アイスダンス
「では、お次はお待ちかね! 今や人気絶好調のこのひと! 沢口健人選手っ! いやー、かっこいいねぇ!」
お笑い出身の司会者が、アイドルかと見間違うほどに整った彼を紹介したとたん、きゃぁぁ! と観覧席から黄色い声があがった。
「これで! アスリートなんでしょっ? あり得ないねぇ。ほんと、キレイな顔してるよ、俺がスカウトしたいくらい」
「ちょっと、何気に自分等のことディスってません?! 扱いの差ー!! 」
「なぁんでだよ、俺はみぃんなに平等ですよ、武内選手! あんたのスピードスケートには俺、惚れてるってさっき言ったばっかじゃんっ」
「え、や、ありがとうございます」
「そこで照れんのかよっ。んでも、あなたのターンは終わったからね、大人しくしててくださーい」
あははは、とスタジオが笑いに包まれる。
四年に一度の冬の世界大会が終わり、そのメダリストたちを集めたバラエティー番組が画面に映し出されている。
司会者の橫に列なるタレントたちと違い、メダリストたちは芸能人ではないので、若干一名を除いて、みんな借りてきた猫のように緊張を滲ませて雛壇に座っている。
そのなかでも中央最前列に座るすらりとした彼の姿には自然に視線が行ってしまう。
全く自己主張などしていないのに、ただそこにあるだけで、まるで王者のような風格を漂わせる彼。白地に赤のジャージだというのに、とてつもなく格好いい。
彼が画面に写るだけで視聴率が上がりそうだ。
それがわかっているのか、カメラに抜かれる回数も断トツで多い気がする。
「沢口選手は皆さんご存じの通り、アイスダンスの選手であります。史上初のメダル獲得! おめでとうございます! 」
「ありがとうございます」
司会者の脇に控える若手アナウンサーが真面目ながらも滑らかな語り口で賛辞を述べると、彼も微笑みながら礼を返した。
向かい合う形で座っている若い女性タレントがポーッと彼に見惚れている。
画面越しでもポーッとしてしまうくらいだから、その気持ちはわかる。
「アイスダンスは二人で滑るものですから、本来ならパートナーの方がお隣にいらっしゃるはずなんですが、今回はご都合が合わなかったとのことで、非常に残念です」
「本当ですよっ。噂の『ネェさん』に会いたかったー! 次回はぜひぜひ! 」
「次回あるんですか! それはっ、ぜひ! 」
「いや、武内選手に言ってないけどね。呼ばれるとは思うけど! 」
あははは! とまた明るい笑い声があがる。
「パートナーの杉原彩加選手は、注目度があがるにつれ、SNS上で『ネェさん』と呼ばれることになったんですよね」
「ええ。そうみたいですね」
「杉原選手は、沢口選手より五歳年上ですね。やはり普段からお姉さん的存在なんでしょうか?」
「さあ? どうでしょう?」
「『ネェさん』こと、杉原選手との初対面で、なかなか面白いことがあったんだって? 」
役割分担を卒なくこなしながら、入れ違いに質問してくるアナウンサーと司会者に、彼ははにかむような苦笑を浮かべた。
「怒られました。正確には初対面を終えて、さぁ、初練習を始めようって時に」
「初練習? なに、なにかやらかしたの? 沢口選手っ」
知ってるくせに白々しく聞いてくる司会者。
「アイスダンスは二人で手を取り合って滑るんです。だから手を差し出したんです。こう」
彼の長身に似合う大きな掌に長い指が虚空に差し出される。
それは、女性だったら思わずそこに自分の手を合わせたくなるくらい、さりげないけれど力強く、寄りかかりたくなるくらい頼もしい仕草に見えた。
違うじゃん。
あのときはもっと、ぞんざいだった。
お手をどうぞ、って意志も何もなく、ただ手を前に突き出しただけだったくせに──
