未遂の夏
前期授業最終週、つまり来週からはテスト期間に入るというこの時期は怠惰で無意味な毎日を送る大学生たちの血相が変わる、年に数回しかない貴重な時期だ。俺も例に漏れず、友達のノートのコピーと一夜漬けに忙しい。そんな最中、「勉強=図書館」という単純思考な学生で溢れる図書館に、旅行雑誌を持ち込む空気の読めない奴が約一名。せめてそういうものは家に帰ってから読んで頂きたい。ノートを写す俺の隣にいるものだから、雑誌を読むだけのくせしてちゃっかり机を一つ占領しているのだ。席にあぶれた学生の視線が痛い。でもまあどうせそこの彼だって、普段なら見向きもしないのだろうから都合の良いときだけ利用するってのも図書館に失礼な気もする。そんなことを考えながら手を動かしていると、隣からぼそぼそ言っているのが聞こえてきた。
「旅行、旅行行こう。」
雑誌を立て顔をこっちに寄せて何度も呟く。視線のみ横に遣るとにやにやしているのが分かる。
「後にしろ。」
現在と夏休みの間にあるテストというものの存在を完全無視で飛び越えて、今のこいつの頭の中は夏休みの旅行で一杯らしい。懲りずに「旅行、旅行♪」と口ずさんでいる。それにしても旅行と言ってもどこに、誰と?まさか二人か?恋人同士でもない男女が二人っ きりで果たして旅行になど行くものなのか?俺とこいつの場合「特別な関係」と言うより「特殊な関係」だからな…。遠くで四限終了のチャイムが鳴るのを聞いた。はっとして手元を見る。
やられた。
あと十五分もすれば写し終えるはずだったノートは中途半端なところで文字が途切れていた。
いつもの事ながら、俺はひとつため息を吐いた。
「教えてくれ、なんで俺とお前が一緒に旅行に行くんだよ?世の中ではそういうのはカップルの役回りなんだ。」
テスト期間が始まろうともあいつの旅行コールは止みそうにない。手に持った分厚い旅行パンフレットをぺらぺらさせながら物色している。
「そんなの決まってるじゃん、計画実行に向けての合宿みたいなものだよ。あ、合宿中に実行してくれてもいいよ。」
もう、無茶苦茶だ。
「付き合ってもいないのに二人きりで行くのが気が引けるって言うんなら誰か誘っても良いけど。」
誰か誘うと言ってもそんな相手、信也と圭しかいない。だが他でもないこいつのせいでこの二人を誘うなど、絶対的に不可能なのだ。
「そんな相手いない。」
「あ、じゃあお兄ちゃん誘ってみよっか?」
「それだけはやめてくれ!」
これ以上事態を掻き回さないでくれ、頼む。あいつの口から「お兄ちゃん」と聞いただけで、背筋がゾクっとするのだ。ありえもしないのに、どこかから監視されているんじゃないかと辺りを見回さずにはいられない。
「もう行かないってい手はないのか?話なら別に学校でも…」
「だめ!そんな事言って、やっぱりシバあたしのこと殺す気ないんじゃないの…?いつまで経っても何もしないし…」
「俺は俺でいろいろ調べてるんだよ!」
「いろいろって?」
「…こ、殺し方とか!」
あいつは満足そうに笑う。
「じゃあやっぱり合宿は必要だね!報告会も兼ねて。」
一体俺に何を報告させる気なのか。
「海はだめだ。」
溺死うんぬん、水には危険が付き物だ。あいつは持っていたパンフレットの束を一枚捲って別の候補を俺に見せる。
「山もだめだ。」
遭難のリスクがある。あいつは同じように再びパンフレットを捲る。
「温泉もだめだ。」
湯煙殺人事件なんて、いかにもありそうではないか。
非日常には行ってはいけない気がする。たぶんあいつの頭の中では、自分と俺で役者は揃い、それに加えて旅先という非日常の舞台まで揃うという寸法だ。この旅行でたぶんこいつは何かしら仕掛けてくる。その時いつも通りの冷静な判断が出来なくては命取りになるのだ。読んで字の如く、あいつの「命取り」である。まあ社会的には俺の命取りでもあるが。
「もう!じゃあどこならいいんだよ!」
結局あいつは手に持っていた束を盛大に散らせることとなった。
今日は二限が休講になったのでいつもよりゆっくり昼食が取れる。といってもまあ、俺も薫も早飯だから二時間以上の昼休みなんて時間があり余って困るぐらいだが。そんなわけで今日は学校裏にある比較的大きな公園まで足を伸ばしてみた。緑豊かなこの公園は学校から近い割には意外とうちの学生がいない。緑しかないなんて、校内とさほど変わらないからだと俺は予想している。昼食を早々に取り終り、特にすることもなく俺は公園で走り回る子どもたちを眺めていた。薫はというと、人目も気にせず芝生に寝そべってスマホをいじっている。なんと言うか…「傍から見たらカップルみたいじゃないか、俺たち」などとバカなことを考えて、更には思わず口に出してしまいそうになったその時、薫がごろんと仰向けになり、俺の方を向いた。
