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多彩の秋

歳を取ると時が経つのを早く感じるとは言うが、まさか齢十八にしてそれを痛感する羽目になるとは思ってもみなかった。俺の夏休みは一体いつの間に過ぎ去ってしまったのだろうか?途中まではこんなに長い夏休みはうんざりだと確かに思っていたはずなのだが。過ぎてしまった今となっては小学生の時の一ヶ月弱の夏休みに比べて長さも充実度も三分の一以下だったように感じる。それにしても「大学時代は人生の夏休み」と言われているぐらいなのに、その中にあの三ヶ月に及ぶ夏休みはそもそも必要だったのだろうか、と今更ながら疑問にも思う。でもまあ過ぎてしまったものは仕方がない。

 結局大学に入って記念すべき初の夏休み、俺の特筆すべき出来事は例の旅行のみだった。

夏休み以来、薫には会っていない。正直これからも徹底して避けるつもりだ。もう今までと同じではいられない気がしていた。



 春、夏と経て、どうやら俺は薫から逃げるのが上手くなったらしい。相変わらず金曜五限のロシア語の授業では一緒になるがあいつは毎回同じ席に座るため、俺は薫の視界には入らない、薫の斜め後方の席に徹底して座った。そして授業が終わると同時に逃げるように退散するのだ。しかし妙な違和感というか、あいつにしてはストーキングが甘いような。俺がやつの軍門に下ると決めてからはそれなりに落ち着いていたが、出会った当初は俺の出席するほぼ全ての講義に現われ、帰りも勝手に付いてきて、更には電話とライン攻撃だったわけだ。今回もそれぐらいはされる覚悟でいたのだが、薫は校内で俺に会うと物言いたそうな顔でこちらに近づいてくるだけだった。これはもしかして俺が薫から逃げるのが上手くなったのではなく、薫が前ほど俺を追わなくなったということか。それなら願ったり叶ったりなのだが、何か腑に落ちない。今までと同じではいられないのは、俺だけではないのかもしれない。


 その日家に帰ってスマホを出そうと鞄を開けると、中から見覚えのない紙切れが出てきた。


 「明日の昼、いつものところでシバと昼食が食べたい。待ってるから。」


 名前など無くても分かる。しかしいつの間に?なんのために?

「話がしたい」ではなく「昼食が食べたい」。今までそんなこと言ったこと一度もなかったではないか。いつだって俺に勝手に付いてきて、勝手に俺の隣でゼリー飲料を飲み始めるのだ。突然のことに多少混乱する。だめだ、行ってはいけない。決めたではないか、薫とはもう関わらないと。しかしこんな紙切れとはいえ、薫から手紙をもらうのも初めてだった。おそらくラインでは返信が来ないと踏んでのことだろう。丸っこい字を見ていると、何だか最後の「待ってるから」が切実な、ダメ押しの一言のように思えた。しかし良いところまで来ているのだ。このまま上手くいって俺が薫と距離を取り続けることに成功すれば、「シバに殺される」なんてむちゃくちゃな妄想もあいつの中から消えていくかもしれない。だがふと考える。もしそうなった時、あいつの中の「シバ」が消えるのなら、あいつの中の「俺」の存在も消えてなくなるのだろうか。だって薫の中では「シバ=俺」、「俺=シバ」なのだろうから。そう考えたら何故か心臓が大きくどくりと鳴った。



 翌日、大方の予想通り、俺は気がついたら学校の生協で買ったタマゴサンドを片手に裏口前のベンチに来ていた。そしてそこでは既に、薫がゼリー飲料を片手に座っていた。

「来てくれたんだ。よかった。」

「…おう。」 

 薫の顔をまともに見たのは本当にあの夏の日以来だった。

「来てくれないかと思った。」

「来ないつもりだった。」 

 薫の隣、いつもの定位置に座る。ここに来なくなってそんなに日が経っているわけでもないのに、懐かしい感覚だった。ふと上を見上げると、ベンチのすぐ後ろに植えられた木の枝がベンチを覆うように伸びている。そこについている葉を何気なく眺めていたら、紅葉にはまだ早いが夏休み前のような青々しさはない、何だか中途半端な色だと思った。

「最初は謝らなきゃいけないのかなって思ったんだ。私が急き過ぎたのかなって。」

 驚いて、木の葉からあいつの顔へ視線を移動する。

「でもやめた。」

 薫は俺の方に体ごと向き直った。

「逆に怒りに来たんだよ、今日は。」

「何でそうなるんだよ。」

「シバがなんの断りもなしに約束を反故にしようとしてるから。」

 「約束」―。「俺が薫を殺す計画」に協力するという約束。

「私はね、本当は妥協したくないんだよ。シバこそが私が待ち望んでいた、私を解放してくれる人だって思ってるからシバに殺されたい。でも私の話を理解して腹括ってくれたんじゃないんなら、たぶんシバは私が待ってたシバじゃなかったんだと思う。それなら辞めて別のシバを探す。そうじゃないと私の目標は達成できないんなら、そうするしかない。」

