神前婚約式
その日の空は鈍い曇天だった。前夜から重苦しい風が吹き、祈りの声が途切れがちだった。不安を映すような空気。
『こんな日に儀式をするなど……』
老人たちは唸った。
『神が怒っておられるのではないか』
そして夜明け前から、白い石畳の広場は異様な熱気に包まれ始めていた。祈りの声、砂を巻く風、火の香を含む香の煙。広場を取り巻くように白いローブの神官たちが静かに立ち、周囲の民衆を睨むように見渡していた。
アメニア王国。
一神教を国教とし、王家は「神に選ばれし血統」とされてきた。后は後宮に閉じ込められ、民の前に顔を見せぬ存在。それが「神意」にかなう姿とされていた。
司祭たちが厳かに詠唱を終え、香の煙が風に靡いた。太陽がゆっくりと昇り、白い宮殿の門が開かれる。広場はざわめきを呑み込むように静まり返った。
先頭にウルが現れた。
長身の黒い王族衣装。金の装飾が鈍く反射した。周囲の護衛すら近寄れない威圧感。その姿に、民衆は息を飲む。
圧倒的なオーラを放つ人物が、固く手を繋いでいる相手。
王太子の隣には、異国の血を引く女。濃く深い、海の底のような青いドレスを纏い、白いヴェールが風に翻った。
真珠だった。
顔は覆われていなかった。後宮の女ならありえない。澄んだ目で前を見据えていた。その一歩はたしかで、決して怯えていなかった。その瞬間、ざわめきが広がった。
『顔を隠してない……!』
『后なのに……!』
『なんて強い目だ……』
しかし次第に、その声は賞賛に変わった。
『綺麗だ……』
『すごい……』
『これが王太子の后……』
民衆の間にざわめきが広がった。子供を抱えた母親が呆然と目を見張り、年老いた祈祷師は眉をひそめた。若者たちは目を輝かせ、スマートフォンを握りしめた。多くの報道陣が一斉にカメラを向ける。
かつてこの広場で、王太子が后をお披露目したことはなかった。后は後宮に隠すもの。王家の女は「家庭を守る聖域」だった。
だが今日は違う。
王国のSNSは前日からこの噂で持ち切りだった。
「王太子が后を連れて出るらしい」「異国の女だって」「でも学んだらしい。アメニア語も話すって」「女が公の場に出るなんて――夢みたいだ」
大神殿の階段を上がり、香の煙を抜けて進む二人。ウルは真珠の手を強く握り直す。その顔は彫像のように無表情だったが、瞳は野獣のように鋭かった。真珠は唇を噛み、でも視線を逸らさなかった。
最上段。
神官長が杖を突き、香の煙の中に立っていた。彼は民衆に向かって声を上げる。白髪と長い白いローブ。額に聖句を記した銀の冠を載せた威厳。アメニアの民衆にとって「神の声」を伝える存在。彼の承認なくして王室の権威は成り立たない。
空気が張り詰めた。神官長はゆっくりと二人を見渡した。
『アメニアの民よ!王太子殿下とその后が、神の御前に立つ!后は民を愛し、神を畏れるか、今ここで誓う!』
空気が張り詰めた。慣例なら、ここで王太子が后を代理して誓う。「私のものだ」と証明する儀式。だが今回は違った。神官長が杖を振り、真珠に向けた。
『言うのです。真珠殿の口で、民と神に誓うのです』
民衆が息を呑んだ。
『女に……誓わせるのか……』
『前代未聞だ……』
真珠は胸が張り裂けそうだった。足元の床の感触すらわからない。でも――ウルの手があった。冷たく、強く、離さない手。一つ息を吐く。そして言った。
『私は、王太子シン・ラーマダ・ウルシュガ・アメニアの妻になる者です』
声は震えたが、アメニア語だった。
『神を畏れ、この国を愛します。民を抱きしめこの国を支えます。どうか、私を后としてお認めください』
神官長は目を閉じた。香の煙が風に巻かれる。そして長い沈黙。民衆は固まったままだった。スマホを構えた若者も、老婆も、子供も、全員が真珠を見ていた。
静寂が落ちる。風が止んだようだった。香の煙が真珠の周りで渦を巻いている。民衆は息を呑み、子供の泣き声すら消えた。
その瞬間だった。
空を覆っていた雲が裂ける。眩い光が射し込んだ。黄金色の陽光が、神殿の白い階段を照らし出す。香の煙が金色に染まり、真珠の青いドレスがきらめいた。
『……!』
民衆がざわめいた。
『光だ……』
『神の光だ……!』
真珠は目を見開いた。暖かい光が頬を撫でる。ウルの手が強く握り返した。神官長の唇が震えた声になっていた。
