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賭けの冬

冬が来た。

 といっても滅多に雪の降らない東京において「冬」とは全く曖昧なものだ。今日は、天気予報で見た「最高気温一三度」という数字だけが冬の訪れを示す唯一のものだった。しかしそれでも気候の変化は人間の心理に微妙な変化をもたらす。簡単なところでは、晴れれば気分も明るくなるし、曇れば憂鬱になる。更に気候の些細な変化と各人の都合も掛け合わさって、状況や人によって実に多彩な感情が生み出される。外出の用事がある日の大雨はいらいらするけど同じ大雨でも出かけなくても良い日はワクワクする、といった具合に。

 秋の終りから何だかあいつの様子がおかしかったことは認める。アンニュイだったというか、こいつでもそんな繊細な心の機微があるのかと感心した。

 いや、嘘だ。

 本当は俺は夏のあの事件の頃には知っていた。あいつが恐ろしく脆いバランスの上で生きていて、ちょっとでも何かを動かしたら一瞬でぺしゃんこになってしまうということを。だから触れないように、動かさないようにただ見るだけに留めてきたのだ。自分がトリガーにならないように。そうやって傷つけないようにしてきた。

 それはつまり、「助けないように見殺しにしてきた」と同義だということも知っていた。


 「その時」は突然やってきた。

 ここ数日、薫の姿を見ていなかった。全く気にしていなかったと言えば嘘になるが、それでも俺は自発的にあいつを探そうと思うほどには気にはかけていなかった。その証拠にメールも電話も、何ひとつ行動を起こしていない。

 俺はちょうど図書館で明日の予習を終えて帰るところで、図書館から出ると冷気が下から這い上がってくるように襲ってきたので、ケータイ片手に校門へ向かって早足に敷地内を横切っていた。

 講義棟前にある喫煙スペースを通り過ぎたところで、液晶が光った。

 080-×××ー××××

 知らない番号だった。出るべきか悩んだが少し放置してもなかなか鳴りやまないので、俺は仕方なく画面に表示された「受信」に軽く触れた。

「はい、もしも…」

「薫くんから連絡はないか?」

 俺の声を遮って電話口から聞こえてきたのは聞き覚えのある声だった。

「伊藤さん?なんで番号…」

「薫くんから、連絡は、なかったか?」 

 一語一語切って話す。切羽詰った声だった。

「い、いえ。何でですか?」

「くそっ!君も急いで探してくれ。」

 突然のことに頭が着いていかない。しかしあの伊藤さんが「くそっ!」と言ったのだ、何か緊迫した状態にあるということだけは理解出来た。そしてどうやらこの瞬間から俺もその状況に投げ込まれたらしい。

「どういうことですか?」

 一瞬の間。

「彼女おそらく実行するぞ、自分の手で。」

「―知っているんですか?」

 衝撃だった。俺と薫以外に計画を知ってる人間がいたとは―。

「ああ、大分前に彼女が話してくれたんだ。自分の頭の中のことをね。知っているのは僕だけで、他の部員達は知らない。」

「そう…ですか。」

「とにかく説明は後だ。彼女を探してくれケータイにも出ないんだ。」

「分かりました。とにかく思い当たるところ探してみます。」

 そう言って電話を切ったものの、どこに行けばいいのかなど分からない。ふと考えてみると、俺はあいつのことを何も知らないのだ。どこに住んでいるのかすら知らない。実家の場所も東京ということ以外知らない。とりあえず唯一知っている薫兄の連絡先に「突然すみません。柴です。薫そっちに行っていませんか?」とメッセージを入れた。返信はすぐに来た。「いいえ。何かありましたか?」何と返すべきだろうか。「薫と連絡がつかなくなりました。もし連絡があったら教えて下さい。それから薫の住所を教えていただけませんか?それから行きそうな場所があれば教えて下さい」乱文だとかそんなこと言っている場合ではないことは分かっていたから、一度読み返してすぐに返信した。「薫の家には私が行きます。薫が行きそうな公園があるのでそちらも私が行ってみます。その公園以外はすみません、特に思い当たりません。実家や譲にも連絡してみます。あの子をお願いします。」俺のメッセージから状況を察したのだろう。

