アメニアの王太子
宮殿の正面階段に、静かに人影が現れた。
「あ」
思わず声を漏らしたのは、有瀬だったか、あるいは真珠自身か。
純白の長衣。滑らかな黒髪に、白いターバンが美しく巻かれている。すらりと伸びた四肢。褐色の肌に映える黄金の装飾。そして――青く澄んだ、深海のような瞳。そこに立つのは、真珠が忘れようとしていたあの男だった。
ハワイの海辺で、黒衣を纏い突然現れた美貌の青年。ホテルの部屋へ勝手に押し入り、ディナーを強行し、強引で、理不尽で――けれどなぜか、目が離せなかった男。
「ウル…?」
呟いたその瞬間、男はゆっくりと階段を下りてくる。その動きはまるで、計算され尽くした王の演出のようだった。
周囲の衛兵が自然と姿勢を正す。背後に控える侍女や従者たちは、地面に視線を落とし、動こうともしない。
その中央を、たった一人、堂々と歩いてくる男――
それは、この王宮で最も高貴な存在であり、誰もが畏れる者。
「……よく来たな、真珠」
その口元が、ゆっくりと弧を描く。
日本語だった。
完璧な発音、穏やかでありながら底知れぬ圧を孕んだ声。
その声音だけで、真珠の背筋が一気に粟立った。
「どうして……あな、た……」
「ここは俺の家だ」
さらりとそう言って、彼――シン・ラーマダ・ウルシュガ・アメニア――は、静かに右手を差し出す。
「ようこそ、アメニア王宮へ」
完全に予想外だった。いや、それ以上に――脳が、認識を拒んでいた。
彼が、王子?
彼が、あのウルが……アメニアの、王位継承者?じゃあ、今までのやり取りはなんだったのか。あの無遠慮な距離の詰め方は。まさか、自分は――王子相手にあれこれ噛みついていたのか?
頭がぐるぐると回転し、真珠はその場で固まってしまった。脇でハイヴが一礼し、有瀬が驚愕に目を見開くのも見えていたが、何も反応できなかった。
「そんなに驚くとは。ふふ……」
不遜な笑みを浮かべながら、ウルは真珠の目の前まで歩み寄り、その手をそっと取った。
「君の到着を、心待ちにしていた」
そう囁く声は、まるで誘惑する王子そのものだった。
「こ…これは……おかしいでしょ。なんであなたが…!あの時、何も…」
「言わなかっただけだ。言う必要が、なかった」
ウルは自然に真珠の手を取ったまま、彼女の頬の動揺を眺めている。手は熱く、心拍は早い。だが声色は常に穏やかで、威圧もない。けれど、それが何より恐ろしかった。
「まさか、俺がこうして迎えに来るとは、夢にも思わなかっただろう?」
「……っ」
「ようやく…俺の国へ、君が来てくれた」
その言葉は、紛れもなく真珠が自ら望んでやってきたかのような響きを持っていた。
実際には、仕事の辞令。だが、今となってはそれすら――ウルの掌の上だったのではと、背筋が冷たくなる。真珠が小さく息を呑んだ瞬間、ウルは彼女の手を放し、優雅に身を翻した。
「さあ。案内しよう。君のための部屋を用意してある」
「いや、案内とか別に――」
「君をもてなすのは、俺の役目だ」
断る暇すら与えず、背を向けて歩き出すウル。その背中には、臣下たちが一斉に続く。そして、真珠の前には、再びハイヴが立った。どこか沈んだ瞳で、だが変わらぬ丁寧さで、手を差し伸べる。
「来い」
その手を取るかどうかの間にすら、真珠の思考は渦を巻く。
「…ここは、地獄の入り口……?」
真珠は小さく呟いた。だがその声は、誰にも届かないように風に紛れた。ただ、遠ざかるウルの背中だけが――まるで、女神を自らの神殿へ迎え入れるように、優雅に先を歩いていた。