「一緒にお食事でもいかがですか?って、お兄ちゃんが。」
「はい?」
久々に薫兄の名を聞いたが、パブロフの犬なみに俺の体はその名に反応する。体が硬直するのだ。
「だから、お兄ちゃんとあたしと譲とシバで、ご飯を食べに行きたいんだって。」
「はあ?」
「今週の土曜の夜、暇?」
「暇じゃない。」
「来て。」
「暇じゃないと言っている。」
「来て。」
「行かない。」
「来い。」
「行かん!」
先日の一件もあることだし、例えそれが無かったとしても三崎家兄弟の会食に出席するなど、俺にとってはややこしさの極みである。慇懃に辞退させて頂く。
「何でよ、ケチ。」
「ケチで結構。」
「ハゲ。」
「…それは頂けない。」
薫は相変らずうるさいが、俺は絶対に行かない、行くものか。
俺のスマホに薫兄からメッセージがきたのは、その日の夜だった。
「連絡先、薫から聞きました。あなたとお会いできるのを楽しみにしていますよ。 俊」
という、単純明快な一種の脅迫状だった。このメッセージが届いて十六時間経った今もまだ、返信出来ずにいる。年上相手だと思うと、やはり返信しないのは失礼だし決まりが悪い。アプリを開いては憂鬱になる。それが顔に出たのだろうか、今日も必修の授業で隣に座る薫が、画面を覗いてきた。
「か、勝手に見るな!」
「あの時の『連絡先教えて』って、こういうことね。」
そういえば、こいつがお兄さんに俺の連絡先を勝手に教えたことが元凶だった。
「ねえ貸して。」
言われるがまま自分のスマホを薫に渡す。
薫は画面をじっと見たかと思うと、次の瞬間ものすごい速さで画面を打ち始めた。
「ちょ、何してっ…」
急いで取り返した画面には、「喜んでご一緒させて頂きます。」と無機質な文字。まぎれもなく、俺が薫兄の誘いに応じたという証拠がばっちり残されていた。
和食だとは聞いていたが料亭だとは聞いていない。俺のよれたシャツとチノパンが、より料亭の高級さと上品さを引き立てているみたいだ。薫はと言うといつもはだいたいグレーか黒のパーカーのくせに、今日に限ってはワンピースに黒いカーディガンを羽織っていた。裏切り者め。
和服姿の女性に通されたのは、入り口を真っ直ぐすすんだ奥にある個室だった。
「久しぶり、薫。それから柴さんも。」
そこには既に、薫兄と薫弟の姿があった。薫兄と目が合って俺は何か言うべきかと身を固くしたが、彼は微笑むだけで俺を制した。その目だけで、「前回会った時のこと口にしてはいけない」ということが理解出来てしまった。それにしても相変わらずスタイリッシュなスーツの似合うお兄さんだ。ご丁寧に趣味の良いネクタイまで締めている。薫弟はと言うと、制服を脱いだ途端、随分と大人っぽくなるものだ。ジャケットと細身のパンツ、中はラフな無地Tシャツでよく似合っている。これからこの二人と並ばなくてはいけないかと思うと胃が痛くなった。個室であることだけが救いだ。
薫兄に促されるまま俺たちも席に着く。四人がけの四角いテーブルで、俺は薫の隣、薫弟の向かいに座った。
「薫、夏休みは何をする予定なんだ?」
先付が運ばれてきた。
「旅行に行くよ、シバと。」
薫兄の視線と薫弟の視線が美しくシンクロして俺に向けられる。
「へー、柴さん、姉ちゃんと付き合ってんだ。」
「い、いえ、まさか!」
口に運ぼうとしていた里芋が箸からすべり落ちた。
「それは不思議だ。付き合ってもいない相手と旅行に行くんですか。」
「い、いえ俺は行くつもりなんてこれっぽちも!」
さも興味のなさそうな目で一瞥されると、薫兄の視線は再び美しく流れるように俺から離れた。
「譲、勉強の方は?彼女とは上手くいっているか?」
俺の発言など最初から求められてはいなかったようだ。
「両方そこそこ。僕、姉ちゃんよりはいいとこ入るからね。あ、でも兄ちゃんに教えてほしいところがあるんだ。」
そうか、分かった、と実に満足そうな顔で頷く。
時には笑い、時に身振り手振りを交え話は大いに盛り上がっている。もちろん俺以外で。その間俺は、ひたすら料理を口に運ぶことに集中した。せっかく目の前に出されているのだからきちんと味わいたい。自分では食べることの出来ないような料理ばかりだったから尚更だ。それに口に物が入っている間だけは、会話に加わらなければという重圧から開放されることが出来るのだ。
