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ここはどこだろう。
いつからここにうずくまっているんだろう。
見渡す限り何もない白い空間。
でも、今の俺にはとにかく居心地が良かった。
ここにいれば心が傷つかずにすむから。
何も失わずに済むから。
「ほんとうに?」
顔を伏せていた俺にもその声が誰のものかわかった。
俺が顔を上げればきっと、相棒のウィンディがいるのだ。
「世の中きっと誰も信じられないんだ。異世界でもおんなじなんだよ」
「ちゃんと、思い出してみてください」
ウィンディが諭すように俺にそう言った。
俺は記憶の海に意識を鎮めていった。
―――中学校に上がるくらいだっただろうか。
なにか大きなきっかげあったわけではない。
でも、だんだん周りとの壁が積み上がり始めたのを覚えている。
なんとなく話が合わない。
なんとなくいけすかない。
なにか特別なことがあったわけではない。
気づいたら俺は孤立していた。
その時には平気で人の嘘を言うやつがいて、平気で人を裏切るやつがいることも何となくわかっていた。
ある日、学校でラブレターらしきものが俺の机に入っていた。
放課後学校の裏手に来てほしいという内容だった。
期待して行ってみれば、それはただのいたずらで。
『うわっ、ほんとに来たw』
『おもしれw』
男子が数人それで笑っていた。
俺はからかわれたのだ。
でも、なんだろう。
そういうのがすごくうざかった。
今思えば、からかった側はちょっとした出来心でやっただけなのかもしれない。
けど、世界はもう少しキレイだと思っていた俺には、とてもつらいものだった。
気づけば仕掛けた相手に殴りかかっていた。
それからは殴り合いの始まりだった。
相手をボコボコにしてやった。
ケタケタ笑っていた顔も腫らしてやった。
それ以上に俺は顔も体もボコボコになったが。
そのあと、先生たちに事が知れると、お互い謝まって水に流しましょうという話しにされた。
おかしいと思った。
最初に俺を怒らせたあっちが悪いはずなのに、どうして俺も謝らなければならないのか。
殴られても殴り返してはならないのか。
相手もその覚悟があってそういう遊びに興じたのではないのか。
それからは学校での居心地は最低のものだった。
クラスメイトからはさらに遠巻きに見られ、煙たがられた。
中学を卒業し、高校へと進学した。
でも、そんなことがあって今さら人の輪に入ろうと頑張る気も起きず、こらえ性の無い俺は、たまに因縁をつけてくる相手とケンカする日々を送っていた。
それでもケンカなんてするくせして、俺は腕力も並み以下で運動神経もなかった。
ほとんど負け戦だった。
そんな日々を過ごしていたある時―――。
『弱いくせに1人でスカしてんじゃねーぞこんダラズ!』
『そうだ! そうだ!』
『ぐっ……がっ……』
いつものようにケンカをしていた。
大きな橋の下、夕日をバックに……なんて言うとかっこついているだろうが、ひたすら多数にボコられていただけだ。
『……』
『ちっ、行くぞおまえら』
『ウィーっす』
散々殴り散らかして気が済んだのか、ぞろぞろと消える同じ不良たち。
『いってぇ……くそ、ちょっとは加減しろよな……』
俺は何とか立ち上がが、体中のあちこちが痛みを上げていた。
口の中は切れて血の味がするし目なんかすごく腫れている。
そんなときだ。
アイツと出会ったのは―――。
「それから……俺は……」
何を言おうとしたのだろう。
ばかばかしい。
そんなこと、どうでもいいじゃないか。
「……マスター」
「もういいだろ。昔のことなんか思い出したってつらいだけだ」
ウィンディが悲し気なまなざしを送っているのがわかった。
でも、俺は顔をうずめることしかできなかった。
「じゃあ、今のマスターは本当のマスターと言えますか?」
「……そうだよ。俺は人に優しくなんかないし、気に入らないことがあったら暴力で解決するような野蛮な人間なんだよ」
「わたしの知っているマスターは……そんな人ではありません」