「目標」とは言うまでも無く「殺されること」であることは明らかだ。これはこいつの賭けなのか?それとも結果は分かった上での茶番なのか?ずるい、俺に選択の余地なんかないではないか。こいつの狂った計画に協力するしか、少なくとも協力する振りを続けるしか―。手の届かないところに全てが投げ出されるくらいなら、全部俺が背負って抱えてしまったほうがマシだ。

「…分かったよ、俺も悪かった。無視とか大人気なかったわ。」

 俺はバカだ。本能ではもう近づくなと赤信号が灯っているのに、それでも俺はやっぱり人間だから、理性とか感情とかそういうものに結局は付いていってしまうんだ。

 結局あの夏の出来事はまるで俺の頭の中の出来事だったかのように、実体も掴めないままうやむやになった。



「お前さあ、暑くねえの、その格好?」

「別に。」

 薫は真夏を除き大体いつも、小柄な体に余る大きさのパーカーを着ている。未だ残暑が残るこの時期もそれは変わらず、腕まくりすらすることはない。袖もあまりまくっていて、何をするにも不便に見える。まあ、当の本人は全く気にする素振りも見せないが。

 今日は珍しく学食で昼を食べる。俺が無性に汁物が食べたくなったためだ。当然の様に付いてくるこいつは一体何なんだ、と思いはするが、とっくの昔に疑問に思うべきことであって、今更考えることでもないと思ったのでそのままにしておく。学食は普段は込んでいるが、昼休みではなく三限の時間だということもあって席は比較的空いていた。たとえ食べる場所は学食であろうと、やっぱり今日も薫の昼食は変わらなかった。そういえば、いつもならベンチで横に並んで昼食を取るため、こうして机を挟んで薫と向き合っているというのは、何とも変な感じがする。俺は念願のラーメンを食べようと割り箸を割った。

「あっ!」 

「へ?」

 俺の目の前を薫の腕が掠めた。と、横を見るとコップが倒れる寸前のところで薫の手の中に納まっていた。

「ナイスキャッチ。」

「悪りぃ。」

 置いたコップが俺が割り箸を割ろうとした拍子に腕にあたって、もう少しで倒れるところだった。それを正面にいた薫が気づき、咄嗟に身を乗り出してくれたってわけだ。腕を伸ばした表紙に一瞬、袖が捲くれて薫の手首が覗いた。細い細い手首だった。しかし細さよりも俺は、別のことに目を奪われていた。あいつの手首とひじの間の皮膚に何かミミズ腫れのような痕が見えたのだ。もしかしたら痣かもしれない。どちらにしろ位置からしてそれはつまり―。

「何?」

「いや、何でも。」

 疾うにコップをテーブルに置き元の姿勢に戻っていた薫が、俺の顔をまじまじと見つめていた。捲れていた袖は元に戻り、もう細い手首は見えなかった。とにかく俺は、目の前のラーメンを伸びる前に食べてしまうことに意識を集中させることにした。

 

 何だったんだ、あれは?学校から家に帰っても昼間見た光景について考えずにはいられなかった。今思い返してみてもやはり、傷―しかも自傷行為の類としか思えない。しかし薫は俺が「薫を殺す計画」に協力するという宣言をした時、薫は「俺に」殺されることを望んでいるのであって、自殺したいわけではない、というようなことを言っていた。それとも単なる俺の見間違いだろうか。薫に直接聞いてみれば早い。しかし何か触れてはいけないところに触れることのような気がする。かといってこのまま忘れてしまっていつも通りあいつに接することなど出来るだろうか。絶対、無理だ。

 三日三晩迷った挙句、どうしてもあの時見た光景と疑惑がひっかっかったまま消えずに、俺は思い切って薫兄に連絡を取ることにした。薫兄に対する苦手意識はもちろん拭えていない。だが、それに蓋をしてこのもやもやを晴らすことが今は先決だ。何かが俺の中で引っ掛かったまま消えない。

 それにしても何と切り出せば良いのか。「お宅の妹さん、リスカしてます?」などと言えるわけもない。仕方ないので俺は、出来る限りオブラートに包んで、ざっくり言うと「何か薫さんの手首付近に傷が見えたんですけど。ほんのちらっとだったんですけど気になっちゃって!」程度の文章を作った。もちろん敬語だ。スマホで文章を打った後も「送信」を押すために結構な時間を要した。

 俺が最大の労力と多大な時間を使って送ったメッセージの返信は、何ともあっけないものだった。

「もう一度、お会いできませんか?」

 ただ一言そう書いてあるだけだったのだ。


 このやりとりをした翌日に、俺は薫兄と会うこととなった。会社の昼休みの時間のみなのでゆっくりは出来ないが、なるべく早く話しておきたいことがある、とのことだった。三限の授業には遅刻していくことになりそうだが、ここは社会人の都合に合わせるべきところだろう。

 指定されたお店は、おしゃれな雑誌に何度も取り上げられていそうな、女の人が好みそうなカフェだった。自分には場違いな雰囲気の中、おそるおそる店のドアを開くと、ガラス張りのお店だから店内は日光がよく差して目に痛いほどに明るい。ギャルソン風の店員に待ち合わせの旨を伝えると、店の奥へと通された。そこには既に見覚えのある後姿が椅子に座っていた。

