帰国の報を聞いた祖国の動揺
【某外務省 国際儀礼課】
午後二時十二分。
静かだった執務室に、一本の電話が入った。
「……え?アメニア王太子殿下が、王太子妃と生後三ヶ月の王子を連れて、日本へ一時帰国予定?今、なんと?」
担当官は受話器を持ったまま静止した。その顔面はあっという間に青ざめ、眼鏡がずり落ち、声にならない声を漏らす。
「え?えっ、えっ……は?帰省?うそ……まって、帰省って、あの!?実家に行くって意味の!?」
電話を切った直後、部屋の空気が一気に凍る。
「国賓レベルの一時帰国……それを帰省と表現した……だと……?」
誰かが机に突っ伏した。
誰かが書類を落とした。
誰かが「胃薬……」と呟いて書庫へと消えていった。
「ちょ、ちょっと待って!何日に来るって言ってた!?」
「来月!?え、もう一ヶ月切ってる!?バッファ期間なし!?マジで!?」
「王太子妃殿下は赤ちゃん連れだぞ!?滞在施設は?警備は!?医療班の手配は!?」
「えっ、ちょっと、礼砲撃つ?撃たない!?撃ったら帰省に礼砲だぞ!?逆に撃たないと冷遇に見えるぞ!?どうする!?」
「お土産文化!食文化!神前仏前の忌避物!香料!肌着の素材!全部リストアップしないとダメです!!」
「赤ちゃん用のミルク、メーカーは!?水質チェックしてる!?哺乳瓶は!?煮沸消毒!?アレルゲン検査済んでるの!?」
さらに混乱を深めたのが、提出された一通の文書。
件名:帰国に関する通知
差出人:アメニア王宮官房室
本件は王太子妃殿下の帰省を目的とする非公式行事であるため、過度な報道や過密な儀典を回避いただけますようお願い申し上げます。
「非公式って書いてるけど……同行者、王太子って明記されてるよな?」
「これ、どう見ても非公式の国賓っていう新ジャンルじゃないか……!」
「静かにしてくれって言ってるけど、来るのが王太子と第一王子なんですけど!?どこが静かだよ!!」
「帰省にしては、警備部隊が王室レベル、部屋が要塞、荷物が貨物機……もう無理」
誰かが膝から崩れ落ちた。
そして誰かがぽつりと呟いた。
「やっぱり……“ヤンデレ王太子”って、伊達じゃなかったんだな……」
――地獄の準備会議、幕を開ける。
「俺たちの知ってる帰省じゃない」
警察庁・警備局。
最上階の会議室に緊迫が走る。
「なに!?アメニア王太子が来日!?しかも帰省目的!?」
「聞いてませんよ外務省さん!こっちはG7警備の真っ最中なんですけど!」
端末を叩く音、電話が鳴りやまない。数名の警察庁幹部が情報共有を進める横で、ひとりの若手が呟いた。
「……帰省って、あの、実家に孫見せに行く的な……あの帰省ですか?」
「それ以外に何があるんだ!現実逃避すんな!」
一斉に資料がばら撒かれたテーブルを囲み、状況確認が始まる。
「王族、しかも王位継承第一位だ。SPどころの話じゃない。要人警護を超えて国家の象徴クラスの扱いだぞ」
「アメニアって中東圏だよな?王族の身辺には宗教的配慮もあるはず。食事、接触、空間、全部配慮しないと炎上するぞ」
「ちなみに妃殿下は日本人。帰省とはいえ、滞在先は日本国内の一等地……それもホテルと来た」
ある老幹部が苦々しく呟く。
「つまり……王宮仕様のホテルが必要ってことか」
「ああああああっ!!!」
誰かが悲鳴をあげた。まだ何も起きていないのに胃に穴が空きそうな気配だ。
「そして最も重要な点、王太子には乳児の第一王子が同行する」
「乳児ぃいい!?」
「泣かせるな!転ばせるな!空調!照明!騒音!粉塵!不審者ゼロ!カメラもドローンもアウトだぞ!!」
現場はすでにパニックの渦。
「関空か?羽田か?どっちで降りる!?」