「違わない。こっちに来て万能の力をもらって、俺は何もかもやり直せると思った。欲しいモノ、全部手に入れられると思った」
内心を吐露しながら思い出す。
俺は他人を見下していた。
反骨精神の塊だった。
友達だとか恋人だとか、何もかもが嘘っぱちで陳腐に見えた。
でも……本当は俺がずっとほしかったものだった。
信じられる確かなものが欲しかったんだ。
変わらないモノをずっと。
この世界に来て、何もかもが楽しかったあの頃のように。
でも……。
「……」
「……でも、それで何が手に入った? 友情も愛情も……全部ニセモノだった」
「……わたしがいました」
とても優し気に俺に語り掛けるウィンディ。
あたたかくて、守ってあげたくなるようで、本当はずっと俺を守ってくれていた少女。
「でも、もうおまえは……」
その先を口にすれば、俺の目の前にいるはずのウィンディの声も消えてしまいそうで、できなかった。
「ここにいる私は、マスターの味方です」
そっと、俺を抱きしめようとするウィンディ。
その優しさに俺は気分が楽になっていくのを感じた。
「だから……思い出してください。あなたの……本当の自分を」
「……!」
本当の自分。
ウィンディが優しいと言った俺。
どっちが正しいのか。
それでも……味方だと言ってくれたウィンディが言う、優しい俺を探したくなった。
『くぅん……』
『ん?』
―――家に帰ろうとした俺は橋の下でダンボールの中から声を聴いた。
気になって覗いてみると、まだまだ小さい子犬が鳴いていたのだ。
中には毛布と、空になった餌箱だろうか、お皿が散らかっていた。
捨てられたのだろう。
けど、捨てた人間には中途半端な温情もあったことがわかる。
俺にはそれがすごく哀れに見えた。
小さな世界でさみしく鳴いている。
ちょっと俺に似ていると、心のどこかで感じた。
『なんだよ、お前も1人なのか?』
俺は腰を下ろすと、手を伸ばして子犬の頭を撫でた。
『わしわし……』
『キャン! キャン!』
『うお、ごめん悪かった、悪かったって』
でも、いきなりのことで怖かったのか、大きな声を出しながら身をよじらせていた。
嫌われてしまっただろうか。
何となく罪悪感を感じた俺は、ボロボロのすがたでコンビニへと走った。
店員にギョッとした目で見られながらも、子犬でも食べられそうなドッグフードをなんとか買って子犬の元へと帰った。
『クゥン……』
『ほら……コンビニで買ってきたけど食うか?』
段ボールの中に一緒に入っていた餌箱に適量をのせると、がっつくように食べ始めた。
よっぽどお腹が空いていたのだろう。
『よしよし、うまいか?』
今度はそっと、子犬の頭に手を置いた。
怖がっていたさっきのすがたが嘘のようにごはんに夢中だった。
『わかんねえけど食ってるならうまいんだろうな』
なんだが心が温かくなって、自然と笑みがこぼれた。
この時の俺は、心が満たされていくのを感じたのだった。
それからも俺は子犬の元へと通った。
ただ、なんとなくそいつといると心が楽になったから。
『よお、今日もぼっちかよ』
『ワンワン!』
『ま、俺もなんだけど』
いつものようにとなりに腰を下ろす。
なんだか喜んでいるように見える子犬の頭を優しくなでる。
『今日も色々買ってきたぜ? もっと栄養あるもん食え食え』
『ワン!』
子犬が食べられそうなものを何種類か買ってきて、それを少しずつ与えた。
いつも無邪気においしそうに食べる子犬のすがたを見るのが好きになっていったのだ。
そういうことがずっと続いていたとある日。
『そういえば、お前名前とかあるのか?』
『クゥン?』
もう出会ってだいぶ経つのに、いまさらそんなことに気付いた。
『ていうか自己紹介もしてなかったな。俺は……そうだなケントって言うんだ』
『ワン』
『で、お前をどう呼んだらいい?』
『ワゥ?』
なんのことかと首をかしげる子犬。
ダンボールの中には子犬の名前の手がかりになるようなものはなかった。
だから俺は自分で考えてみることにしたのだ。
『う~ん……コタローとかどうだ』