 とにかく俺は学校中を探すことにした。講義棟、食堂、サークル棟…休日で生徒もまばらな学校は、鍵がかかっていて入れないところも多く、薫が行ける所も限定されている。それなのにあいつはいない。結局元いた講義棟に戻ってきてしまった。もう一度ケータイを取り出して薫にかけてみる。しかしさっきと同じく着信はなるのだが薫は出ずに留守電へと繋がる。役に立たないケータイを投げてやりたくなる。しかし、その衝動を堪えて反対にぎゅっと握る。俺には何だか良く分からない自信があった。あいつが誰かに連絡を寄越すとすれば、それは伊藤さんでも兄でも弟でもない―俺だ。

 ケータイの画面を凝視する。味気の無い画面に突然文字が浮かぶ。ワンコールも鳴らないうちに取った。

「薫!今どこだ!」

「うーん、すごく寒いところ。」

「薫!」

「そんなに怒んないでよ。連絡無視したことなら謝るよ。」

「謝るなら直接謝れ。今どこにいるのか言え。」

「講義棟七階のバルコニー。」

 特に隠すでも躊躇うでもなく、薫は素直に居場所を話した。

 くそっ、この建物内にいたんじゃないか!俺は走り出した。ケータイは繋がったままだ。エレベーターで最上階まで上がる。

「薫!?どのバルコニーだ!?」

「一番入り口に近いやつ。」

 再び走った。無機質な講義棟七階でもいつもの様に迷うことはなかった。

バルコニーの入り口まで来るとガラスのドアの向こうに薫が見えた。普段喫煙所となっているバルコニーで、あいつは落下防止のフェンスの外側に立っていた。ガラスケースに入った人形みたいだ、一瞬そう思ったがすぐにそのドアを押し開ける。

俺の顔を見ると一瞬、薫の表情が緩んだ様な気がした。

「薫何やってんだよ!?約束忘れたのかよ!?」

 「俺に殺されるまで、他の誰にも殺されるな。無論、お前自身にも。」これが俺が薫の計画に協力する、唯一の条件だった。

「約束を忘れたのはシバの方でしょ?」

 上がった息では未だ浅い呼吸しか繰り返せない。後に続く言葉を発することも出来ず、薫を見る。

「…殺してくれるって言った。」

「ああ、忘れてない。でも今じゃない、次…」

 あいつは俺を軽蔑するように失笑して、小さく白い息を吐いた。

「次なんてもうないよ。」

 ああ、恐れていた事態だった。

「でもね、シバ、あたしやっぱり諦めきれないの。どうせ死ぬならシバに殺されたい。今でも春のことを思い出すよ。だってずっと頭に思い描いていた人物が目の前に現われたんだよ?嬉しかったなあ。」

 ある人にとっての「偶然」が別の人にとっては「運命」だったりする。

「なんでシバが殺してくれないのか考えた。そうしたら分かったよ、犯罪者になるのが嫌なんだよね?それなら早く言ってくれればよかったのに。大丈夫、家には遺書が置いてあるの。中身になんて何の意味もない形だけのだけど。」

真っ先に懸念してもらいたいことではあったけれど、そんなこと今となってはもうどうでもいい。

「だから大丈夫。少しあたしの背中を押してくれるだけでいい。自殺幇助にもならない。だって誰も見てないもん。シバさえ喋らなければ、シバはただの第一発見者だよ。あたしに呼ばれて着いたころにはもう遅かったって、そう言えばいい。」

 こいつの計画に協力するふりをすると決めたあの日から、俺はあいつが死ぬのは先延ばし、先延ばしにしてはきたが、最終的にこいつをどうするのかなんて一度だって考えなかった。ちらりと頭を掠めたことは何度もあった。でもなるべく深く考えないようにしてきたのだ。だってどう考えてもそんな答え出そうにもなかったし俺のキャパシティを超えていた。何時だって最終的な結論は「その時になったら何とかなる」だった。さあ、「その時」だ。たぶんここから俺と薫の攻防戦第三章、クライマックスに入る。何とかなるのだろう?何とか。何とかってなんだ?言葉で説得する、力づくで止める…それから…薫兄と弟に連絡する。俺が薫に何か言うよりずっといい。あとは、あとは…俺も一緒に飛んでしまう?単なる可能性の話だ。それならそれもありだ。

 ふと考える。俺はどうするんだろう。仮に薫がここから飛んでこの世からいなくなってしまったら。その時俺はどうする?警察に事情を説明して、葬式に出て、そして時が経って思い出として薫が風化していくのを想像する。何のリアリティもなかった。映画館で3Dメガネの先にあるものを掴むように、目の前にある風景と手のひらの感覚はリンクしない。こんな現実味のない想像をしてもきっと何も始まらない。だから目の前に居るあいつに訊いてみる。