永遠にも感じられた「三崎家お食事会」も終わりが見えてきた。いつの間にか俺も満腹である。水物の前に手洗いに立つ。
トイレから戻ると、個室前の廊下に薫兄が佇んでいた。何をするわけでもなく腕を組みながら向かい側の壁を見つめていて、俺に気がつくと申し訳程度に微笑む。反射的に俺はお辞儀をした。
「どうです?最近の薫の様子は?」
壁に凭れるのを止め、廊下を塞ぐように俺と向かい合う。どうやら待ち伏せされていたらしい。
「はぁ…特に変わりはない…と思いますけど。」
恐る恐る答えると、薫兄は顎に手をあてて考え込む。
「次はイタリアンにしよう。良い店を知っている。柴くんは土曜の夜はいつも暇かな?」
先ほどの俺の答えには触れずに本心とも建前とも取れないことを口にする。いや、これはただの社交辞令で終わるはずはない。
「い、いえ、僕は遠慮させて頂きます。ご兄弟水入らずでどうぞ。」
「そんなことを言わないでくれ。僕の楽しみなんだ。」
そう言って眉を下げ首を傾げる。こんな仕草をされたらきっと世の女性たちは堪らないのだろう。しかし俺は違う。薫兄の楽しみが、兄弟と会って食事をすることなのか、人においしいものをご馳走することなのかは分からない。だがどちらにしろ、俺の知ったことではない。
「それなら尚更じゃまするわけにはいきません。」
「何を言っているんだ?君が居なければ成り立たないじゃないか。」
ぐっと近づいて俺の耳ぎりぎりに囁かれた。
「いわば私の趣味だよ。薫が目を付けた相手を見定めて、然る後いたぶるのは。」
今の俺はどこの段階にいるのだろう。見定められているのか、いたぶられているのか。しかしそんなことよりも、尋常ではない鳥肌を悟られる前にそのきれいな顔を退けてほしい。一瞬の溜めの後、元の位置に戻って顔をまじまじと見られる。俺の言葉を待っているようにも見えたが俺が何か言うより早く、妖艶に笑うと個室のドアを開け中へと入っていった。
どうするべきか考えていた。戻るべきか逃げるべきか。と、その時、再び個室のドアが開いた。俺は身構える。
出てきたのは、薫弟だった。彼の姿が見えた瞬間、一先ず俺の緊張は解かれた。手洗いにでも行くのだろう。廊下の真ん中で突っ立ってた俺は道を空ける。小さくお辞儀をして通り過ぎようとした彼は何を思ったのか、俺を少し越したところでぴたっと動きを止めてしまった。薫弟が寸の間フリーズ状態になる。それにつられて何故か俺まで動けずにいた。と、一瞬の内に身を翻す。気が付いたら俺は彼と向き合っていた。同じような目線の高さなので必然的に目と目が合う。本当に大きな目だ。
「柴さん、気をつけた方がいい。」
一歩俺に歩み寄る。前に感じたバニラの匂いが鼻を掠めた。
「兄はあなたを気に入っているようだから。」
そう言ってにっこりと笑う。先ほどのやり取りを聞かれていたのかと、俺は緊張した。忠告ならばもう少し早くしてほしかった。もうすでに俺と薫兄との間の不穏な空気はつい先ほど完成してしまったのだ。お茶を濁すようににへらっと笑う。しかし俺と彼の間の空気に何か温度差を感じる。ふっとろうそくの灯りを消すような寸の間、彼の顔に張り付いていたはずの笑顔は跡形もなく消え去っていた。
「兄のお気に入りは僕だけでいい。」
「兄」に気をつけた方がいい、じゃない。「僕」に気をつけた方が良い、と言いに来たんだ。
「姉さんも、あなたも、目障りだ。」
言うだけ言うと彼もまた、俺の言葉を待たずに廊下を進んで行った。薫弟は末っ子らしく、恐ろしく素直なようだ。
もはや成す術などない俺は個室へと戻る。薫とお兄さんが幼い頃に行ったというイタリア旅行の思い出話に花を咲かせていた。
もちろん、この後運ばれてきた水物の味など覚えていない。
「ねえ薫、すっごい聞きづらいんだけどさ…お兄さんと弟さんの関係って…そういう感じなの?」
月曜の昼、例によって薫はゼリー飲料のキャップを捻っている。
「そういう感じって?」
言い淀んでいると呆れたように薫が続ける。
「弟のブラコンは前にも言ったでしょ。」
「いや、ブラコン以上っていうか、お兄さんもちょっと変わったところがあるみたいだし…」
「シバ。」
いつも以上にはっきりとした口調だった。
「執着が全て恋愛感情に帰結すると考えるのは、止めた方がいい。」