「お忙しいところすみません。」

 後ろから声をかけると、その後ろ姿が振り向いた。

「いえ、呼び出したのは私の方ですから。」

 会って早々、ほんの数週間前に見たのと寸分違わぬ笑顔を向けられて、俺はどきっとした。もちろん、美しい顔で笑いかけられたからではない。その笑顔の裏にある「黒さ」を俺は既に知ってしまったせいだ。

 そこは店の一番奥まった場所にあるテーブル席で、個室とまではいかないが他のテーブルとの距離も遠く、目隠しについ立や観葉植物があったため人目は気にならない席だった。俺に何が食べたいか聞くことも無く、俊さんは俺をこのテーブルまで案内してきた店員にランチメニューの一番上にあったものを二つ指差して頼み、「僕はアイスコーヒーで」と付け加えた。辛うじてドリンクだけは店員が俺の顔を見て「何になさいますか?」と尋ねてくれたので、「あ、じゃあアイスティーで」と希望を言うことが出来た。

 注文したドリンクとランチが全て出揃って店員が立ち去ってから、俊さんは口を開いた。つまりそれまでは先の「僕はアイスコーヒーで」から全くの沈黙だったということだ。

「一年前になりますかね…私は薫の腕を切ってやったことがあります。」

目の前にあるランチプレートから湯気が立ち上っている。おいしそうなハンバーグだ。

「本当は私とあの子の秘密なんですが、知られてしまったのなら事情をお話ししておいたほうが良いと思いまして今日はお呼びしました。あの子、今でも死にたがっているでしょう?」

 ひとつ頷く。ハンバーグの横に添えられたサラダが、湯気にあてられて少ししなっとしてしまっているのがマイナスかな。

「もうずっとなんですよ。何年も前から。態度に出すようになったのは中学生ぐらいの頃だったかな。でもきっとそういう感情はもっと前に抱いていたんでしょう。小学校低学年の頃は夜になると、『死ぬのが怖い』と言って泣き出すような子だったんですけどね。『死』に人一倍敏感だった。それなのにいつからそれを求めるようになってしまったのか…。でももう疾うに死に対する恐怖なんて飛び越えちゃったんでしょうね。」

 俊さんが俺をじっと見ているのが分かる。それでも俺の視線はサラダに釘付けのままだ。別にサラダを見ているわけではない。ただ上げることが出来ない。出来るわけがない。だって、リスカでもなくて、今目の前にいるこの人がつけた傷?兄が妹の腕を切った?なんだそれ?ふざけてる。

「もう私も辛かったんだ。」

 その一言にようやく凡人として言うべき言葉が流れてきた。

「何言ってるんですか…おかしいですよ…大事な妹なんじゃなかったんですか、『傷つけたら許さない』って、あなたが僕に言ったんじゃないですか!」

「大事な妹だからだ!」

 ようやく上げた俺の視線の先にいた俊さんは、苦しそうだった。

「分かるか!?すぐそばで大切な人間が苦しい、死にたいと言っている。思考を切ってくれって。それなのに自分は何もしてやれない。そんなときに頼まれたんだ。少し切ってくれるだけでいい、と。それでこの子が楽になるんならそれでいいと思ったよ。大事に至らない程度に注意は払ったつもりなのに、結局跡が残るほどの傷をつけてしまった。」

「そんな…」

「ばかだったと思っている。あの子の体に傷をつけてしまうなんて。でもあの時はそうするしかないと思ったんだ。俺がそうしなければあの子は自分でこの世からいなくなってしまうと。」

 俊さんは興奮した口調を恥じるように俺から顔を背けると、コホンとひとつ咳をして眼鏡のブリッジを触った。前に見たのと同じ、銀の細フレーム。

「あの日以来、私はどうしたら良いのか分からない。あの子と距離を置きたい気持ちと手元に置いて監視したい気持ちと、相反する二つがせめぎあっている。だから君に助けて欲しい。僕の代わりに、あの子から離れないでいて欲しいんだ。」

 そんなこと言われたって、一体俺に何が出来る?ただそばにいて、それで?聞きたいことはたくさんあったけれど、必死な顔をして小さく震えている俊さんを前にして頷く以外に何が出来ただろう。

 眩しすぎる店内で俺たちだけがすごく異質な存在みたいで、何だか笑えた。

 学校へ向かうため電車に乗った途端、「執着が全て恋愛感情に帰結すると考えるのは、止めた方がいい」、いつか薫が言っていた言葉が何故か今になって浮き上がってきて、電車の人ごみの中俺は息が詰まりそうになった。三限の授業には時間は間に合ったけれど、結局行かなかった。代わりに講義棟内の休憩スペースに座り、スマホを取り出して薫にラインを入れる。