「なあ、シバはその後どうなるんだ?」

 高揚している様子のあいつは、俺の言葉を一度では理解しなかった。

「お前を殺した後、シバはどうなる?」

 今度は一句一句切ってゆっくりと問いかける。

「知らないよ。」

「お前の頭の中の話だ。」

 知らないはずないだろ、と暗に問いかける。

「知らないって。あたしの中ではあたしが死んで完結なの!めでたしめでたしなの!」

「それは些か無責任ってもんだ。」

 思ったことをそのまま口にした。

「お前を殺して一生逃げ回って暮らすのか、早々警察に捕まって刑務所の中で暮らすのか、はたまた何の罪にも問われずに平和に幸せに暮らすのか、決めてくれよ。」

 あいつは黙ったままだ。正面を向いたままなのでその表情すら窺えない。だから俺はフェンスの一線を越える。こうすれば、あいつの顔が良く見えるから。あいつは驚いたような顔をして、自分の隣にいる俺を凝視した。こんなところにいるはずがない、とでも言うように。

「お前の後を追って飛び降りる、か。」

 横に一歩ずれて薫に近づく。

「それともお前と一緒に飛び降りる、か。」

 ちんけな芝居のようで我ながら笑ってしまう。

 あいつは目に見えて焦っていた。「シバの反逆」など考えもしていなかったのだろう。自分の頭の中のキャラクターが勝手な動きをするはずがない、と。

「例えば、シバがお前より先に死んでしまった場合は?」

 俺はフェンスを握っていた両手のうち、左手を離す。その手で空を切ってみる。冷たい風が当たって、なかなか良い気持ちだ。

「お前のシナリオは頓挫か?それとも再び俺じゃないシバが現われるのを待つか?」

 あいつが大きく目を見開きかたかた震えだす。この場合は、緊張か?興奮か?恐怖か?いずれにせよ、見慣れたこの反応に俺は満足だ。初めてこいつと遭遇したときのことを思い出す。

俺は右腕と右足を軸にして、まるでコンパスのように半円を描いて反転した。あいつがひっと小さく息を詰めるのが分かった。一瞬左半身が宙に放り出され浮いたようになったがすぐに左手でフェンスを掴み、左足も乗せる。薫を閉じ込めるように向かい合って、自分の体で覆う形になった。小柄なあいつの体は、俺の腕と足の間にすっぽりと納まる。あいつの体が強張った。屈んであいつの視線の高さに合わせる。より不安定な体勢になったがそんなの構いやない。あいつの震えは激しくなる。確かにここはひどく寒い。

「どいて…どいてよ!」

 今なら一突きすれば小柄な薫でも、簡単に俺をどかすことが出来るだろう。でも薫は小さく身を捩るだけでそれをしない。なぜならそうした瞬間にきっと俺は、真っ逆さまに落下してしまうからだ。

「…こんなこと、シバはしない!」

 俺をきつく睨むあいつの目には涙が溜まっていた。まるで普通の女の子みたいだ。

 「こんなこと」とはどんなことだろう?と俺は思う。こうして薫の前に立ちはだかることだろうか、「その後」の自分の行動について問いただすころうか―たぶん、薫を困らせること全てだ。だとしたら俺はシバではない。そんなこと当たり前じゃないか。むしろ俺は自分を薫の言う「シバ」だと思ったことなんて一度だってなかったはずだ。ただ少し、少し俺はこいつと長くそして近くに居すぎた。薫の世界に飲み込まれてしまったんだ。協力するふりして面倒くさいことをを先延ばしにして―そのまま飼い馴らされた。

 「その時」が来たんだ。だから俺は俺なりに何とかしてみる。

 薫をフェンスに押し付けるように抱きしめた。抱きしめているというよりは縋っている、しがみ付いていると言った方が正しいのかもしれない。今や薫が俺をそこに留めている唯一の命綱となった。

「手を離してもいいぞ。」

 もう疲れたろ、そう呟くが薫の全身の力は込められたままだ。ここで薫さえフェンスから手を離せば、俺たちは二人して七階下へ落下することになる。人の体温は温かい。人間湯たんぽでも抱えている気になって俺はしばしまどろんだ。体は温かいが頭は冴えている。