俺にぐっと近づく。
「いつかきっと失敗するよ。」
俺は気圧されて小さくごめん、と謝った。
「だって私たちだってそうでしょう?私はシバに執着してるけど、それは恋愛感情じゃない。」
親に怒られる小さい子供みたいに、俺はまた小さく頷く。
「世の中、殊に人の感情っていうのは複雑に出来ているの。」
「複雑ね…でも、俊さんと譲くんが俺に対して抱いている感情が『嫌悪』だってことだけは確実だと思うよ…。」
「三崎家の人間は嫌いな相手と食事したりしない。」
あいつのこの言葉には妙に説得力があった。だとしたら三崎家三兄弟は、人への好意を示す方法が多少屈折しているだけなのかもしれない、きっと傍観者だったらこんな鷹揚な捉え方ができるのだろうなと、もはや俺には出来やしない考え方を想像した。
結局俺は薫のしぶとい旅行の誘いに根負けして妥協に妥協を重ねた結果、大学からも電車を二回乗り継いで二時間で行ける近場の避暑地を選んだ。それほど山の中でもなく、近くに海もなく、日常の延長にはぴったりである。つり橋は却下だが、川があるぐらいは許そう。手頃な小さなホテルも取れた。言うまでもなく予約したのは二部屋だ。連泊しあがるあいつを何とか抑えて、一泊のみの小旅行だ。本当は日帰りにしたいぐらいである。ホテルの徒歩圏内にはそこら一帯では有名な神社と美術館がある。薫の目的はあくまで「報告会」らしいから、まあその辺は関係ないだろう。
当日は現地集合だ。各々でホテルの最寄り駅まで行き、そこからはホテルのシャトルバスに一緒に乗り込む手はずである。
先に着いたのは俺の方だった。出口など一つしかないような小さな駅なので、駅内ですれ違いになるということもなさそうだ。たった一泊なので俺は普段学校に行くのと変わらないような荷物の少なさである。しばらくも経たない内に、キャリーバッグのカラカラという派手な音が近づいてくる。多少耳障りな音である。音の方に目を向けてみると案の定と言うか、あいつが額に汗しながら改札で引っかかったキャリーバッグを引っ張っているところだった。女子は荷物が多いとは言うが、こいつの荷物が多い理由は、決して「女子だから」ではないと思う。
さて、旅は人を解放する。普段は奥に眠っている一面を、旅先で知らず知らずのうちに晒してしまった、という経験をしたことがある人も大勢いるだろう。もちろん、羽目を外すことこそ旅の醍醐味でもある。しかし、「羽目の外し方」にもいろいろある。そして時にそれが後々の人生を大きく左右するということも―。つまり何が言いたいのかと言うと、俺の今回の目標というか課題はずばり、「あいつと過ちを犯さないこと」であるということだ。どういう過ちなのかはご想像にお任せする。全く、いつになく俗な自分に嫌気が差す。
旅館にチェックインを済ませた時には一四時を少し回っていた。とりあえず荷物を置きに各々の部屋に行き十五分後に一階のロビーで待ち合わせということにした。
いた。あいつはロビーから繋がった外のテラスのベンチで本を読んでいた。いや、視線は本のページに落とされることはなく、どこか遠くの一点を見つめている。そんなに分厚くもない本を片手に持ち、椅子の上に片膝を立てて座っている。本を持っていない右手は立てられた膝の上に乗せられている。話しかけるタイミングを失った俺はテラスには出ず、中から何となくあいつを見ていた。ガラス一枚隔ててすぐ傍にいる俺に気がつく様子もなく大理石で作られた彫刻のように、あいつはそこから動きそうもなかった。長い髪の毛だけが時々風に乗って揺れる。ああ、こいつは美しいのだった。
ふとあいつの唇が動いているのが目に入った。視線は未だ動かず、何かぼそぼそと呟いている。数でも数えているような…。ほとんど口を開かずに呟いているので、さすがに何を言っているのかは分からなかった。
彫刻のように見えたあいつの額に汗が浮かぶ。当たり前だ。避暑地とはいえ真夏の午後に外に居るのだから。ガラスを二度叩く。まるで海の底から浮き上がってきたように、あいつははっとしてこっちを見た。手招きをするとあいつは素直に頷いて手にしていた本を閉じた。
「何してたんだ?」
「考え事。」
どんな?とは聞かないでおく。おそらく俺が聞いてもどうにもならない類のものだと思ったから。
「本が読みたい」という、せっかくの旅行先でする発言とは思えないことを言う薫を引きずって、一通りの観光に出かける。まずは旅館から徒歩二十分の神社だ。