「用って何?」

 三十分もしない内に、薫が不機嫌そうに俺の前に立った。俊さんからあんな話を聞いた後なのに、薫の姿を目の前にしても意外に俺は冷静だった。ここの休憩スペースには丸テーブルが五つ配置されていて、その内俺たちのテーブルを含めて三つ程埋まっていた。隣のテーブルでは女子学生三人組が手元にレジュメを開きながらもおしゃべりに興じていて、差して視線は気にならなかった。だから場所を変えることもせず、俺は本題に入る。

「そのパーカーの下の傷のことだ。」

 薫は大袈裟なほどびくりと体を振るわせた。しかしそれはほんの一瞬で、次の瞬間には何事もなかったかのように椅子を引きながら、俺の正面へと座る。

「なあんだ、知ってたの?」

 その顔には薄ら笑みが浮かんでいた。

「俊さんに聞いた。」

「意外。」

 突然薫は袖をまくり、俺に向かって腕を突き出した。

 俺は一瞬息を止めた。

 俺の視線の先にはあいつの手首、そしてその少し上にはひとつの傷跡があった。人目で分かる、鋭利な刃物で切った切り傷だ。

「なんでこんな…」

「大学に入ってシバに出会うまで、お兄ちゃんがシバだったらいいなあってずっと思ってた。ううん、お兄ちゃんがシバなんだって思い込んでたの。あの頃は、今よりずっと頭の中がぐちゃぐちゃして、本物のシバの登場まで待てなかったの。ばかだったよ。もう少しで本物は現われたのに。」

 そう言ってすぐにまた袖を戻した。

「シバが現われてくれて、本当によかった。」

 その笑顔は倒錯的なものだと分かってはいたけれど、それでも美しいことに変わりはなかったから俺は混乱した。俺が薫を「救う」なんて、そんな大それた事出来るはずも無いのに、俊さんも薫本人も俺を神様か何かと勘違いしているみたいに、縋るように離してくれない。面倒臭さとか怒りとか正義感とか、湧いたきたこの感情をどこに持っていけば良いのか分からず、うろうろとやるせなく、ただ苦しかった。


 

 うちの大学の文化祭は他のところよりちょっと遅い。といっても俺のようにどのサークルにも所属していない俺のような人間にとっては、連休になってラッキーと思う程度だ。せっかくだからぶらり一人旅をしてもいいかもしれない。世間的には平日なのでどこへ行ってもさほど込んでいないはずだ。

「お前は何すんの?」

 四限に同じ授業が終り、構内を歩いていると嫌でも学際関係の張り紙が目に付く。たまには普通の大学生らしい会話をこいつと交わしてみるのも悪くはない。

「サークルでたこ焼き屋。」

「サークル!?」

 至極全うな答えが返ってきたことに俺は驚いた。

「サークルって何の?」

 あいつがにやりと笑う。

「気になる?」

 団体行動など出来るはずもないこの薫がサークルに所属しているとは。まあ興味がないと言えば嘘になるだろう。

「気になる。」

 素直に認めよう。

「んじゃ行くよ。」

 ああ、気になるなどと言うんじゃなかった。

 何がどうなったのかは分からないが、結論から言うと俺は、薫の所属する「人間観察サークル」の手伝いをする羽目となった。しかも三日中の三日、それに加えて準備日と片付け日も含めた全日程である。まあ、成り行きで、というには物事が唐突すぎる。ここまで至った過程を少々振り返る必要があるだろう。

 そもそも人間観察サークルとは何ぞやと言いますと、その名の通り、「人間観察」をするというサークルなのだ。主な活動は街での人間観察及びその報告、そして人間の心理と行動の研究である、そうだ。こう言うと心理学専攻の学生なんかが集う研究色の強いサークルのようだが、その実体はまあ週末の渋谷に出て駅で待ち合わせする男女の動向を見てその関係を邪推したり、学食の角に陣取って人の変な食べ方の癖を発掘することを面白がるような俗なサークルなのだ、と俺は踏んでいる。それにしてもこのサークル面白いのは、新入部員の募集は行っておらず、メンバーの紹介、もしくはスカウトなのだという。曰く、「人間観察にはセンスと才能が必要」なのだそうだ。文化祭には部費捻出のため毎年模擬店を出店しているが、表向きは「人間行動学研究会」と銘打っている。理系大学にこんな文系なサークル、堅苦しいサークル名も相まって興味を示す人間はほぼいない。

 そんなサークルに現在所属しているのは、全五名。最年長の院生一名を筆頭に、三年生一名、二年生二名、そして唯一の一年生である薫、だ。薫は院生の先輩に勧誘されたらしい。その勧誘を受けるこいつもこいつである。

 小さいながら部室もあって、物置みたいな乱雑とした小部屋には、黒マジックで乱暴に書かれた「人を愛せよ!」というスローガンが貼ってある。人間観察に最も大事なことだという。

 変なサークルではあるが、出す模擬店は至って普通のたこ焼き屋である。サークル操業当初から変わらない伝統であるというが、単に新しいアイディアを出すのが面倒なだけだろう。まあたこ焼き屋ならばライバルは多いが、一定の売り上げが見込める。それにしても人間観察サークルの部費って、一体何に使われるのか謎である。