画面に食い入るような視線を向けながら、笑いそうになる。
そう、あれは彼が十五歳の時だった。
幼いときから所属していたそんなに大きくはないクラブチームに、いきなりやってきた、有名人な彼。
いや、正確にはこれから有名人になるだろう、新星フィギュアスケーターだった。
まだ体は出来ていなかった。ようやっと義務教育を終えたばっかりなんだから当たり前だ。
背ばっかり高い、ヒョロリとして綺麗な顔をした、男の子だった。
「よろしくお願いします」
練習中に膝の靭帯を断裂してしまったとかで、シングルを断念。彼の才能(と、容姿に財力)を惜しんだ協会が、彼をアイスダンスに転向させたのだ。
緊張してか、アイスダンスへの転向は彼の意志じゃなかったのか、初対面の挨拶はぎこちなかった。
けれど、スポーツマンらしくしっかりと礼儀作法を叩き込まれているのだろう、不満や傲慢さなど一ミリも見せなかったところには好感が持てた。
とりあえず、試しに滑ってみよう。というコーチの言葉で二人して氷上に上がり、戸惑いつつも彼がこちらに向かって手を差し出したところで、テレビの中で取り上げられているエピソードになるわけだ。
「君、沢口くん? エスコートの意味、わかる? 」
「え? 」
切れ長の瞳をぱちくりさせる彼はあどけなくて可愛かった。
「ここ、まだリングの端っこだよね。そこで正面から手を出してどうすんの? いきなりここから始めんの? ぶつかるよ、壁に」
「え、……あ」
「まずは連れてかなきゃ駄目でしょうが。真ん中のほうに。ねえ、君さ、本当にアイスダンスやる気あんの? つまんないよ、アイスダンスなんて。男側はエスコートして、サポートしてなんぼだし。軽くないものリフトして振り回さなきゃなんないし。辞めとけば? 」
今思えば随分な言い草だ。五つも年下の、エスコートのエの字も知らない子にぶつける言葉じゃない。
「っ! ……いや、やりますっ。お願いしますっ」
だけど流石はアスリート。彼は怯むどころか食らいついてきた。
根性あるじゃん。そういうの、嫌いじゃない。
「そっか。なら、教えてあげる。音を上げるなよ? 」
「はいっ!」
「オッケー。なら進行方向向いて。こっちに手を差し出して。はあ? どこに出した? こっちの立ち位置見た? そこに手をのばさせんの? 意味分かんない。高すぎ! 身長差見なさいよ! 」
そこから、私達の戦いが始まったんだ。
健人にとっては試練の日々が。
「え、なに? それ、なにが悪いの? 」
本当に訳がわからなそうな司会者に、彼が苦笑を深めて言う。
「あや……杉原選手は言いました。アイスダンスは男性次第だって。女性を生かすも殺すも、男性のひとつの仕草で決まるんだから、その手の出し方はない、って」
「へえ? 」
「つまり、アイスダンスというものは、他のフィギアシングルやペアと違い、ジャンプや大技で得点を競わないんですよ。競うのはステップと表現力、その二点だけです」
横から口を挟んだのは、ゲストとして呼ばれた解説者だ。
「なるほど? 」
「ステップというのはですね、これは社交性ダンスから来ていますから、男性が女性をいかにうまくエスコート出来るかが要になってきます。ですよね? 」
「そうです。一からすべて、あや……杉原選手に教えてもらいました」
い、一からすべてって…。語弊があるよね、と思うのは、若干の後ろめたさがあるからか。
「彼女のお陰で、僕はここにいることが出来ています」
聞き心地の良いテノールに、全女性がトロンと溶けていくのがわかる。
私が全部教えたわけじゃない。
二人で学んだんだ。