ここの神社は「学業成就」で有名だ。せっかくだから日頃の勉学に対する無気力さは棚に上げて、神頼みしておこう。長い長い立派な階段を上がりきって、ようやく境内まで辿り着いた。
涼しい時間帯になってきたからか、俺たち以外の観光客も多く見られる。
「ここの神社いいね。」
雰囲気を味わうように、辺りをきょろきょろとと見回している。確かに緑が多く、そこに社の赤がよく映えて美しい。
「おう、そうだな。」
乗り気じゃなかった薫が何だか楽しそうにしていて俺も一安心だ。
「ここは学業の神様だからな、ほら学生も多いだろ?毎年…」
パンフレット片手に、せっかくだから仕入れたばかりの薀蓄を披露しようと思う。
「今上ってきた階段なんて最高!」
しかし話半ばで薫は嬉々として走って今来た道を戻っていってしまい、俺の言葉は相手を探して彷徨っている。ひとつ息を吐いて薫の後を追うと、先ほど「最高」だと評した階段にしゃがみ込んでその下を見下ろしていた。
「ここから落とされたら…いいだろうな…。」
「喜んでくれてよかった」なんて思った俺がバカだった。
神さまの存在を信じていないという薫を引きずるようにして拝殿まで行き、一応形だけの参拝を済ませる。俺だって積極的に信じているわけではないが、ここまで来て手を合わせずに引き返すなど気持ち悪い。神さまは信じていなくともバチは怖いのだ。早々に形だけの二礼二拍手一礼をして横を見遣ると、信じていないという割りに薫は手を合わせる時間が妙に長く、且つ熱心だった。二礼二拍手一礼すら知らなかったくせに。
「何頼んだんだ?」
「こういうのって人に言わない方が良いんじゃないの?」
「神さま信じてないって言ってたろ。」
「そうじゃない。決意が揺らぐから。」
「決意?」
「私にとって手を合わせて何かを願うことなんて、一種の自己暗示に過ぎない。手を合わせる相手がいるなら、それは自分だけ。」
「ふーん、じゃあ少なくとも言霊は信じてるってことだな。」
拝殿脇にある土産屋とか甘味処とかそういうものは一切すっとばして、結局薫はさっきの階段近くに設置されたベンチに腰を下ろし、しばらく動こうとしなかった。特にしたいことがあるわけでもないから俺もその隣に腰掛けたが、薫は黙って階段を上ってくる観光客たち、もしくは階段それ自体をひたすらに眺めているだけだった。だから俺もその隣で黙って座っている。それに反して頭の中では、先ほどの薫の「決意」が一体何なのか、そればかりが気になってぐるぐると思考が動き回っていた。その「決意」について、俺はうっすらと予想することが出来た。こいつにとってこの旅行の目的はひとつ、「シバに殺されること」だから。もしかしたら人生の目的と言っても過言でもないのかもしれない。俺は薫がそれまでの十数年という歳月を何を考えどのようにして過ごしてきたのかを知らない。それでもたった数ヶ月でこいつは俺の中にずかずか入り込んできて喉元にナイフでも突きつけるみたいに要求を押し付けてきた。だから分かる。こいつの殺されたい願望には一時のお遊びでも酔狂でもなく、何か確固たる一本の芯が通っている。きっと何年もかけて培われてきたその芯を、出会って数ヶ月の俺がへし折ってやらなければならないのだ。妙な正義感と、もう引き返せないのだという諦めを持って隣にいる薫を見てみるけれど、あいつは視線すら動かさず先ほどの体勢を維持していてそれが何だか危なっかしくみえる。薫はほんの数センチ隣にいるのに、俺には触れられない気がした。
「そろそろ帰るぞ。」
だから俺はわざと臭く薫の肩をぽんと叩いた。
夕食はホテルの近くにある小料理屋で取った。地産地消を推奨しているらしく、俺はこの辺でしか食べられないという川魚の定食を注文したが、薫は「骨があるから」という理不尽な理由で魚を好まないため、わざわざここまで来て生姜焼き定食というオーダーだ。人の食の好みにケチをつけるものではないと分かってはいても、きっとそのポークはアメリカかオージー産だろうなと余計なことを考えずにはいられなかった。
ホテルまでの短い帰り道、街頭の少ない道路を並んで歩く。
「シバ、二十時にあたしの部屋集合ね。」
目の前にホテルが見えてきてようやく明るく開けたところに出ると、あいつが言った。
「お、おう。」
何もない、何もない。それぐらい分かっている。分かっているけれどどうにも落ち着かない、そんな事もある。
早々に風呂を済ませて考える。これから俺を待っているものは一体何だ?