「伊藤さん、見学の友達連れて来たんで。」

 「伊藤さん」と呼ばれたその人物は、狭い部室の一番奥の机に座り何やら紙を読んでいたが、ワンテンポ遅れて薫の言葉に反応した。髪はちょっとぼさぼさだが、眼鏡をかけた知的男子といった感じの風貌だ。

「…ああ、珍しいね。歓迎、歓迎。」

 視線があった俺は咄嗟に浅くお辞儀をした。

「入部希望?それならとりあえずこれに名前書いてね。審査はそれからだ。」

 そう言って座ったまま、手元にあったノートを俺に差し出した。

「あ、いえ、ただこいつに付いて来ただけなので入部とかでは…」

 薫の方を見遣るが助け舟を出すなどこいつがするわけもなく、何やらケータイをいじっているだけだった。

「失礼しまーす。あれ、お客さん?」

 ノックなしにいきなり扉が開く。入ってきたのは薫よりも更に小柄な女性だった。女性というより女の子とか少女と言った方がいいような、可愛い系である。そしてそれに続いて背の高い男子二人が続いた。

「薫ちゃんのお友達。」

 俺が自己紹介するより早く、伊藤さんが答える。

「え、薫っちの友達なの?へー、すごーい。」

 何がすごいのかは分からなかったがとりあえず会釈しておく。

「入部希望?」

「あ、いえ、そうでは…。」

 同じ会話を繰り返す。

「へー、まあでもよろしく!湯沢です!あ、後ろはてっちゃんとひろちん。」

「木原です。」

 「てっちゃん」の方は細身でスキニージーンズを履きこなすイマドキの若者といった感じで、

「白川です。」

 「ひろちん」の方は同じく背が高いがもう少し肉付きが良くて笑顔がさわやかな人だ。しかしこの二人の顔を見て、俺は妙な感覚を覚えた。この二人に俺はどこかで見たことがあるような気がするのだ。

「ど、どうも、柴です。あの唐突ですが、どこかでお会いしませんでしたか?」

 木原さんは俺の顔を真顔でじっと見つめ、白川さんはにこっと微笑んだ。

「「二外のロシア語。」」

「あー!」

 そうだ、第二外国語で選択しているロシア語の授業で一緒なのだ。少人数クラスのため名前は知らずともだいたいのメンバーの顔は把握していると思っていたが、何故か二人は顔を見てもぴんとこなかった。

「ん?でもあのクラスってロシア語初級ですよね?お二人は二年生じゃあ…」

「一年の時、単位落とした。」

 木原さんが当然といったような口ぶりで種明かしをする。

「あ、ああ、すみません…。」

「気にしないで。しかも今年も再登録したっていうのにまだ数回しか出席してないんだ。困ったよねほんと。」

 なるほど、俺が顔を見てもイマイチぴんとこなかったわけだ。白川さんは、あははと笑いながら人事のように言っているが、第二外国語の単位は卒業するために必須である。

「ちなみにちなみに!私も伊藤さんも元あこちゃんクラスだよ!」

 あろうことか、この部屋にいる六人中六人が、亜子先生の「仲良しロシア語変人クラス」の生徒もしくは元生徒だったのだ。俺は咄嗟に心の中で、「俺は変人じゃない。俺は変人じゃない。俺は変人じゃない。」と呪文のように唱えた。

「亜子先生は見かけによらず成績に関してはシビアだからな。俺は一、二年次で二回落とされている。君も用心したまえ。」

 視線は手元の紙に落としたまま頭を掻きつつ忠告する伊藤さんを見て、何だかこの人が「仲良しロシア語変人クラス」の「元祖」のような気がした。

 それにしても一体ここに集まって何をすると言うのだ。伊藤さんは相変わらず何か紙に目を通しているし、薫はケータイをいじっているし、湯沢さんは鼻歌を歌っているし、木原さんと白川さんはお菓子を食べているし、何なんだ一体。サークルとして活動する意味はあるのか。そんなことを考えて悶々としていると、そんな俺を見透かしていたかのようなタイミングで、伊藤さんは立ち上がり堂々と言い放った。

「それでは、そろそろ本日の活動を始めます。」

 伊藤さんの鶴の一声で各々が動き始め、キャスター付きの椅子が一斉にガラガラと音を立てる。約三十秒後、その音は完全に止み、窓際に外を向くように計六つの椅子が一列に並んだ。訳の分からないままに俺は言われるがまま一番端の椅子に座る。

「全員位置に着いたね。それでは、始め!」

 再び伊藤さんの一声で全員が前を向いたまま沈黙。

「始め!」と言われても何を始めれば良いのかなど皆目見当もつかない。他の部員の見よう見まねでまっすぐ前を見つめるが、そこは窓で、校門から出て行く学生たちの姿が見えるだけだった。しかし他部員たちは食い入るようにそれをじっと見つめていて、到底話しかけられる雰囲気ではない。無論、薫にさえもだ。だから仕方なく状況が理解出来ないまま仕俺もひたすら前を見据える。一分一分がすごく長く感じられた。目の前に広がる風景はやはり、校門を出て行く学生たち、たまに逆に入ってくる人もいるが、五限も終わったこの時間、その数は圧倒的に少ない。腕時計をこっそり見遣ると、こうして沈黙の中で外を眺め始めて十五分が経とうとしていた―その時。