 ふとあいつが左腕を離した。そしてそのまま俺の着ているダウンの裾を小さく引っ張る。

「帰ろう、シバ。」

一言そう言うと、またすぐに後ろ手にしっかりフェンスを掴んだ。

「そうだな、やっぱりここは寒い。」

 手が、かじかんでいた。


 俺らが初めて会った時みたいに、なぜかエレベーターは使わず階段で一階まで降りると、ちょうど伊藤さんがすごい勢いで俺たちの目の前を横切るところだった。声をかける間もなく伊藤さんは風を起こして俺らの前を通り過ぎ、そして三メートル程先で急停止した。そしてこちらを振り返り俺達の姿を認めると、ずんずんと向かってきた。俺は何か言わなくてはとおろおろして薫の方を向いたけれど、薫はにこにことして伊藤さんを見ていた。そして次の瞬間俺らは二人して伊藤さんに引き寄せられて、「抱きしめられる」というには些か乱暴な抱擁を受けた。深呼吸をする伊藤さんの胸が大きく上下しているのが伝わってきた。結局伊藤さんは乱れた呼吸を整えるだけで何も言わなかったから、俺も黙っていた。



 テレビの向こう側で積もった雪が、徐徐に溶けていく。そうしてまるで人事のように冬が終わるのを感じる。なぜ一年が終わるのは十二月なのに、新学期が始まるのは四月なのか。その間の空白の三ヶ月、物心付いた時から俺が混乱してきたのはここに原因があるとみた。結局今年も、「雪は溶けたが桜は未だ咲いていない冬と春の間の季節」に名前は付けられそうにない。この期間は一年の中で唯一、何もせず、何も考えずいても許されるような、そんな気がする。季節自体が中途半端なのだから人間だって宙ぶらりんのままでいて何が悪い、と開き直る。数日部屋の中でぼおっとしてみる。気まぐれに散歩にでも出てみようか、なんて思って外に出た途端、季節はずれの雪に降られたりするから油断ならない。だからやっぱり部屋に戻る。

 もしかしたら何もしていないように見えて、頭や体は近づいてくる春の準備でもしているのかもしれない。これまでの春夏秋冬を清算して、整頓して、思い出すに堪えないものは都合良くなかったことにしちゃったりして、これから押し寄せてくるであろう新たな眩しくてきらきらぎらぎらした刺激物に備えるのかもしれない。謂わば、迎撃。俺たちは生まれてから何度も何度も新しい季節に期待して失望してを繰り返しているのに、それでもパブロフの犬の如く「春」という言葉に大きくて、丸くて、熱いエネルギーを感じずにはいられない。だから無意識のうちにそれに対抗すべき力を、この三ヵ月の間に養っているのかもしれない。そう考えればこの無用とも思える期間も、何だか愛おしく思えるよな気もする。

 久しぶりの外出先が大学かと侘しくなったが、そういえば夏休みにも同じようなことを思ったなと思い出して、所詮物事はルーティンが一番なのだと割り切る。それに今日は比較的重要な用事がある。大学敷地内に入り、いつも行く図書館ではなくその隣の講義棟のエレベーターを五階で降りて向かった先は、人間観察サークル部室。その扉の前で一呼吸置いて二度ノックする。中からの返事は待たずにそのままドアノブを捻る。

「失礼します。」

「やあ、久しぶり。」

 一歩踏み入れると、こちらがびくっとしてしまうほど存外近くに立っていた伊藤さんの笑顔に迎えられた。そしてその肩越しに、足を投げ出して椅子に座る薫の無表情が見えた。俺は自分の顔が少し強張るのを感じながら、それを振り払うようにつかつかと中へ進んだ。

「薫。」

「おはよう、シバ。」

 俺が近づいていくと、薫は座っていた椅子から立ち上がり、代わりに対になっている机に軽く腰掛けた。これで大体俺たちの目線は同じになった。

「今日は…きちんとお前と話をしようと思って来た。」

 そう、今日の「比較的重要な用事」とは、薫と話をすること。何に関してかなんて言うまでもない。先の自殺未遂は場の雰囲気で何となく綺麗に終わったように感じるが、卒業まであと三年あるわけだし、映画のワンシーンのように都合よく暗転して場面が切り替わってくれるわけでもない。それに加えて俺自身、生憎こいつとの関係はあれで終わりに出来そうもない。これからも薫と俺の関係と実生活は続いていくのだ。ならば二度とあんなことが起きないようにするため、今後の展望も含めて薫に何か言わなくては、とこうして部室にて俺達は向かい合っているわけである。それを見守るように伊藤さんは一歩引いたところで壁に凭れて立っている。事前に今日の旨はメールで伝えてあるのだから薫だってこれから俺たちがどういう類の話をするのか分かっているはずだ。しかし始めに切り出すべきは呼び出した俺の方だと言わんばかりに、俺の顔を見るばかりで助け舟を出してくれそうな様子もない。部室全体を包む妙な沈黙の重みに耐えられなくなって、俺はとにかく口を開いた。