待っているのはあいつだと分かってはいても、夜ホテルの一室で、女の子が自分を待っているという状況は落ち着かないものだ。ロビーにあった自販で買ったコーラを二つ持って、二十時ちょっとすぎに俺は隣の部屋の戸を叩いた。
待ってましたと言わんばかりに、即座に扉が開けられる。
「どうぞ。」
「どうも。」
あいつは濡れた髪のためか、肩にタオルをかけたままだった。しかし備え付けの浴衣を着ているわけでも寝巻きを着ているわけでもなく、さきほどと同じ普段着だった。かく言う俺は持参のTシャツ短パン姿だ。浴衣は、俺の場合、一旦寝ると肌蹴て風邪を引く羽目になる。
奥まで進むと窓際の椅子へ腰掛けた。昼ならば川が見えるがさすがに夜ともなると、窓に顔をつけて辛うじて街頭で照らされた部分がちらほらと臨めるだけだった。
「じゃあまずはシバからね。」
そう言って薫はテーブルを挟んで俺の向かいの椅子に座った。「何が」なんて、今更尋ねてもどうしようもないことだ。
「と、とりあえず苦しくなさそうな死に方を調べてみた。まず睡眠薬、次に一酸化炭素中毒…周りの迷惑を考えると…」
「それって自殺の方法じゃない?」
「細かいことはいいじゃねえか。」
「私は出来ればちゃんとシバの手で殺されたい。」
ああ、長い夜になりそうだ。
あいつは徐に立ち上がるとキャリーケースを引っ張ってきてがさがさと漁って次々と物を出し、床に並べていく。それは一見するとアウトドア用品だった。縄、キャンプ用ナイフ、ライター、何かの小瓶、注射器…
「シバがいろいろ考えてくれてるって言ってたから、嬉しくなっちゃってたくさん持って来た。」
「どこで手に入れるんだよ、そんなもん。」
半ば呆れて聞いたのだが、
「ネット。」
という至極当然な答えが返ってきた。全く、文明の利器はおそろしい。
興味がある態を装って椅子から立ち上がり、薫が持ち込んだそれらを手に取ってしばし眺めていると、薫の視線を横顔に感じた。それに答えるようにあいつの顔を見遣ると、薫は元々座っていた椅子に腰掛けながら首を傾げ、僅かに口角を上げた。
「なあ…なんでお前ってそんなに死にたがるんだ?」
もっと前に聞くべき質問だったのかもしれない。しかし今まで何となく避けて通ってきた話題だった。
「さあ?誰にだって悩みはあるでしょう?」
あいつは至って普通に答える。
「お前でも悩むんだな。」
「当たり前。夕食のメニュー、期末テスト、将来どうやって食べていくか、地球温暖化、カシミール問題、古い冷蔵庫の捨て方、パレスチナ問題…挙げたら切がないくらい常に悩んでるの私。」
指折り数えるその様は、あと何日寝たら夏休みか数える小学生のような、そんな爛漫さを含んでいた。俺の「普通」はあいつの「普通」ではない、という大事なことを忘れていた。呆れてあいつの顔を見るが、やっぱりあいつは何となしな顔をしている。
「自分の問題と世界の問題を、本気で同じぐらいに悩むの。嘘だと思うでしょ?」
そういって俺を覗き込むあいつの目は、わくわくしているかのような悲しいかのような。俺には信じられないし理解できない。明日の自分の食事の問題と地球の裏側で起きている紛争の問題を、どうやって同じ天秤で量れというのだ。そんなことしていたら神経が擦り切れて生きてなどいけない。
ああ、こういうことか。だからあいつは死にたいのだ。
「ただ人よりちょっと物事を複雑に、広範囲に考える傾向があって、且つ臆病なの。生粋のペシミストなのかもしれない。」
「臆病」など、こいつと対極にある言葉だと思っていた。食や娯楽への無関心さもここから来ているのだろうか。薫は再び椅子から立ち上がり、床に散乱した道具の数々を一瞥した。
「もう考えることが苦しいの。でも止められない。自分の意思ではどうにもならない。だから無理やり思考を遮断させてくれる人が必要なの。思考を辞めたい。でもそれって人間ではなくなることでしょ?」
「その『思考を遮断させてくれる人』が、シバか…。」
あいつの言う「思考を遮断させる」というのはイコール「殺されること」だ。仕方ない。人間は人間を辞めることなど出来はしないのだから。しかし一体こいつはもう何万回殺されているのだろう。
「それにしても何で『シバ』って名前に拘るんだ?」
そもそもこれこそが俺と薫を結びつけた唯一の理由であった。俺は柴家に生まれたことを喜ぶべきか、嘆くべきか。
「ありふれていながら最も神聖で最も残酷な名前。」
「神聖」で「残酷」…こんなどことなく胡散臭い言葉をどう受け止めればいい?