「「本日の活動、終了!」」

 突然二つの声が重なった。その内のひとつは隣で薫が叫んだものだ。それから二つ隣でも伊藤さんが同時に同じ言葉を発した様だ。これを合図に魔法でも解けたようにみな一斉に体勢を崩し、それぞれがまたもとあった場所へガラガラと椅子を戻す。「ふー」だの「はー」だのいかにも「疲れました」って感じの息至るところで漏れている。が、俺には一体どこに疲れる要素があったのかは分からない。

「今日は危うかったよ。」

「今日は同点でしたね。でも次は負けません。」

 元の位置に戻った伊藤さんと薫が何やら神妙な面持ちで話している。

「うんうん。さすが薫っちだよ、伊藤さんに張り合うなんて!期待の新人!」

 湯沢さんも会話に混じる。と思ったら、小動物のようなすばしこさで入り口のドアまで走り出した。そして人差し指を唇に持っていき、俺たちに向かって「しー」と言った。

「来るよ。」

 コンコン

 待ってましたとばかりにドア前にスタンバイしていた湯沢さんがドアを開ける。

「どうもー、ピザお届けに参りました。」

「わーい、ご苦労様でーす!」

 湯沢さんは首から掛けていたらしいがま口からお金を出してそそくさと会計を済ませて、あっという間に箱をテーブルで開ける。

「お、今日は生ハムだ。やった!」

「たまには寿司とかが良いんだけど。」

「我侭を言うな木原。」

 もちろん俺はいまいち状況が飲み込めていない。何故いきなりピザ?!

「説明ほしいよね、普通。」

 ちょっと困り顔で話しかけてくれたのは白川さんである。俺は直感した。この部で一番「まとも」な人だ。他部員は既に目の前のピザに手をつけている。俺が思いっきり首を縦に振るのを見て、白川さんは一枚ピザを取って俺に渡し、その次に自分の分も取った。

「こうしないとなくなっちゃうからね。」

 そう言って、困り顔のままで一口頬張った。

「うちのサークルってのは毎日やることが決まってるんだ。ただ毎日届くものが微妙に異なる。まあ大体ピザなんだけどね。伊藤さんの好みで…」

「す、すいません、もう少し根本的なところから説明お願いできますか?あの、出来れば椅子並べるところぐらいから。」

「ごめんごめん、じゃ、最初からね。その一、湯沢さんが今日頼むデリバリーを決めて電話を入れる。その二、窓に向かって椅子を並べて、デリバリーの人の姿をひたすら探す、その三、誰かが見つけたら本日の活動終了。その四、会計係の湯沢さんがお金を払った後みんなで食べる。以上。」

 「ね、簡単でしょう?」とでも言いたそうな白川さんであるが、「ああ、なるほど」と言えるほど俺は柔軟な人間ではない。ただひとつ、思い当たるところがあった。

「そういえば、俺がここに来たときからずっと伊藤さんが真剣な面持ちで何か紙を見ていたんですけどあれってもしかして…」

「デリバリーピザのチラシ。」

 白川さんは人差し指を立てて、俺の予想通りの正解を教えてくれた。

「やっぱり…。」

 伊藤さんの第一印象が「知的男子」というのは取り消そう。

「君は食べるのが遅いね。バリバリ仕事をするようなタイプじゃない。生産的な活動は向かないよ。」

 伊藤さんの声に周りを見ると、一緒に話をしていた白川さんも含めみんなもう食べ終わっていて、一口も口をつけていない俺は急かされるようにピザを三口で口に放り込んだ。

 と、突然木原さんがかばんを引っつかみ、ついでに白川さんの腕も掴んだ。

「じゃあ、俺と白川はこれからちょっと用があるんで。」

「またゲーセンか?」

 名指しされた白川さん本人は知らないようだった。いきなり腕を摑まれたことに関しても別段反応しない。

「昨日の人形、まだ取れてねーじゃん。」

「別に俺、そんなにほしいわけじゃないんだけど?」

「取らなきゃ俺の気が済まねーんだよ。」

「はいはい。」

 そう言ってかばんからウェットティッシュを取り出して丁寧に指の一本一本を拭くと、白川さんは帰り支度を済ませた。

「そういうわけで皆さん、すみません。」

 お先に失礼します、と白川さんと木原さんは連れ立って出て行った。自由だ。

「薫、俺もそろそろ…あ、お金…」

「そんなものはいいですよ。それよりもう帰るんですか、残念。」

 伊藤さんは読んでいた書物から顔を上げた。今度こそチラシではなく、埃っぽくて分厚い書物だった。そして、視線を書物に戻す前に「ついでだから」と言った感じで伊藤さんは付け加えた。