「都内移動の経路を確保!一般車両の封鎖許可!?いや、それ、オリンピック超えるレベルだぞ!!」
「ウルシュガ殿下って、たしかSNSでヤンデレ扱いされてる人だよな……」
「それ公的な発言じゃないから黙れ」
「……いやでもな、マジで、真珠妃殿下に触れようとした奴、現地じゃ粛清もあり得たって……」
「……それ日本で起きたらどうすんのよ」
「国内重大事件になります!!!」
全員が頭を抱えた。この帰省はもう警備というより、国家の威信を賭けた外交戦争。
「一歩間違えれば大事件。だが、何事もなく済ませれば日本の威信が世界中で上がるぞ」
「それは……わかる……けど……!」
部屋中に響く、呻きと嘆息。だが、その中心で、公安系の若手だけがじっとPC画面を見つめていた。画面にはウルと真珠、そして第一王子ランの家族写真。
「……綺麗だな。こりゃあ、確かに護りたくなるわ」
一瞬の静寂。
──次の瞬間、号令が飛んだ。
「総員、全対応準備に入れ!!最大警備態勢だ!!帰省だからって甘く見るな!!!」
令和最大の警護作戦が、幕を開けた。その名も──『アメニア王太子妃殿下・帰省作戦』。
霞が関の一角。午前8時45分。
内閣府のとある小さな会議室に、儀典担当・国際政策班・治安関係の連絡官らが、コーヒーも飲みきれぬうちに次々と集まっていた。
「……それで、帰省……と、彼の国は言ってるんですか?」
儀典チームの課長補佐が、おそるおそる確認する。対応していた外務省からの出向者が、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「はい。あくまで私的帰省だと。ただし、同行者はアメニア王太子殿下、第一王子殿下、随行医師、侍従、護衛官多数……輸送機レベルで来日されます」
「……それ、帰省じゃなくて事実上の国賓訪問では?」
「違う、と強く言われております。あくまで私的とのことです」
室内にどよめきが走った。私的と言い張られても、来るのは王族の頂点。しかも、世界の注目を浴びている生後三か月の第一王子までいる。SNSでは#世界で一番美しい家族、が連日バズっているというのに、対応を「親戚のお泊まり」レベルに済ませられるはずがない。
「国賓扱いでないなら、どの法的枠で?」と室内ではパニックが発生している。
「警察庁からはSP付きの警備計画が回ってきてるけど、私的訪問扱いで空港のVVIP動線通せるのか?」
「厚労省経由で医療体制の確保も必要だぞ。乳児が同行するんだ」
「国賓じゃないなら公費負担できないですよ!?誰が支払うんですか!」
「いや、アメニア側が自国費用で――」
「できる限り日本国として最大限の礼をって書いてあるじゃないですか!詰みです!」
「しかも、宿泊先は機密。指定の高級ホテルに日本側から親族を招待する手筈だと聞きました」
「……国際儀礼の文脈がもう壊れてる……」
室内には重苦しいため息が何度もこぼれ落ちる。
「この件、総理に直接報告すべきじゃないですか」
「……いや、まずは官房長官ルートで。うん……うん、ええ、なんとか和らげた形で」
報告文書のタイトルには、苦し紛れにこう書かれた。
《日本国籍を有する配偶者の帰省に伴う、外国王族の同伴訪日について》
「なんでこんな回りくどい言い回しに……」
「だって帰省なんですよ!?」
誰かが机に突っ伏してうめいた。
誰も悪くない。
真珠は日本国民であり、里帰りは当然だ。王族の一家が愛し合っているのも喜ばしいことだ。だが――このタイミングで、あの王子が、あの息子を連れて、訪れるのは――前例がなさすぎる。