「あれか?もしかしてヒンドゥー教のシバ神からきてるのか?」
「破壊と創造の神。」
満足そうに薫は笑うが、俺は世界史の資料集で見たグロテスクなシバ神の像を思い出して複雑な気分になった。
「俺は神じゃない。」
「うん、最初から神様とか信じてないから。」
あいつにとって重要なのは「神」ではなく「破壊と創造」の方だ。
「だから私は『早く神の御許へ』なんて祈ったりしない。ちゃんと人間に頼んでる。」
あいつが俺に一歩近づいた。そして、跪いた。
「どうか、殺して下さい。」
見下ろした薫の顔は、すごく綺麗だった。
何故だろう、その顔を見た瞬間俺の頭の中は洪水でも起きたみたいに、ついさっきの会話だとか子どものころの思い出だとか、ごちゃごちゃしたもので溢れて一杯になってしまった。「非日常には行ってはいけない」、「旅の醍醐味」、「チェックイン」、「お兄ちゃんがシバだったらいいなあ」、「臆病」、「創造と破壊」…
目の前にいるあいつの首に手を掛ける。あいつは反射的に逃げるでもなく、むしろ顎を上げてその細い首を差し出すようだった。女性の首を掴んだのは初めてだった。喉仏がない分男のようなごつさは見当たらず、ひたすらなめらかだ。あまり日に当たらない部分だからだろうか?両手で包み込むようにしばらく感触を確かめる。大袈裟に動かしたりはせず、ただじっと手を置くだけだ。時々あいつが息を呑むのがダイレクトに伝わってくる。その時にだけ、首の骨が動くのを感じて一瞬なめらかさが失われる。長らく包んでいると、俺の手のひらとあいつの首の間に熱が篭る。少し湿ってきた。と、あいつが声を立てて笑った。振動でかすかに揺れる。あいつの顔を見る。あいつは顎は上げたままだから、必然的に見下ろされているみたいだ。
「満足?」
検分が終わったなら次に行けということだろう。
「ああ。」
小さく頷いて俺は掛けていた手をゆっくりそっと離した。あいつの不思議そうな視線が向けられる。
「分かったことがある。」
俺は何だか生温かい自分の両手に視線をやった。
「手を掛けたらすぐに絞めた方がいいみたいだ。」
だから今回は検分だけ、そう伝えて俺はそのまま薫の部屋を出た。
早足で自分の部屋に入ると、電気も付けずに窓のある奥まで進んだ。月明かりの下で自分の両手を開いてみた。汗がひどい。柔らかい皮膚の感触が残っている。しかし何も変わっていない。俺は、誰も殺していない。
翌朝、俺はノックというより、乱暴に扉を叩く音で目が覚めた。
「シバ、あと一時間でチェックアウトだけど。」
キャリーケースを引いた、不機嫌そうな顔の薫がそこには立っていた。
「まじで。寝過ごした。」
「何回も電話したのに。」
「あ、スマホ充電すんの忘れてたんだった。」
「昨日あのまま寝ちゃったんでしょ。」
「あ、まあ…。」
「待たせて悪い。早く帰ろう。」
ロビーで待ってろ、そう付け加えて俺は帰り支度に取り掛かるべく扉を閉じた。
旅行から帰ってきて一週間が経った頃、俺は久しぶりに大学へと赴いた。閑散としたキャンパス内を歩いていて、まだ夏休みが半分も消費されていないことに気が付いて驚いた。それまでの人生、「夏休み」と「宿題」はふたつでひとつだったから、今更後者が省かれて「さあ、これからは自分の好きなように!」なんて言われても、有意義に過ごせるはずもない。しばらく家にじっと篭ってみた後、辿り着いた先が大学の図書館というのも何とも寂しい人間のような気もする。しかしどうせ家から十分だし、勉強せずとも冷房の効いた図書館はそれだけで魅力的だ。長い夏休み、大してすることもないのだから大学の図書館で本でも読みながらだらだらするのも良い。それに、ひとりで何日も家に篭っていると、気が滅入って余計なことまで考えてしまってだめだ。
薫とはその後何があるわけでもなく、旅行からの帰りの電車の中も淡々としたものだった。俺はひたすら本を読み、薫は窓の外を眺めていた。二人の間の空気は特にぎくしゃくするわけでもなく、本当にいつも通り。だから俺も最寄り駅に着く頃には、あの夜のことなんてなかったことにしてしまっていいんじゃないかと、そう思い始めていた。しかし帰り際の薫の一言で、自分の認識の間違いを思い知らされた。
「じゃあねシバ、近いうちに続きしようね。」
薫の態度がいつも通りなのは、薫があの出来事をなかったものとして処理しているからではない。ただ、薫にはあの出来事で動揺する理由がないからだ。動揺するような特別なことでも何でもない、日常の延長。こいつといると死ぬことなんて、それこそ息をするのと同じように自然で、生活の中の一部のようなそんな気がしてくる。俺にはそれが辛い。俺の返事を待たずに歩き出した薫の後ろ姿を思い出して、俺はせっかく久しぶりに家から出たというのに再び気が滅入るのを感じた。
まだ午前中だということもあり人のまばらな図書館でとりあえず二階の勉強スペースの席を確保する。窓に面して並んだ一本の長い机が目隠しの板で五つに区切られているそこで、俺は一番端のブースに荷物を置いた。椅子に座ると、正面の窓から雲ひとつない青空が嫌でも見えて、「ほら、夏だぞ。それなのに中に篭ってるなんて寂しい奴」とでも嘲笑われているような気がした。そんな被害妄想を振り払って、今日やるべきことに意識を集中させなくては。席は他の四つも空いていて、何だか今日は静かに勉強に集中できそうだ。筆記用具、教科書、ノートと出し、さあ始めるぞと思ったところで、俺の隣に誰かが荷物を置く音がした。四つも空いているのになぜ隣に座るのかと内心むっとして、目隠し板を避けるように椅子を少し引いて隣を見遣る。静かに勉強できそうだという期待が二割ぐらい削がれた。