「あ、そうそう、合格です。君に我が部へ入る資格を認める!」

「丁重にお断り致します!」

 何だかよく分からないが頭で理解するよりも先に、反射的に言葉が口をついて出た。そう言う俺を見て何故だか伊藤さんは実に満足そうな表情をしていた。

「まあ、そういわずいつでも遊びに来てくれたまえ。君にはこの部室に自由に出入りできる権利を与えるよ。」

「はあ…。」

 俺はこの人に気に入られた、ということなのだろうか。

「よかったじゃん、シバ。じゃあ伊藤さんまた明日。」

 うむ、と伊藤さんはひとつ頷いた。

「今日はありがとうございました。何ていうかその…面白かったです。」

「それはよかった。」

 「では、失礼します。」と、扉を抜けようとしたその時、伊藤さんが小さく低い声で囁いた。

「…薫くんを頼むよ。あの子は不安定で危なっかしい。目を離さないでやってくれ。」

 伊藤さんと距離はあったが、その言葉は確かに俺の耳に届いた。振り向くと、伊藤さんは読んでいたはずの書物を閉じ、俺の方を真っ直ぐ見据えていた。

「なんでそんなこと俺に…?」

「君たちは似たもの同士だからね。」

 先ほどまでの飄々とした印象には不釣合いな、射抜かれるような目をしていた。

「本当は分かっているんだろう?」

 そしてそれ以上は、何も言わなかった。俺は咄嗟に、数ヶ月前に俊さんに言われた言葉を反芻した。

「人間観察サークル」は俺などが身を置くには奥が深すぎる。飲み込まれること必至だったため、やっぱり伊藤さんからの入部の誘いは断った。薫は「部長直々なんて光栄なことだ」とか「もったいない」とかぶーぶー言っていた。そうして断る代わりと言っては何だが、文化祭期間中だけ手伝うことにしたのだ。



 文化祭当日は秋晴れの、まさに文化祭日和となった。うちの学校は都心から遠く、決して交通の便も良いとはいえない。しかし毎年それなりの集客があり、殊に初日はイベントも多いため混雑が予想される。「何事も始めが肝心」ではないが、どのサークルもスタートからライバル店を出し抜こうと準備に余念が無い。もちろん「人間観察サークル」には関係の無いことだが。

 前日は準備日となっていて、俺は木原さんと白川さんとたこ焼き屋の屋台の設置を手伝い、その間薫は湯沢さんと材料の買出しに行ってたようだった。伊藤さんの姿は見かけなかった。

 当日も伊藤さんを抜いた五人でお店を回すことになっていた。サークルの規模や有名無名に関わらず店はそれなりに忙しく、予定していた休憩時間などすっ飛ばして、結局五人全員でフルに働いたという感じだ。俺なんかは一日中立ちっぱなしでたこ焼きをひっくり返していたせいで腕と足が悲鳴を上げている。

「お疲れ様!どっかで乾杯といきたいところだけど、まだ初日もあるからね。明日も頑張ろう!」

 湯沢さんがにこにこご機嫌なのは、きっと売り上げがよかったからだろう。頑張るのはいいが明日こそ、店で立ったままコンビニのおにぎりを昼食に食べる、といったことは避けたい。店から一歩出れば目の前には焼きそばだのフランクフルトだの、せっかくのお祭り気分を盛り上げてくれる食べ物がたくさん並んでいるのだから。

 

 二日目は何となく勝手が分かってきたのと、生憎の雨で客足が落ち、昨日より時間に余裕が出来た。

「てっちゃんとひろちんが戻ってきたら、柴くん、薫っちと出てきたら?」

 隣でたこ焼きを返していた湯沢さんが手は止めずに言った。そういえば三十分ほど休憩するといって木原さんと白川さんが出て行ってから一時間以上経過している。

「え、いや、俺は別に…」

 レジを担当する薫の方をちらりと見遣ると、お客の相手はしておらず、少し手持ち無沙汰な様子だった。と、目が合った。

「ではお言葉に甘えて。湯沢さん何か欲しいものはあります?」

 話が聞こえていたのか!

「クレープ!苺と生クリームのやつ!」

「了解です。」

 最初からこれを頼むのが目的だったのではないだろうか。


 見て回ると言っても、別に見たいイベントやサークルの出し物があるわけでもない。俺一人ならば信也のバンドのライブを見に行くか、圭のサークルのおでんでも食べに行くのだが、無論こいつと一緒では無理だ。

「そろそろ戻らないとな。」

 腕時計を見ると戻ると言った約束の時間まであと十五分ほどだった。

「じゃあクレープ屋さん行こう。」

 俺はすっかり忘れていたが、戻る前に湯沢さんに頼まれていた「苺と生クリームの」クレープを買わなければならないのだった。確かフットサルサークルがここからさほど遠くないところに屋台を出していたはずだ。

「その前にトイレ行ってくる。」

「ここにいる。」

 俺がトイレから戻ると薫が知らない男と並んでいた。反射的に俺は足を止めて遠目に様子を伺う。背の高い、服装や髪型にも気を使っているような男だ。確実にうちの学生ではない。その男が薫に一方的に話していて、それに対して薫がたまに頷いたり何か言ったりしている。話の邪魔をしてしまっても悪いしどうしたものかと二の足を踏んでいると、