『キャン! キャン!』
『うわ、そんなに吠えなくても……』
何種類か考えてみたが、よっぽど気に入らないのか却下といわんばかりに吠えられた。
考えるのもむずかしくなってコンクリートの壁に背中を預けた。
今日は特に日差しも強いので、ひんやりとして背中が気持ちいい。
橋の下を通り抜ける風も合わさってすごく居心地がよかった。
『……ここを吹き抜ける風、涼しくて気持ちいいな』
そう思いながらいつものように子犬を撫でていると、俺はピンと思いついた。
『そうだ。風の子ども、フーコってのはどうだ?』
『……ワン!』
『お、気に入ったか? コイツ~』
『クゥ~ン』
フーコ。
子犬の名前はフーコになった。
こんどは気に入ったのか、俺の膝の上で甘えてきた。
とても喜んでいるように見えたのだ。
『よし、いつものやるぞ!』
『ワン!』
『俺たち、ずっと一緒にいような!』
『ワォーン!』
日課になったボール遊びを始める。
この時間だけは俺も現実の嫌なことから解放されていた気がした。
それから俺は真剣にフーコを飼おうと思い始めた。
子犬の世話とそれにかかる費用を全部自分が負担することを条件に、厳しい親をなんとか説得した俺はアルバイトを始めた。
ペットを飼うのにも色々必要だからだ。
犬のことも色々と勉強をした。
勉強なんて大嫌いだったが、フーコのことを思えば頑張れた。
朝から晩まで忙しい毎日になった。
でも、すごくそれが楽しかった。
動物の動画や番組も見るようになった。
少し恥ずかしいけど、1人で動物園に行ったこともあった。
子犬一匹でこんなに趣味が変わるなんて、自分もちょろいと思った。
そうして、お金も手に入るようになったある日。
いつもはフーコと会っている時間に、俺はペットショップで色々と必要なことを聞いたり道具を買っていた。
首輪なんかどれにしようか特に迷った。
少し遅くなってしまったと思いながら駆け足で橋の下を目指した。
『……あれ?』
いつもの場所にフーコはいなかった。
こんなことは初めてだったので俺は慌てた。
周囲を探すが影も形も無かった。
来た道を引き返してフーコを探す。
『おーい! フーコや~い!』
名前を呼びながら道路を歩いていく。
子犬といってもそんなに遠くへは行かないはずだ。
しばらく探していると声が聞こえた。
『ワンワン!』
フーコだ。
もう見慣れた茶色い毛並みの小さな姿が道路を挟んだ歩道に見えた。
『お、いたいた……まったく心配かけさせやが……』
そんな時だった。
俺を見つけたフーコが俺の方へ走ってくる。
『バ、バカ!!! 今わたってきたら―――』
同時に、今道路を走るトラックがこっちへ向かっていた途中だった。
俺はとっさに身を前に進ませていた。
そんな俺の焦燥など気にもせずフーコは俺に飛びついてくる。
俺はなんとかフーコを抱えて飛び込んだ。
瞬間、とんでもない衝撃が俺を襲った。
『……うっ』
『クゥン……クゥン……』
もう意識がだんだんと消えていくのがわかった。
フーコが俺の顔を何度も舐めていた。
『―――故だ! ―――が轢かれた!』
『―――く! 救急―――っ』
なんだか騒がしいことになっているが、フーコは何ともなさそうだった。
ほんとうによかった。
でも、俺はもう立ち上がることもフーコを抱きしめてやることもできないだろう。
『クゥン……!』
心なしか、フーコがすごく悲しそうだ。
子犬の気持ちなど測れたものではないが、そうだといいなと、思った。
この世界で信じられる唯一の友達にそう思ってもらえるなら、その甲斐はたしかにあったはずだから。
(だったら……まあ……いいか……)
これから死ぬというのに俺は充実感に満ち溢れていた。
後悔はなかった。
『フー、コ』
俺に安らぎをくれた子犬を守ることができたのなら、悔いはなかった。
『おまえ、が、おれの、生きた……』
最後の力を振り絞って、フーコの頭を撫でた。
ああ―――、せっかく選んだ首輪、無駄になっちゃったな。
最後にそんなことが脳裏をよぎりながら、俺の意識はそこで消えていった―――。