社交ダンスはプロに習ったし、フラメンコを習いに本場にまで行ったし、カナダやアメリカの大手クラブチームに短期所属させてもらって技も盗んだ。
やれることはなんでもやった。
健人はもともとシングルで頭角を現していただけあって、エッジ捌きは抜群だった。
若いからか器用な質なのか、氷上で私をエスコートして、学んだことをすべて吸収して完璧に滑れるようになるのに時間はかからなかった。
彼の深いエッジ捌きに必死に着いていく私をいつの間にかフォローまでしてしまうようになるのも、直ぐだった。
「技術は完璧に近いと思う。あとは芸術点の加点だろうな」
国内の大会から世界大会へ、順当に駒を進め、ついに冬の大会出場を勝ち取ったとき、コーチが言った。
パートナーを組んでから、四年が経っていた。
健人は十九歳になり、体も出来上がってもうヒョロい面影はない。国内のみならず海外にも熱狂的なファンが少なくない数いるくらい、見目麗しい青年に成長していた。
コーチが言う通り、このままでも入賞は視野に入ってくるくらい、健人と私は仕上がっていた。
ただ、あと一歩、及ばない。
メダルを手にするまでには足らないものが、私達の前には確かにあったのだった。
「あのー、質問いいですか? 」
画面の中で、女性タレントが手をあげる。
「はい、ミナポン、どうぞ」
「私、お二人のアイスダンスの大ファンでして! 何なら、演技だけじゃなくて、練習中の様子とかっ、リングに入って位置に着くまでのお二人の様子とかっ、もう、すごく見てましてね? 」
「あー、何かそういう視聴者の方、すごく多いんだって? 何ならそこばっか見てるファンもいるそうじゃん」
大ファンだと公言した女性タレントが口を尖らせる。
「もちろんっ、みんな演技を一番に見てますよっ。でもね、その前後が気になって仕方なくなっちゃうくらい、沢口、杉原組に惚れ込んでるわけですよっ」
どうやらファン代表のつもりでもあるらしい彼女に司会者は朗らかな笑みを浮かべた。
「わかりました、よぅく、わかりましたよ。で、そこから何を聞きたいの? 」
「はいっ。あの、今大会のリズムダンスのフラメンコのとき、直前練習のときもリングに登場したときも、お二人は視線を交わさなかったですよね? 喧嘩でもしちゃったかと、ヒヤヒヤしたんですが。何があったんですか? 」
「それはこちらの時ですね? VTR、どうぞ! 」
間髪入れずに、アナウンサーがVTRを差し込んでくる。予め予定された流れなんだろう。
画面に大会色に飾られたリングの模様が映し出される。
懐かしい。ついほんの、二週間くらい前のことなのに。
滑走順は真ん中あたり。上位二十チームに入らないとフリーには進出出来ないから、緊張はしていた。
他のカップルは手を繋いだり肩を組んだりしながら最終チェックをする中、健人と私は別々に氷上にいた。
と、言ってもみんながみんなくっついているわけじゃない。ちらほらと、バラバラに氷上の感触を確かめている選手だっている。
『沢口選手の姿が見えますね』
『彼はもともとシングルの選手だったんですが、怪我をして、アイスダンスに転向しています。……集中してますね』
集中しているというよりは、怒って苛ついてる健人をそう評したのは、スタジオにもいる小野寺解説員だ。
『ああ、いましたね。沢口選手のパートナーである杉原彩加選手です。黒と赤の衣装が素敵ですね。彼女も、集中しているようです』
『そうですね』
あれは、私とコーチの作戦だった。
「健人を挑発しよう」
健人はああ見えて、結構繊細で、本番前はナイーブになることが多かった。だからそれまではコーチか私がピッタリと横に張り付いて、彼の緊張をこちらに移して緩和させたりしていたのだけど。
