに、ウルは入ってきた。いつもの黒衣装に金の装飾を身につけ、長身のシルエットを誇示するようにゆっくりと歩み寄ってくる。
真珠は必死に上半身を起こし、シーツを引き寄せて体を隠した。彼を睨みつけるその顔には、怒りよりも冷えた理性が滲んでいた。
「…よく来れたわね」
声がかすれていた。けれど、それでも淡々と言葉を吐き出した。
「勝手に后だなんて言われても、日本じゃそんなの通用しない。婚姻は書類がいる。私、友達が国際結婚したときの話聞いたことがあるの。お互いの国の法律に則って書類整えて、提出して、査証も更新して、滞在資格も変わって……めちゃくちゃ大変なんだよ?」
ウルは面白そうに眉を上げた。
「ふん、そんなものか」
「そんなものだよ。だから、あなたが私を后だって言っても無意味だよ。私には帰国予定があったし、仕事だって途中だし……そもそも、法的に無効なの」
必死だった。思考を組み立て、言葉を整えて、何度も震えそうになる声を抑えた。
「それに……!」
息を飲む。一番言いたくなかった言葉を、絞り出した。
「私なんか…妾とか愛人とか、そんな立場なら、別に私じゃなくてもいいでしょ…?若い子だってたくさんいる。綺麗な女の人も、アメニアにだって…
なんで……なんで私なの?」
最後だけ声が少し掠れて、情けなくなった。
ウルは黙っていた。やけに長い沈黙だった。真珠は一瞬、勝ったのかと錯覚しそうになった。
だがその瞬間、ウルはゆっくりと歩み寄り、ベッド脇に腰を下ろした。そして、薄く、妖艶な微笑を浮かべた。
「くだらん」
その一言が、鋭く突き刺さる。
「法だと? 書類だと?…お前、本当に、まだそんな子供じみた理屈を信じてたのか?」
真珠は言葉を失った。
「俺が欲しいのは法的な妻じゃない。お前自身だ」
指先が、真珠の頬に触れる。昨夜の熱が、真珠の身体に蘇ってくる。
「お前が年上だろうと、外国人だろうと、処女じゃなかろうと関係ない。俺が欲しいと思った。それがすべてだ」
そう昨日言っただろう?ウルは真珠の耳元に唇を寄せて、囁くように言った。
「妾や愛人で済むなら、どれだけ楽だったろうな。残念だが……お前は、俺にとってそれ以上だ。他の女では、代わりにならない」
真珠は息を飲んだ。睨み返そうとした目が、震えた。だがウルは、その動揺を見逃さなかった。
「お前はもう後宮に入った。儀式も正しく執り行われた。よって、お前は紛れもなく、俺の后だ。どの書類よりも、ここの言葉の方が重い」
指先が顎を持ち上げ、無理やり目を合わせさせる。
「わかったか?」
声は柔らかいのに、命令だった。
真珠は口を開きかけたが、声が出なかった。何を言っても通じない。そう、これまで何度も感じてきた感覚が、決定的な形で胸を貫いた。
(この人に、理屈は通じないんだ……)
理屈じゃない。
言葉じゃない。
それはすでに「選択肢」ではなく、「決定事項」だった。
ウルは薄く笑って、名残惜しそうに指を頬から離した。
「着替えを持たせる。動けるまで時間をやろう。だが今日は俺の隣に座れ、それが后の務めだ」
言葉を失った真珠を残して、ウルはすっと立ち上がり、背を向けた。衣擦れの音が遠ざかる。
残された真珠は、力の入らない足を見下ろしながら、自分がこの国で「何に」なったのかを、ようやく、認めるしかなかった。