「言っとくけどなあ、お前普通に考えたらただのうざい『構ってちゃん』だからな!それでも見放されないのは単に周りに恵まれたのと、割かし見た目がいいからだ!ブスに生まれてたらまじで救いようなかったからな!」

「シバ…最低…。女性蔑視。」

「こういうときだけ常識的な反応するな!」

 出だしから、派手に方向を間違えた。

「…いや、だから、今日俺が言いたいのは…」

「お前が俺のことを何と思おうと構わないんだよ。たださ、二度とあんな真似はしないでくれ。お前の死にたがりは俺が何とかするから、だからお前の生死を俺以外の何者にも委ねないでくれ、頼む。」

 「何とかする」なんて、無責任な言葉だと思う。だって俺にとってはそれは「生かし続けること」であり、薫にとってそれは「殺されること」なのだから。最初から決定的なところで、俺たちのベクトルは正反対だ。

「私たちは…さいごまで一緒にいた方がいいと思う。シバのために。」

「は?さいごっていつまでだ?」

 むくれた顔をして黙り込んだ。こいつにしては珍しい。

「しかも俺のためってなんだ?」

 更に黙り込む。

「お前は意味の分からないことをマシンガンの如く吐き出すくせに、肝心なことは何一つ喋らない。そういう意味では言葉が足りない。」

「だから!もう二度とシバがあんなことしないように私が監視しててあげるって言ってんの!」

「全く持って意味が分からない!」

「ははは。いやあ、春だね。」

 傍で聞いていた伊藤さんが笑う。

「いやそんなんじゃないですから!」

「まだですよ。だってまだ桜が満開になってませんもん。春っていうのは桜がピンクに染まる季節を言うんです。」

 驚いて薫を見遣る。

「何?」

 至極真面目な顔で俺を見上げる。

「あ…いや…」

「君たちは似たもの同士だからね」いつかの伊藤さんの言葉を反芻する。約一年付き合ってきてたった今ようやくひとつ、こいつと俺の共通点を見つけた。一年もかけてたったひとつしか共通点が見つからないというのは逆に似たもの同士とは言えないようにも思うが、そのたったひとつが他には見つけがたいものだった場合はいいのかもしれない。

「俺達の春は、他の人のより極端に短いな。」

「だから好きなんじゃん。」

 にやりと笑う。

「同感だ。」

 俺も笑った。



「何かつまんない。あたし達って変化ないよね。」

 満開の桜の元で今日もあいつはゼリー飲料を啜る。俺は食後の缶コーヒーの蓋を開けることに手こずっていた。

「変えたいのか?」

「まあ少しは?」

 やっと春だし、と付け加える。

「じゃあとりあえず…俺のことマサって呼んでみたら?」

 おっ、ようやく開いた。

 何となく静かになった隣を見遣ると、あいつはなんだか変な顔をした。苦い薬でも飲み込んだみたいな。何か考えているような、いや、脳内で今し方聞いた言葉の情報処理を行っているみたいだった。

「ばいばい、シバ。」

 そう言って小走りに走っていった。取り残されたのは、恥ずかしいことを言ってしまったと自覚し始めた俺。

 不意にこちらを振り返って手を挙げた。

「早く行くよ、マサ。」

 俺はいよいよ本格的に恥ずかしくなってコーヒーを一口仰いだ。そしてその勢いのまま立ち上がってあいつに追いつく。走った衝撃でコーヒーが若干こぼれたが気にしない。ここで躊躇ってしまっては、俺らの春にあっという間に逃げられてしまう。なんせ、俺達の春は極端に短いのだから。

 俺の一年。出会って、殺しそうになって、惚れそうになって、死にそうになった。こうして実に単純明快に、春夏秋冬が駆け抜けてった。いや、分からない。「駆けていった」のは俺たち自身で、実は張りぼての春夏秋冬に丸く周囲を囲まれていてその中をぐるぐる回っているだけなのかもしれない。例えそうだったとしても一巡毎にその内側の風景は変わり、巻き起こる出来事は変わり、登場人物と人間関係は変わっていく。「シバ」から「マサ」になった俺を待ち受けているもの一体はなんだ。

それを知るために、さて、もう一巡。

           

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