真珠という女
通勤ラッシュのホームは、今日も戦場だった。ギュウギュウ詰めの電車に押し込まれながら、彼女はいつものように無表情で立っている。顔を上げれば、窓の外には濁った灰色の空が広がっていた。
橘 真珠、28歳。未婚。都内の広告代理店に勤めるキャリアウーマン。控えめな化粧に、体の線を拾わないベージュのパンツスーツ。決して目立つタイプではないが、誰もが「できる人間」として一目置いていた。
朝は五時起きでランニング、ジムで身体を整え、無駄のない食事を摂る。会議には常に準備を怠らず、上司の質問にも一切の間を空けない。
同期入社の女性社員が、次々と寿退職していく中、真珠は特に焦りもせず、黙って祝っていた。羨ましいと、正直思ったことがない。結婚とは、自分の人生に無関係の出来事と本気で思っていたのだ。
そんな真珠の私生活は極端にミニマルで、交友関係も必要最低限。彼女の周囲には、誰も近しい人間がいなかった。
――それでも、寂しいと感じたことはない。
誰にも甘えず、誰にも期待せず、ただ自分の足で進み続ける。それこそが、真珠という女の美学であり、強さだった。
今、真珠のデスクには一枚の報告書が置かれている。内容は、社内コンペの最優秀賞の決定通知。
「あなたが取るなんて、ちょっと意外だったわ」
皮肉にも驚きにも聞こえる声を背に、真珠は静かに笑った。
「...正直自分でも驚きました」
コンペのテーマは「次世代グローバルブランド戦略」。彼女が提出したプレゼンは、海外ブランドのリブランディングを提案するものだった。緻密な市場調査と鋭い消費者分析に基づくストーリー性のある構成。情緒と論理のバランスが極めて美しく、社内の全投票で1位を獲得した。
――自分としては、いつも通り手を抜かず、確実に仕上げた結果だった。達成感も、満足感もない。ただひとつ、やるべきことをやったに過ぎない。そんな彼女にとって、意外だったのはその副賞だった。
「一週間のハワイ旅行だってさ」
同僚が羨ましげに言う。
「……ああ、そんなのがあったわね」
真珠はモニターから視線を外さずに、さらりと答えた。
ハワイ――美しい海と陽射し、人々の笑顔。そんな「楽園」を心から楽しめるような人間ではない。それでも、ここしばらく仕事漬けだった自分にとって、悪い話ではなかった。
(誰にも会わず、誰にも干渉されずに過ごせるなら…)
そんな淡い期待と、胸の奥に引っかかる微かな違和感。これまで、誰かに与えられるご褒美など求めたことはなかったのに――今回ばかりは、その言葉がどこか居心地良く感じられた。その夜、帰宅してからスーツケースを引っ張り出し、旅支度を整える。真珠はそれをただの休暇として受け取っていた。
しかしこの旅が、彼女の人生を音もなく侵食してゆく運命との邂逅になることを、この時の真珠はまだ知らなかった――。