「挑発? 大丈夫かな? 」
「あいつも男だし。ちょっと、ケンカ売るカンジでやってみない? 」
健人とパートナーになって、気付いたら専属コーチ(というか、トレーナー? )になっていた谷口コーチが調子のいい笑顔で言った。
確かに。
ちらりと健人を見れば見惚れるほど格好いい闘牛士の衣装に身を包んだ彼が見えた。
黒髪をオールバックにして、真っ白なシャツに黒地に金銀の飾りがついた丈の短いボレロを羽織った姿は彼を充分に引き立てている。
でも、何か、足りなかった。
野性味というか、男臭さというか。ギラギラしたものが。
「ケンカね……。やってみる」
『さあ、いよいよです』
画面が切り替わり、私と健人だけが氷上に出てくる。手を繋いではいるけれど、二人の表情は硬い。
それは、緊張して顔が強張っているようにも見える。
そういえば、大会のあとこうして自分たちの演技を見返すのは初めてだった。
足並みを揃えてリングをぐるっと半周して、中央に誘導した健人が繋いだ手を頭上に上げた。押し出されるように私が前に出る刹那、視線が交わる。
まるで睨み合ってるみたいな、鋭い視線。
ピリッとした見えない緊張の糸が私たちの間に走る。
健人の視線は特に鋭い。獰猛な、と表現してもいいくらい。
「ああっ、これですっ。ここっ! 」
「ガチじゃんっ。これから殴り合うのかって! 」
画面隅にサブ画面が出て、健人が写し出された。彼は真剣な目でモニターを見つめてた。
「……煽られました」
「ははは、『ネェさん』強いっ」
「………………」
健人が口の中で何か呟いた。
けど、スタジオ中の視線はモニターに釘付けで、何を呟いたのかはわからない。
私もメイン画面に吸い寄せらてしまい、その事をすぐに忘れた。
氷上の中心で、健人と私は睨み合ったまま、ポーズをとる。
一拍おいて、クラシックギターの激しい旋律が会場に鳴り響いた。
健人は最初から全開だった。荒々しく私の腕を引き寄せ、腰に手を回しグンッと加速を付けて滑り出す。
『んっ! スピード出てますねっ、早いっ』
『素晴らしいですね、トップクラスレベルのスピードですっ。これくらいのスピードだとね、ステップがわずかにズレるだけでクラッシュしてしまうんですよっ』
『つまり、衝突してしまうんですねっ、しかしこの早さのなか、ぶつかり合うことはありませんっ、迫力がありますっ』
アナウンサーと解説者の興奮した声を、こんなこと言われてたんだって心の片隅で聞きながら、私は画面をじっと見つめた。
あの時はただ、夢中だった。
──もっと! もっとだ! 付いてこいよ!
健人が私を挑発する。
──はあ? 付いてくんのはあんたのほうよっ。
って、私は健人をさらに煽って。
飛び付いて振り回されているようなリフトに、会場からうわぁ!と歓声が沸く。
それに健人も私もさらに熱くなって、いつもは氷のしぶきなんかあげない健人のエッジからはジャッジャッと白いしぶきがあがってた。
チリ、チリと健人の視線が私の肌を焦がした。
今までの、まるで姉と弟のような緩い感情じゃない。
食われる。
ゾクゾクと怖じ気に似たものが這い上がってくる。でも、それすらも、私には刺激的だった。
もう、弟と姉じゃなかった。
そこにいたのは、ただの男と女だった。
『ああ! すごい、完璧なユニゾンですっ』
『寸分の狂いもないっ、鏡みたいだ』
三分に満たない演技はあっと言う間だった。
だけど、三分ちかく全力疾走したようなものだから呼吸は荒い。
はぁっ、はぁっ、はぁっ……
割れるような歓声の中、健人と見詰め合う。
「あぁ、サイコー……ッ」
健人が呟いたのを皮切りに、私たちはガシッと抱き締め合った。
