ウィンディ その終わり
あの日。
いつものようにケントくんを待っていた日。
おそいな、おそいなってそわそわしながら、ついにはやる気持ちを抑えられなかった。
気がついたら一人ぼっちで、ずっと泣いていたボクの前に現れた男の子。
出会ってから日が経つにつれてどんどん好きになっていった。
ボール遊びなんか毎日やっても飽きないし、ケントくんがくれた食べ物もどれもおいしい。
ミルクも大好きだった。
だから待ちきれなくて、その日も早く会いたくて、いつもの時間になってもケントくんがいなくて、初めて1人でケントくんを迎えに行った。
知らない道を、街を、ケントくんを探して歩き回った。
すごく心細かったのを覚えてる。
結局、ケントくんを見つけられずに帰ろうとしたときだった。
道の向こうにケントくんがいた。
入れ違いになっていたのだ。
彼の姿が目に映った途端、さみしさとうれしさが混ざり合って、ワー! って叫びたい気持ちがこみ上げて来て、衝動的にボクは走った。
走って走って、ケントに飛びついて、そして―――。
―――それっきりケントくんの温もりを感じることは無かった。
「―――思い出しまたか?」
「あっ……」
気が付けば涙が頬を伝っていた。
なつかしくて、悲しくて、でもあたたかな思い出だ。
あの日。
フーコを命を賭して助けたあの日。
独りよがりな自分が初めて誰かのために動いたあの日。
最後までうまくやり切れず、自分の命だけはとりこぼしてしまったけど。
もしかしたら俺のことを悲しんでくれる人がいたのかもしれないけど。
フーコを救った。
友達を助けられた。
それは……誰かに誇れる自分ではないのか?
弱くて情けなくて、何の力もない俺がそれを成したんだ。
それはウィンディの言うやさしい「俺」だったと言っていいはずだ。
「私は……自分をよわいというマスターも、良い人間じゃないというマスターも好きです」
その小さな手で、俺の涙をぬぐうウィンディ。
「でも、それ以上に……私に名をくれた。困ってる誰かのために戦った。こんなわたしのそばに、ずっといてくれた……そんな、優しいマスターのことが大好きなんです」
ニコッと、いつもの無邪気な笑顔で、そう言ってくれた。
俺がずっと救われてきた、大好きな彼女の笑顔でそう言われたのだ。
とても、とても誇らしいことなんだと思った。
「ウィンディ……」
それがとてもうれしくて、涙がさらに溢れてくる。
ウィンディはそっと、俺の頭をなでる。
なんだかどっちが子どもかわからないな。
「だから……もう少しだけがんばってみませんか?」
俺を立ち上がらせようと、そっと手のひらを差し出してくる。
その手をとって、俺は力を入れて立ち上がった。
「ほら……お迎えが来てますよ」
「お迎え……?」
『ケン―――くん、ケントくん―――!』
誰かが俺を呼ぶ声がした。
その声からは必死な思いを感じた。
早く行ってあげなければと、なぜかそう思った。
「ウィンディ……」
さようならと口にしようとすると、ウィンディがお菓子をねだるように、人差し指を立てた。
「最後にもう一つだけ、お願いがあります」
お願いか、なんだろうか。
「ああ―――どんな?」
俺は心して、そのお願いを聞こうとする。
「ライライラさんのこと、助けてあげてください」
「それは……」
ウィンディが口にした願いは、予想外のものだった。
俺は今、相当渋い顔をしているはずだ。
「わたしがマスターと出会えたのも、生まれてくることができたのも、ライライラさんのおかげなんです」
それは、そうかもしれない。
終わりをもたらしたのがライライラならば、始まりをもたらしたのも彼女だった。
そういう意味では、感謝しなければいけないのかもしれない。
優しいウィンディが言いそうなことだな、と思った。
「あの人は、マスターとよく似ています。きっと、救ってあげられるとしたらそれは、この世界にはマスターしかいません」
「けど、俺は……」