『……神が』
かすれた声が、しかしはっきりと響いた。
『神が、この女を赦されたのか……』
杖が石を叩いた。
『聞け、アメニアの民よ!神は愛を尊ぶ!真に国を愛する者を后とすることを赦す!この女を后と認める!』
民衆が一斉に声を上げた。
『后様だ!』
『神が認めた!」
『妃殿下!妃殿下!』
泣き崩れる女たち。若者たちがスマホを構えて泣きながら叫んだ。
『見た!?光が降りたんだ!』
『神が后様を選んだんだ!』
SNSには「#后様認証」「#神の光」「#青いドレス革命」という言葉が一斉に発信され、その拡散力は爆発的だった。
ウルは真珠を抱き寄せる。紺碧の瞳に映るのはただ真珠のみ。
「見たか」
声はかすれていた。
「神にも、民にも、認めさせた。お前は俺の后だ」
真珠は涙をこぼしながら笑った。
「ええ。私が……あなたの后よ」
空は晴れ渡った。黄金の光が、大神殿の屋根を、階段を、広場を埋めた民衆を包んだ。その中央に、ウルと真珠が立っていた。王太子と后として。神に認められた存在として。
それは宗教儀式の枠を超えていた。神殿を包む香の煙。金色の光。民衆の祈りと歓声。それら全てが「この国の未来」を祝福していた。
ウルは真珠を離さなかった。真珠もまた、ウルを離さなかった。二人は民衆を見下ろす。その目にあるのは恐れではなく、覚悟だった。
白い大理石の神殿に、熱い空気が満ちていた。焚かれた香の煙がゆらゆらと漂い、石段の隙間から差し込む陽光を曇らせる。神殿の中央、別の神官が立つ前にウルと真珠が並ぶ。
周囲に並ぶ参列者たちは皆、目を伏せている。だが、カメラは二人を捉えていた。そして、世界中の無数の瞳がその画面を凝視していた。
『手を』
神官の低い声が響く。真珠が一瞬、呼吸を詰めた。
それを待たずに、ウルの大きな手が真珠の手を包む。手の甲を掴むだけではなかった。指を絡める。しっかり、決して離れぬように。
真珠の睫毛が揺れる。
『……っ』
わずかに力を込めて引こうとするが、ウルはびくともせず、視線を真珠に落とす。
その目は冷たい。だが、その奥にあるのは――誰にも渡さない、という圧倒的な意思。真珠が顔を背けかけたとき、ウルは無言のまま親指で彼女の指を撫でた。慰めるでもなく、確かめるように。
神官が咳払いをした。
『殿下』
進行を促す声。だがウルはすぐに応じない。目を細め、わずかに神官を見やる。途端に空気が張り詰めた。神官は視線を逸らし、再び促す。
『……お言葉を』
ウルはやっと神官を無視するのをやめ、真珠を見下ろした。声を低く落とす。だがマイクは全て拾った。
『この女を、俺のものとする』
世界中に響くその言葉。誓いの言葉とは思えぬ、所有の宣言だった。
『誰にも奪わせない。神よ、見届けろ』
真珠は顔を上げられなかった。なんて事を公然と言うのか、もう恥ずかしいやら嬉しいやら。ウルの手の中で細い指が震える。それでも彼女は唇を噛み、吐息を落とした。
カメラが寄る。震え、潤む瞳、絡んだ指。そして離さない手。
神官が視線で真珠に促した。
『お言葉を』
真珠の唇がわずかに動く。声は消え入りそうだった。だがマイクは拾った。
『……はい。私は、この方の伴侶となります』
泣き声だった。だが確かに、誓いの言葉だった。
ウルはその瞬間、目を細めた。笑ったわけではない。だが、その目の奥が満たされた色を帯びた。真珠の手を更に強く握る。真珠はわずかに呻いた。それでも手を離さない。
神官が進行を再開する。だが二人の世界は既に閉じていた。周囲は飾りだ。神も、臣下も、カメラも、ただの傍観者。
儀式を終え、階段を下りるとき、真珠が足をもつれさせかけた。ウルは即座に腰を抱いた。指が食い込むほどに強く。真珠の肩が震える。目を伏せる彼女の耳元に、ウルは低く囁いた。
音声は拾えなかった。
だがマイクが小さな吐息を拾った。真珠の。そしてウルの押し殺した笑い声を。
世界中の画面に映ったのは――離さない手。涙を受け止める掌。腰を拘束する腕。囁かれ、屈服する女の瞳。そして「俺のもの」と神に誓った男の眼差し。
それは愛と呼ぶにはあまりに剥き出しで。所有と呼ぶにはあまりに執着で。神前という最も神聖な場所で行われた、監禁の契約だった。