演技直後だから当たり前なのだけど、バッチリしっかり、その模様は映し出されている。
「…………」
私の首筋に顔を埋めて、健人が何かを囁いた。
私ははっと健人の胸板に手を付いて、少し距離をとる。
そのまま、にやって笑って、健人のお腹に拳をぶつける仕草をした。
なに、あの悪人顔は。
観客のうねるような声援に後押しされたかのように、私たちは最高スコアを叩き出した。
『すごいっ! 小野寺さんっ、きゅ、九十点越えですよっ! 一位、暫定一位ですっ』
もちろん、自己ベストを大きく越えた。
『いや、素晴らしいですね……、いくかなとは思ったけど、ここまでとは……』
『客席のボルテージが最高潮に達しています! 歓声が収まりませんっ』
私はこのときのことをあんまり覚えていない。
止まない豪雨のような歓声のなか、ただ、何度も健人と抱き締め合ったことしか覚えてない。
リング裏に引っ込んで、着替えを終えて、宿泊先に戻るときも、バシャバシャと凄まじい数のシャッター音に晒されながら、私の肩を抱いた健人に促されるまま、ただ歩いていた。
「自国のインタビューひとつだけ答えて! よけいなこと言うなよっ、健人くんっ」
「わかってるって。彩加は横にいるだけでいいからね、笑ってて? 」
専属コーチ兼、トレーナーの谷口コーチがマネージャーも兼業し始めた?……ってちょっと思っただけだった。
わぁぁぁ!という歓声がフェードアウトしていき、画面がスタジオに戻ってきた。
「ほんとに……、何回見ても、すごいですね」
「ライブ放送で見たかった! なんでアイスダンスはライブ放送しないんだっ」
「フリーの時はライブ放送でしたよね」
「メダル争いなんだから、当然でしょう。海外でもダークホース出現とかなり騒がれましたね」
「あ、ところで。表題に戻りますけど、喧嘩してたんですか? 」
「いえ……してません。こう、気分を高めていたんです。お互いに」
「最後、ネェさんに腹パンチされてたよねっ。すげー、気になったんだけど」
「……やれば出来るじゃんって、言われてたんです」
「あはははっ、ネェさん、男前だなぁ」
うそ。
あの時、健人はこう言ったのよ。
私の耳元に熱い息を吹き掛けながら、囁いたんだ。
──今夜、部屋に行くから。
夜、部屋に来るっていう意味が分からないほど初じゃなかったけど、あの時の私は演技直後で興奮してた。なんなら、喧嘩の続きでもするのかな、と明後日なことを考えてもいたから、その言葉の意味をちゃんと理解してたかは、自信がない。
だから言ってしまったんだ。しかも腹にパンチしながら。
──かかって来なさいよっ!
……まさか、あんな悪人面して言ってるとは思わなかったけど。
はっと我に帰ったのは、部屋に戻ってシャワーを浴びた後だった。夕食を食べていなかったけど、胸が一杯で食欲が湧かなかったし、何よりそれどこじゃなかった。
フリー出られるんだよね、あ、ミーティング……は、中日の明日にしようって谷口コーチが言ってたっけ。
どうしよう。
明後日のフリーはもちろん最重要だけど、その前に立ちはだかる壁の高いことよ。
え、本当に来るのかな? 健人が? この部屋に?
何しに?
喧嘩しに?
ナニしに?
いやいや、落ち着いて私。一旦、落ち着こう?
わたわたしてるうちに、本当に健人が部屋を訪れたんだった。
「やっぱり。食べてない」
部屋に入るなり、健人はそう言って備え付けのテーブルに食堂で貰えるサンドウィッチと、ミネラルウォーターのペットボトルを二つ置いた。
顔を上げた健人は私を真っ直ぐに見つめながら、こっちに向かってくる。
あれ? 怒ってるの? 怒ってないの?
わからない。
喧嘩の続き? する? しない?