「あ、シバ。」

 薫に見つかった。隣の男は俺を一瞥して薫に何か言うと、俺がそっちに行く前にその場を立ち去った。

「知り合い?」

「ううん。」

「でも結構話し込んでなかった?」

「いつからあそこで見てたわけ?」

 こう返されては何も黙るしかないではないではないか。薫は事も無げに目的のクレープ屋に向かって歩き出した。急いで俺もその後を追った。

 こういったことが文化祭期間中数回あった。あいつが手洗いに行った帰りだとか、追加の材料を買いに出て戻ってくる途中、とか。さすがに俺も気がつく。おそらく薫は他校の男にナンパされているんだろう。もちろん相手は薫だから、相手の男も苦労していたみたいだが。久しぶりにこいつと二人で並んで不特定多数の中を歩いていても分かったが、こいつは無意識に男の視線を奪う。要するにもてる。何を今更という感じかもしれないが、日常の中ではもはや薫が「女」であるということも、もっと言うなら「普通の人間」であるということにも疑問が残るぐらいなのだ。「美人は三日で飽きる」というのは本当だと思う。それでも俺も男だから、たまにこうやって薫の女としての価値みたいなものを見せつけられると、何だか気が気ではなくなる。更に言うと、そんなことでペースを乱される自分の現金さにうんざりしてしまうのだ。


 ようやく最終日を迎えた。最終日なだけあって、どの出店も売り切ってしまおうという気合いがひしひしと伝わってくる。片付けはまた別の日に一斉にやるため俺達はだらだらと残りのたこ焼きを作るぐらいで、特にすることも無かった。後ろでは木原さんが売り物のたこ焼きに手をつけているぐらいである。俺と薫は文化祭実行委員による店じまいの最後の点検に立ち会って、ようやく部室へ荷物を取りに戻ることが出来た。部室を出て、エレベーターが上がってくるのを待っていると、薫が無言で何かを差し出してきた。ぼーっとしている俺に痺れを切らして、「手出して」と無造作に押し付けられたのはあいつの片手に少々余るぐらいの長方形の箱。

「誕生日なんでしょ?」

「三日後…だけど。」

 三日後はちょうど水曜日で、学校に来る予定はなかった。こいつが俺の誕生日を知っていることに関しては全く驚かない。誕生日どころか家族構成からスリーサイズまで把握してるんじゃないか。しかしこいつから誕生日プレゼントを差し出されたことには驚いている。これではまるで普通の友達みたいだ。

「あ、開けてもいいか?」

 あいつは一つ頷いた。

 中身は、小型の折りたたみナイフだった。そんなことだろうとは思っていたが。しかし中々に装飾が凝っていて値段が張りそうな代物だ。俺へのプレゼントというか。暗にこれで自分を殺してほしいと言っているみたいなものだろう。全く人の誕生日プレゼントに何あげてるんだか。言いたいことは山ほどあったが口をついて出たのは、

「ありがとう。」

 一言だった。

 ぱんっ。

 突然の破裂音が響き渡る。文化祭最終日、その他多くの学校がそうなように、うちの大学でも文化祭のフィナーレとして季節はずれの花火を上げる。近くの窓に寄ってみてみると、微かに黄色や赤い光がちらちらとガラスに映っていた。

「なんだ、花火か…。」

 隣を見てみると、薫が窓に鼻をくっつけてその大きな目を見開いていた。相変わらず怖い。

「初めて、生で見た…。」

「は!?マジで!?花火見たことなかったのかよ!?」

 それならこんなちゃちな花火ではなくて、夏の有名な花火大会にでも連れて行ってやりたかった。そんなことを無意識に思って、一人で赤面した。辺りが暗くてよかった。もう一度薫の方を見る。やはりあいつは窓にへばりついて食い入るように安っぽい花火に魅入っている。子どもみたいだ。そうだ、子どもに花火を見せてやりたい父親の気持ち、きっと今の俺の心境はそんな感じだ。

 それにしても、子どもにしては随分ひねくれ者で、美しすぎる。

 白く浮かび上がる横顔を見ていると、こいつが黙ってさえいれば今頃俺も今とは違った感情をこいつに対して抱いていたのだろうなと思わずにはいられなかった。そんな気持ちをやり過ごすためにも、俺は薫の頭に手を伸ばし、犬にするようにくしゃくしゃと頭を撫でた。

「感動するなら、もっとすげー花火見てからにしろ。…俺が連れて行ってやる。」

 どこからどう見てもひとしきり感動した後のようだったが、言いたかったのは後半の部分なのだから、問題はない。俺にくしゃくしゃにされた髪の毛を直す素振りも見せず薫は窓から顔を離し、代わりに俺に二歩近づいた。

「シバ、これからも…さいごまで、よろしく。」

「さいご」とはきっと「最期」なのだろうとは思ったが、この場の空気を優先して素直におう、とだけ答えた。 到着していたはずのエレベーターはいつの間にか下へ戻ってしまっていた。


 文化祭の終わりとは大学生にとって即ち、秋の終わりを意味する。 

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