心の中ではアイツへの憎しみが渦巻いていた。
信じて、裏切られた。
そもそも彼女が何の救いを求めているというのか。
「マスター」
でも……それができる、のがウィンディの言うやさしい「俺」なんだろう。
かしこい彼女が言うのだ……間違いなんかじゃないだろう。
それが相棒の……家族の、最後のたった一つの願いなら……俺は。
「わかった……」
静かに俺は頷いた。
頷くことができた。
「ありがとうございます。マスター」
満足そうに、目を閉じてそう言うウィンディ。
「さあ……行ってください」
「ウィンディ……ありがとう」
背中を押して俺を送り出すウィンディに感謝を述べながら、俺は一歩を踏み出した。
「マスター!」
ウィンディが叫んだ。
もう彼女にそうやって呼ばれることは無いのだと思うと、胸に熱いものがこみ上げてきた。
「わたしの心はずっと、マスターとともにあります!」
そうなのか。
そう言ってくれるのか。
こんな俺とずっと一緒にいてくれるとそう言ってくれるのか。
「だから恐れないで! これから始めてください。新しいあなたの物語を!」
「ッ! うおおおおおおおお!!!―――ッ」
ウィンディの言葉を聞き、俺は雄たけびを上げて走った。
けっして振り返らないと強く決意する。
ぬぐってもらったはずの涙を……絶対に見せてはいけないと思ったから。
もう二度と、彼女の姿を見ることはないとしても……俺は。
彼女が信じ、自分が信じた、誇れる「俺」でありたいと、そう祈りをこめて願い……この世界を駆け抜けた。
いつまで走っただろうか。いつの間にか景色も代わっている。
気が付けばそこは、今ではなつかしいあの橋の下だった。
小さな子犬と2人だけの狭くて、でも暖かい世界。
周りには誰もいない。
ただ、ずっと夕日が街を照らしていた。
再びこの風景を見られるとは思わなかったから、ひたすらになつかしい気分だ。
「ケント、くん」
陰から誰かが出て来て、俺の名を呼ぶ。
出てきたのは……いつか街で一緒になった黒いフードを被った子どもだった。
この子が俺を呼んでいたのか。
でも……なんでこんなところに?
それに、でて来て数秒経つが……言葉も発さずになんだか震えていた。
どうしたのだろうか。
「……あの」
どうしていいか分からずに俺は立ち尽くす。
こういう時俺はどうしていたんだっけか。
とりあえず手を伸ばしてみようとした、その時。
「ずっと、会いたかった……!」
「あ……」
あの子が俺に飛びついてきた。
その時、俺の視界でスローモーションのようにゆっくり時間がすぎていく。
そしてどこかで俺は同じような体験をしたような、そんな気がした。
「お前、は」
そうだ。
これは―――この記憶は。
「ボクです……」
涙声で俺の腹に顔をうずめる子どもの声が聞こえた。
その声がどこかの記憶とリンクする。
『ワン!』
それは丁度、この場所で―――。
「フーコです……!」
ゆっくりになっていた時間が、途端に戻り始めた。
ずっとぼやけていた意識がくっきりと明確になる。
深くかぶっていたフードを脱ぐと、そこには女の子がいた。
犬耳が特徴的で、茶色のショートカットがとてもかわいらしかった。
見たこともないはずの少女の姿に、俺は見とれていた。
この子が……フーコ?
あの、子犬のフーコ?
よくわからないが……それが嘘ではないと思った。
「そうか……フーコ……お前だったのか」
「……! うん!!!」
がばっと、俺の腰に手を回して抱き着いてくるフーコ。
愛おしいものを感じるように頬をすりすりしてきた。
そんなフーコを俺も抱きしめる。
そして強くその存在をたしかめた。
もう見ることはないと、感じることは無いと思った存在に再び出会えたのだ。
何という奇跡だろうか。
なぜ人間になっているのかとか、なぜこんなところにいるのかとか、聞きたいことがいっぱいあった。
でも、しばらくはこうして温もりを感じていたいと、強く思った。