私の脳内パニックは、まだ続いていた。
「あ、の。健人。怒ってる? ごめんね、喧嘩売るみたいな真似し──」
触れるほど近くに健人が来たとき、私は我慢できずに口を開いたんだけど。
「彩加」
健人が短く私を呼んで、キスしてきたから、私はそれ以上何も言えなくなった。
「んっ……あ、……まっ……ん、ゥッ」
「待たない」
「けっ……ん、とっ」
「待てないよ、もう無理」
「あぁっ、だ、めっ」
「ダメじゃない。俺の方がダメだから。もう我慢できない。彩加っ」
健人の長い腕がお尻の下に回ってきて、ぐっと上に持ち上げられた。
「ひゃっ……」
リフトで抱き上げられることなんて日常茶飯事だけど、こんな、こんな風に美しくなく、力任せに持ち上げられたことなんてなかった。
健人の逞しい腕が私の上半身を押すから、私の胸が健人の胸板にむにっと押し付けられる。
「彩加っ」
健人の足が床を蹴って私を抱えたままダイブした。ベッドの上に二人で雪崩れ込むみたいにして寝そべった。
「彩加っ、はっ……、あやかっ!」
健人は性急だった。
でも、私も同じくらい何かに急かされてた。
「あぁっ、んっ、はぁ……」
「彩加、可愛い。彩加、彩加っ」
「健人……、けんとっ」
「はっぁ、濡れてる……彩加、気持ちいいの? あー可愛い。くそ、俺マジ余裕ない」
「はぁっあっ……ふぅ……んぅっ」
いいよ、大丈夫。
来て、来て。健人。
「彩加……」
健人の長い指が私の指の間にそれぞれ入って来て、ぎゅっと合わさった。
同時に、熱くて、愛しい熱の塊が私の中にずっずっと入ってきた。
「ンンンーッ!!」
もともと可動域の広い股関節はなんなく開いて健人の腰を迎え入れたけど、私の未貫通のソコは襞がギリギリと限界まで拡がって、痛くて苦しかった。
でも、嬉しかった。
私の中で、私に包まれて、健人が眉間に皺を寄せながらも快感に喘いでいたから。
手を取り合って、呼吸を合わせてダンスするよりも、もっとずっと深いところで繋がることが出来たから。
「あ……あぁ……あ」
「彩加、あや、か」
気持ちよくて蕩けちゃう……なんてことにはもちろんならなかった。
健人のだんだん激しくなる律動に、なんとかかじりついてるのがやっとだった。
「あやかっ、あっ……うっくっ!」
最後、ガンガンガンって奥の方を突かれて、バッと健人が抜けて、ビュッビュッて私のお腹に健人の熱い液が掛かった。目繰り上げられて露になった私の乳房にも、顎の下でくしゃくしゃになっていた部屋着のTシャツにもそれは掛かった。
「ふ……ふ……ぅ」
涙が出たのは幸せを感じたからだ。
健人の独特な匂いのするソレにも嫌悪感なんか微塵も感じなくて、そう感じられることが嬉しかった。
「彩、加……痛かった? ごめん、俺……」
「うぅん……、へいき……健人? 」
拭わないままの濡れた私の体に、健人が覆い被さってきて、ギュウッと抱き締められた。
「も、無理だよ? 」
思わず本音が漏れたのは、太ももに達したはずの健人の硬いのが当たってたから。
「ん。……わかってる。ね、彩加。大会終わったら、いっばいしような? 今度はちゃんと、裸で……、愛し合おう」
好きも愛してるも、健人は言わなかったし、私も言わなかった。
でも、彼が『愛し合おう』って言ったから、そう言ってくれたから、私たちは愛し合ったんだなって、これからも愛し合うんだなって、思うことが出来て、だから、私は幸せだった。
多幸感は、中日を越えて、フリー当日になっても続いていた。
リズムダンスは最後の最後で世界ランク一位のカップルに抜かされて第二位でのフリースタートとなった。それだって物凄いことなんだけど、ここまで来たら頂点を期待してしまうのが人の気持ちというもので、最後まで食らい付くのがアスリートというものだ。
でも、私には無理だった。
滑り始めたとたんに、無理だって悟った。
いろいろ回想しているうちに、画面の中にはフリーの衣装を着けた私と健人が写っていた。
