三
◇
小学生の時、遠足があった。勿論、彼とも一緒。
近くの山に登って、お弁当タイム。私のお弁当箱と彼のお弁当箱はデザインは同じの色違いで、とても嬉しくなった。友達とはしゃいだときよりも、はしゃぎたくなった。
一緒にご飯を食べられたらもっと嬉しいのだけど、私は声をかけられなかった。だって、恥ずかしいから。
私はその頃から胸の痛みを覚え始めていた。
◆
「ふぁぁ……」
朝。小鳥が囀り、朝の到来を知らせてくれた。
七時。廃人寸前の生活を一週間営んでいた和也が、こんなにも早く起きるのは久々なことであった。それも、心地よい匂いが鼻孔を刺激したためである。
「……おはようございます、和也さん」
いまだ完全に開き切らなかった眼も、その声で一気に開いた。目も冴える。振り向くと、ため息が出た。
「え、なんですか? ……その、迷惑だったでしょうか?」
オロオロする幽霊。名前もわからないといって、一々幽霊と呼称するのもめんどくさいから、昨日のうちにあだ名をつけておいた。
「別にいいんだけどな、ユウ。なんでそんなに張り切った?」
「え……?」
ユウは相変わらず希薄な存在感を伴ってそこにいた。消えることを半ば願っていたのだが、結果は見ての通りである。まさかの朝飯までつくってしまう始末。
湯気が立つ白米、味噌汁、焼き魚。インスタントを愛する和也が、買った覚えのない食材も含まれていて、首を捻る。
もしかしたらユウは自分の背後や付近以外にも行動範囲があるのではないか、と疑って尋ねると、彼女は部屋の隅の段ボールを指差した。
「……あの、あそこにお魚やお味噌があったので……。いけなかったでしょうか?」
「いや、問題は腐ってたりしないかどうかなんだが」
「あ、それなら大丈夫だと思いますよ。きちんと確認したんで」
一度は青くなった顔も、その台詞で元の血色を取り戻した。
その段ボールに入れられた食材の数々は、先日実家に帰った際に渡されたものである。帰って来てからこの状態になったため、ほとんど手をつけてはいなかった。ユウがいなかったら多分、手をつけられることなく焼却炉へ直行していただろう。そう考えると、彼女はいい仕事をした。
「というか……ものとか触れるんだな」
「あ、はい。そうですよね。何か不思議な感じです。それでもはっきりとは感じられなくて……。厚い手袋をつけながら生活してるみたい」
「ふーん」
死後の世界には興味はないが、彼女みたいに生前と変わらないことができるなら、ちょっとは興味が持てる。
とりあえずわざわざ作ってくれた料理を無下にすることもないので、和也は手を合わせて挨拶、そして手をつけた。ユウが真剣な様子で見守るなか、和也は頷いた。
「……うまいな」
「そ、そうですか」
安堵のため息がユウの口から漏れた。まずかったらどうしよう、なんて心配をしてたみたいだ。
箸が進む。何しろ最近の食卓をインスタント食品に依存していたため、本格的な料理は久々なのだ。ものの数分で食べ終わる。
食べ終え……何故か懐かしい気持ちになった。遥か昔に味わったことがあるような、そんな味。冷たくなっていた心を、優しく温めてくれる。
「……?」
知らず、涙が落ちそうになっていた。慌てて拭い、箸を置く。
「ごちそうさま」
「お粗末さまです」
◆
食後、和也は逡巡していた。台所(とはいってもガスコンロと流しが設置されただけの粗末なものだが)で洗いものをしているユウが奏でる水の音を耳にしながら。
(学校……か)
いつからか学校へ行く、という行為は義務から権利へと移行していた。そして自分はその権利を獲得した者。今までが真面目だった分、まだまだ単位は間に合う。それに、サークルやバイトもある。
(迷惑……か)
ユウがしきりに気にしていたことだ。洗いものも和也は別にいいと断ったのだが、「迷惑をかけているのだから、これくらいはさせてください」と押し切られてしまった。すると、自分は色んな人に迷惑をかけている。
一週間の間はそんなこと考えたこともなかった。けど、朝飯を口にした途端に我に返った。あれは自分に昔の鼓動を蘇らせてくれたようだ。良い意味でも悪い意味でも。
「終わりましたよ」
ユウが台所から帰ってきて、定位置のテーブルの傍に座る。しばらくもじもじとしたあと、小さな声で、
「だ、大学とか……行かないんですか?」
「ん?」
鋭い。今まさに考えていたことだ。それも悩み所だがそれよりも、
「なんで俺が大学生だって知ってるんだ?」
「……え?」
口にした覚えもないし、今までの行動からわかるとも思えない。普通、ニートかフリーターあたりだと見当をつけると思うのだが。
お得意の沈黙タイム。それから、
「多分……あなたのことは覚えてるんだと思います。……大切な思い出ですから」
「……」
まあ、確かに取り付くくらいである。生半可な思いではありえない。となると、こいつは知り合いの線が高くなる。強い思いとなると、恋慕、憎悪、友情……。わからない。そんな感情を持って死んでしまった人は知らない。
「そうです。きっと、大切な思い出だったんです」
自分に言い聞かせるように、再度つぶやく。
ふと、自分が何者かわからないのはとても不安なことなのではないか、と思い当たった。何しろ全てが霧に覆われた状態を進むようなものである。だけど、ユウにそんな恐怖のような負の感情は見受けられない。強い人間なのか、この女は。
「ま、まぁ。それは置いておきましょうよ」
ユウは自分の身の上話を流すと、再び俺に向き合った。
「学校、行きましょう」
疑問から今度は推奨になっている。
「……」
「皆、心配してますよ? それにここでこうやってても不毛でしょう? 外へ行きましょうよ」
希望に満ちた感じで訴えかけてから、出過ぎた真似だとでも思ったのか、
「す、すみません。でしゃばっちゃって」
と謝る。
和也はベットのうえに仰向けになり、天井を眺めた。
「あの、……和也、さん?」
「わかってる」
立ち上がらなくては。いつまでも地に倒れていてはいられない。いつまでも引きずっていてはならない。
「行くよ」
立ち上がり、用意を始める。ユウの顔が笑顔で輝いた……気がした。
「その前に、身なりをきちんとしてくださいね」
「わかってる」
流石に一週間風呂に入っていないのはきつい。和也は緩慢な動作で風呂場に向かっていった。