儀礼、財務、警備、外交、メディア統制。全てが“グレーゾーン”に突っ込んでいる。
それでも、粛々と準備は進む。いつものように整然と、日本は国をあげて「帰省」を迎えるのだ。
成田空港・国際線VVIP動線エリア。
まだ夜も明けきらぬ午前4時。けたたましい無線が交錯する中、普段は冷静なグランドスタッフたちの顔が、青ざめたままだった。
「え、確認なんですけど、個人での帰省なんですよね?」
「……国賓では、ないんだよな……ないけど、来るのは……アメニアの王太子一家と、その第一王子」
「来るの、旅客機じゃなくて、軍用機仕様の特別機だぞ。護衛機付きで二機構成。どこが帰省だよ……!!」
さすがに誰もが心の中で叫んでいた。
出迎え用のスタッフは全員、今月中に「海外王族の儀礼マナー研修」を即席で受けた面々。
グランドホステスの中には、「殿下」と呼び慣れていない新人もおり、リハーサルで小声で叫んだ。
「お、お出迎えの練習……お願いしまーす!えっと……ご、ご機嫌よう殿下ぁぁ……!!」
「練習で声裏返るのやめて!しかもご機嫌よう言わないって昨日言われたばっかでしょ!」
一方、ベテラン男性スタッフはボソッと呟いた。
「いや、俺はもう、あの目を見たくないんだよ……あのウルシュガって殿下、画面越しでも目がヤバいって有名だぞ……」
「あれ、刺さるよな……なんか心が裸にされる感じ……」
職務に就く者として、心を強く持つこと。それがこの現場の掟だった。
滑走路では、王族専用のタラップが設置され、レッドカーペットが敷かれる。
「ここ……雨で濡れてるの、絶対ダメですよね?」
「乾拭き用のチーム回して!カメラ映るかもしれん!」
関係者の指示が飛び、係員が濡れたカーペットをドライヤーで乾かすという、前代未聞の作業が行われていた。
「こんな朝からドライヤーでカーペット乾かす空港、世界でここだけだろ……」
「だまれ、アメニアの神に失礼だぞ……」
誰かが冗談交じりに言った。だが誰も笑わなかった。それほどに、緊張感が現場全体に満ちていた。
そして遂に着陸したのは、アメニアの国章を施した黒塗りの特別機。
動線には報道陣すら入れず、全てが非公開という体裁を取りながら、空港中のスタッフが一斉に息を飲む。
最初にタラップに姿を現したのは、漆黒の装束に金糸の刺繍を纏った、アメニアの王太子――ウルシュガ殿下。そのすぐ後ろに、抱っこ紐で小さな赤子を抱えた、紺色ワンピースの女性。
真珠だった。
その腕の中に、アメニア第一王子――ランレイズ。
全員の時が止まった。
「……なにあれ……映画じゃん……」
「やば、やば、なんか涙出てきた」
「待って、あの赤ちゃんの目、ウルシュガ殿下と同じ色してなかった?」
とっさに記録係がつぶやいた。
「写真、撮っちゃダメ……って、わかってるけど、俺、心に焼き付けたわ……」
本来、拍手など起こるはずのない到着セレモニー。
だが、誰ともなく小さな音が鳴り、連鎖のように、静かで熱い拍手が滑走路に広がった。歓迎でも称賛でもない。感動の爆発だった。
「やっぱり、本物だな……」
「この瞬間のために準備してよかった」
「一生の誇りですわ、ほんと」
そう言って涙ぐむ女性スタッフの肩を、ベテラン職員がそっと叩いた。
到着後、王族一家は政府要人の迎えを受けて車列に乗り、空港を後にした。
後片づけに戻ったスタッフの中には、こっそりレッドカーペットの一角をスマホで撮る者もいた。
「……ここでさ、赤ちゃんが微笑んだんだよ」
「まじで?やっぱ神の子かよ……」
疲労困憊しながらも、どこか誇らしげだった。この国の空港が、あの家族を迎えたという記録。それは歴史の中に、確かに刻まれていた。