テーマをロミオとジュリエットにしたのが、良かったのか悪かったのか。
切なく溢れる想いを伝えるのは、高い旋律が物悲しいバレエ音楽で。愛に溺れていく二人を表現するのは濃厚に絡み合う振り付けで。
健人と手を取り合い、見つめ合い、手足を絡ませながら氷上で舞う私は、頬を喜びに染め彼への想いに瞳を潤ませていて、ジュリエットという役を演じるには合格だったけど、競技者としては失格だった。甘いスピンに深みのないエッジ。雰囲気に誤魔化されない玄人が見れば即見破られる健人との技術の差。
本当はもっと貪欲に、金色のメダルを追い求めるべきだって頭の片隅ではわかっていたけれど。
無理だった。
戦おうという気持ちが沸いてこない。
私は満足してしまったのだ。
その時の私には、健人しかいなかった。
だって。
繋ぐ手の意味が違った。
抱き締め合う胸の鼓動が違った。
前に滑った時と、何もかも違う。
エスコートするために差し出された健人の指先から、愛しいって感情だけが流れてくるような気がするの。
目を向ければすぐにこちらを向いて、細められる綺麗な瞳が好きだよって言っているような気がするの。
周りの景色が流れて流れて、やがて色とりどりの何層ものただの線になって、私と健人を閉じ込めて、まるで世界に二人だけしかいないんじゃないかって、錯覚してしまうの。
国の代表で来ているのに。
私は戦わなきゃならないのに。
だけど、愛しい。
私を連れて遥かな高みに連れていってくれて、私の手を握り、私の腰を抱く、可愛くて格好いい、この素敵な男が。
ただただ愛しいの。
リズムダンスの倍はあるといっても、たかが四分と少し。終盤はすぐに見えた。
ああ、終わってしまう。
終わってしまう。私の選手生命も、もう終わってしまう。
最終滑走組の、しかも一番最後に滑った私たちの前には高いけれど、攻めれば届くかもしれないという第一位のスコアがある。
最後の旋律が会場に響き、倒れる私を健人が抱き抱え、私の胸元に耳を当てて鼓動を聞いた彼が絶望に天を仰いだとき、演技が終わった。
終わってしまった。
シン、と静まり返った一瞬後、わぁぁぁ!と歓声が溢れた。
「彩加」
健人の腕にぐっと力が入り、抱き起こされる。
「彩加」
健人の声が、濡れている。
私は目を開けて、健人の顔を見て笑おうとした。
でも笑えなかった。
「……彩加?」
「ふ、……うっ、うぅー」
涙が溢れて、溢れて、止まらなかった。
だって、
「お……終わっちゃっ……た…」
「彩加、彩加……っ! 」
咽び泣く私をぎゅっと自分の胸に抱き締める健人に、沢山の歓声と彼を称える怒号のような拍手が降り注いだ。
『ああ、素晴らしい。素晴らしい演技でした。──杉原選手、泣き崩れていますね』
『……素晴らしかったですね』
『得点がでますっ。ああ、わずかに及ばない……。しかしっ、聞いてください、この声援を! 杉原選手は、顔を上げることが出来ません。──大丈夫でしょうか』
『選手たちは常に重い重圧と、プレッシャーに晒されています。特に杉原選手はお姉さんタイプの責任感の強い選手ですから、追い付けなかったのは自分のせいだと感じているのかもしれません。しかし、どうか胸を張って欲しい。隣には彼女を支える頼もしい存在があることを思い出して欲しいですね───』
私はどうしても涙を止めることが出来ず、本当は演技後、四方に向かって挨拶をしなければならないのに健人に抱き抱えられたまま彼だけがお辞儀をし、リング脇に連れてこられ、エッジカバーを付けるのさえ谷口コーチにやってもらうという失態をやらかした。
「だから言わんこっちゃない。なんで待てないわけ? たかが二、三日でしょうがっ」
「うるさいっ。焚き付けた谷口も同罪だろっ」
「そういう意味の挑発じゃないってわかってたくせに!」
キス&クライに行くまでに、低い声で健人と谷口コーチが言い争うのを泣きながら聞いていた。
