アメニアでの仕事
それからの日々。仕事は順調に滑り出した。新規契約交渉、商品監修、現地市場の分析。すべての業務が整えられすぎていたけれど、真珠は「この国のやり方なんだろう」と最初は納得していた。
だが、奇妙なことが少しずつ増えていった。
まず、視察予定だった市場に行けなくなった。「安全上の都合」と言われたが、アメニア国内で外国人を狙った事件やテロは発生していなかった。何度か王宮スタッフに掛け合い、ウルにも訴えたが、答えは「No」だった。
次に、彼女が参加するはずだった複数の会議が「先方の都合」で次々と延期された。代わりに入ってくるのは──ウルとの個人的な対話の時間だった。
「あなたも忙しいでしょうに。私としては、もっと現地の人と話したいんだけど」
「俺が現地の意志そのものだ。俺に聞けば、全てがわかる」
「いや、そういう話じゃなくてさ…」
「お前の時間は、俺のためにある。それが本質だろう?」
その言葉を聞いて、さすがに真珠は笑った。
「冗談言って…ウル、私より年下なんだから、そういうゲームは程々にしなよ」
「年齢では上下は決まらない。支配できるかだけが基準だ」
「…そういうところが、やっぱり子どもっぽいよ」
ウルはその時、真珠を見つめたまま何も言わなかった。ただ、何かを押し殺すような、深く低い感情がその目に沈んでいた。
(…今のは、さすがに怒った?)
そう思った瞬間、真珠はゾクリとした。でもそれを言葉にすれば、何かが「戻らなくなる」気がして、笑って流した。違和感には、微笑みで蓋をするのが一番だ。そう信じていた。
数日後、ウルがまた現れた。
「仕事は順調か?」
「うん、まぁ…順調だけど、ちょっと籠の中って感じかな」
「籠? そう思うのは、外に出られると思っていたからだ。だが、初めから籠の中だと知っていたら、お前はそれを部屋と呼ぶだろう?」
「…なんか、哲学的になってきたね」
「大事なものを、籠の中で守ってやるのは当然だ」
あまりにも即答だった。真珠は笑って、冗談のつもりで返した。
「憧れの年上のお姉さん…的なやつ?」
「憧れではない。独占だ。…俺は、お前のような女を手に入れた者が、この国で勝者となると知っている」
その夜、真珠はひとりベッドの上で、真っ暗な天井を見つめた。
(私みたいな女って、なに?)
ウルは自分を褒めているようだった。だが、どうしても腑に落ちない。日本では彼女は「キャリア女」「気の強い女」として敬遠されがちだった。自分のような女が“モテる”対象になるとは思えない。だから、こう思うしかなかった。
(…きっと、珍しいんだ。彼の世界では。だから目を引いてるだけで、本気なわけがない。年上の女にちょっと憧れてるだけ)
けれど、そう信じたかった真珠の希望を、ウルは少しずつ、削っていった。
ある朝。予定されていた外部との会議がキャンセルされたと知らされた日。部屋のドアに貼られていた札には、こう書かれていた。
『本日は王太子殿下との面会日です。スケジュールはすべて調整済みです』
彼女のスケジュールは、もう──自分のものではなかった。
そして気づく。部屋に置かれた花が、彼女の好みと一致していること。香水が、ある日からウルが最初に会ったときに言った好きな香りに変えられていたこと。「君はこの服が似合う」と言われた後に、衣装部屋のラインナップが全て一新されていたこと。
それらが、彼の手によって調整されているという事実に。
なのに、真珠はまだ笑っていた。
(これは、幻想。私なんて、年上で、ただの会社員で…まさか、本気で囲い込まれてるわけが、ない)
でも、そのまさかは──ウルが、ずっと見せてきた微笑の裏で、すでに完了していた。──王子が囚える檻に、鍵は必要ない。彼の言葉とまなざしが、すでにその四方を塞いでいるから。