健人はたまに、機嫌が悪いと谷口コーチに乱暴な口をきく。常の私はその度に健人を諌めていたけれど、この時は嗚咽に喉が塞がり何も出来なかった。
そんな私を、健人はずっと抱き締めて、肩や胸に私の頭を押し付けて情けない顔を隠してくれながら、優しい慰めの言葉を囁き続けてくれた。
「もともと沢口選手は、シングルで注目されてたよね? アイスダンスに転身して良かった?」
「はい。一切の後悔はありません。あや……杉原選手に出逢い、パートナーとして共に戦えたことは、僕の人生で一番のご褒美です」
その整った容姿には清々しさしかない。
「その胸元を飾るメダルの色が、金色に変わることはあるんでしょうか?」
「メダルの色はパートナーと決めることですから、わかりませんが。僕の個人の考えでは……もう、絶対に逃さない、ですかね」
爽やかに、けれども確固たる決意を滲ませて言い切る彼に、見惚れたのは女性だけではなかっただろう。
番組はまだ続いていたけど、誰の言葉も、もう私の耳に入ってくることはなかった。
健人は、もう次の方を向いている。
次の頂点を目指して、戦う準備を始めている。
その隣に私はいない。
自ら舞台を降りたから。
リズムダンスのフラメンコが、私のアスリートとしての終焉だったんだと思う。
我ながらよくやったよ。
才能に満ち溢れた健人にただくっついて走り抜けただけだったけど。
健人が言ったように、アイスダンスは男性次第。健人ほどの技術があれば、どんな女性だって光り輝くに違いない。
健人はこれからの人で、五つも年上の私はここまでの人間だった。
ただ、それだけのこと。
フリー直後みたいに涙に暮れることもなく、私がぼんやりとテレビの画面を眺めているとローテーブルの上にあるスマホが振動した。
谷口コーチだ。
帰国しても腑抜けたまま引きこもる私を、とても心配してくれて気にかけてくれる。
「もしもし」
『あ、杉ちゃん? 具合どう? 飯ちゃんと食べた? 』
専属コーチに着いてくれた当日、“彩ちゃん”って呼ぶねって言ったのに、次回から何故か“杉ちゃん”になっていた谷口コーチはとても面倒見がいい気さくな人だ。年齢は私よりも上で三十代。私たちの頼りになるお兄さん的存在だ。
「うん、食べてる。大丈夫だよ。あの、谷口コーチ。今までありがとうございました。明日ね、私、クラブを辞めようと思ってます」
『えっ! クラブを辞めるっ!? ま、ま、待ってっ、杉ちゃ──あっ! ちょっ、けぇっ』
一気に言わないと決心が鈍ると思ってまくし立ててしまったんだけど、思いの外動揺させてしまったようだ。…けぇってなによ、にわとりか。
『あー……、いや、辞めるのはいいんだけど……。健人くんのことはどうすんの? 付き合う気はないの? 』
「あ、うん? 健人と付き合えるなら嬉しいけど」
選手として健人の隣にはいられないけど、恋人として隣にいられるならこんなに嬉しいことはないんだけどな。
『……は? 杉ちゃん……、はあ、もう。しっかりしてるようで抜けてんなっ。あのねっ、今、健人くんが物凄い勢いでそっち行ったから! 出来れば先に話し合って欲しいけど、ムリだよなっ。健人くん、完全に頭に血が昇ってるから! あー、もうっ! 杉ちゃん! 頑張れよ! そんで、出来れば、健人くんに、好きって言ってあげてくれ!』
「え? あ、うん。……わかった。がんばる……」
谷口コーチの何やら不穏な言葉の真意はよく掴めていないながらも頷いて、電話を切る。
切ったとたんに、ピンホーンとドアホンが鳴った。
「彩加っ!」
待ちきれないようにドアの向こうで彼が叫ぶ。
嬉しい。
大好きって伝えよう。
パートナーを辞めたら彼の前から去らなきゃならないって勝手に考えてたけど。
そっか。
別にいいんだ。
恋人ならいいんだ。隣にいたって。
死ぬまで彼と踊っていたかったけど。
別に選手じゃなくっても踊れるし。
「健人っ」
さあ、ドアを開けて。
素敵な貴方の胸に飛び込もう。
スタジオ全員が思ったこと。
もうさぁ...名前で呼んじゃえよっ!