「おお、偶然…なのか?」
あの旅行の日以来初めて薫に会った。
「今日は付けてないよ。」
薫の姿をみた瞬間、俺はあの別れ際の言葉を思い出して内心そわそわしたが、予想外に薫は何か言うわけでもなく、鞄からパソコンを取り出し作業にかかろうとしている。ペースを乱されるのが自分だけというのは気に食わないし、何より恥ずかしい。だから俺も体勢を戻して見た目だけでも冷静に見えるように努める。もしかしたら薫は女子がよく言う「近いうちご飯行こうね」と同じく、建前として「近いうちに続きをしようね」言っただけで意味などないのかもしれない。そう自分に都合よく解釈をし、あの言葉は一旦頭の外に追いやった。そうでもしなければこんな天気の良い日に、わざわざ図書館まで来て机に向かう意味がなくなってしまうからだ。
結局俺たちは一九時の閉館まで特に言葉を交わすこともなく、それぞれの作業に没頭していた。隣り合っているのに何もないというのは逆に変な感じがした。閉館時間十五分前になるとアナウンスが流れ始めたので、俺はそれを合図に帰り支度を始める。
「夜ご飯ぐらい一緒にどうですか。」
そう言いながら、薫が目隠し板からひょっこり顔だけ出した。
「おう…といっても夕飯食べれるような店、近くにねえよな。」
生憎うちの大学の周辺にはファミレスなどという気の利いたものは存在しない。近所の親父たちが集まる居酒屋ぐらいはあるが、俺も薫もわいわいがやがやしたところは苦手だ。
「うち来れば?」
「はあ!?」
予想外の提案にここが閉館間際とはいえ図書館であることを忘れて、奇声を上げてしまったではないか。
「い、いやコンビニ寄って公園とかで十分だろ。」
「夕食なのに。」
そもそも彼氏でもない男が仮にも女の子の部屋に入るなど言語道断。それに部屋は踏み込んではいけない最後の砦というか、絶対領域な気がする。そこを超えてしまった時、何かが起きてしまうような。公園ならば外で人目もあるはずだし、薫も変な気を起こさないだろうと踏んだのだ。全く、なぜ身の危険を心配しなければいけないのが俺の方なのだ。
途中コンビニに寄りながら、大学裏の公園まで歩いた。時刻は十九時を少し回ったところだったけれど、夏らしく空は明るいままでいつも昼食を取る時と変わらない気がした。ただ肌に感じる気温だけはいつもよりほんの少し低い感じがして、心地よかった。ピクニックをするには些か遅い時間だからか周囲に人は無く、たまに公園前の道を自転車が通る程度だったが、かといって静寂が辺りを包んでいるわけでもなく、蝉の声だけが異様に響く。そんな中俺と薫は、公園入り口から少しいったところの土埃が薄く積もるベンチへ掛けた。そういえばあの旅行の日以来、ふたりきりになるのは初めてだ。何となくそんなことを思い出してしまい、しかも一旦思い出してしまうと気まずさがどんどん渦巻きだす。と言っても、きっとこれは俺の中でのみ起こっていることで、隣にいるこいつには微塵も伝わっていない。そうでなければ隣から鼻歌など聞こえてくるはずもない。鼻歌を歌いながら薫はコンビニで温めてもらった弁当を開けていて、夕食はゼリー飲料ではなく固形物を取っていることに俺は安心した。
そこから俺たちは取りとめの無い話をした。残り半分の夏休みの使い方だとか、後期になったら取ろうと思っている授業のことだとか。こいつと普通の話題で会話をするのは何故かどきどきした。話をしながら知らぬ間に俺の脚だけ何箇所も蚊に食われていて、掻いたり我慢したり蚊を探して叩いたり、俺は一人で忙しかった。いつの間にか日は落ちていたようで公園内の街頭には火が入っていた。夏の街頭は虫が寄ってくるから嫌いだ。
「ねえシバ、続きをしよう。」
薫との会話もそこそこに蚊叩きに専念していた俺は完全に不意を突かれ、咄嗟に返す言葉を失った。と言うよりまず、薫の発言を理解することが出来なかった。なぜそんなことを、今、ここで?このタイミングで?しかしそれと反比例して、頭の中では無理やり押し込んできたのあの夜の「感覚」が滲み出してきて、溢れていくのが分かった。首の感触も、表情も、咳き込む音も、あの夜の出来事は全て飲み込んだつもりだったけれど、全然消化なんて出来ていなかった。完全なる消化不良だ。もういっそ、吐き出してしまいたい。
「…何の続きだよ?」
それでも俺は認めるわけにはいかないのだ。何とか誤魔化すのだ、こいつを、自分を。
「夏の終わりってね、死ぬには最適な時期だと思うの。」
ああ、見たことあるこの表情。これに囚われる前に逃げなくては。
「も、もう遅いし帰るぞ。」
無理やり話を中断させて、俺はベンチから立ち上がった。視線をふと上へ向けると、ベンチ横の街灯が眩しくて気がつかなかったが、どうやら今日は満月らしかった。
「殺して殺して殺して、そう呟いて心を安定させてるんだよ?」
その言葉に動きを止める。そして夏の旅行で見たあいつの姿が頭を過ぎった。彫刻のように時を止めて、口だけ僅かに動かしていたあいつ。「コロシテ、コロシテ、コロシテ」。振り返って、薫の顔を、目を見る。
なんだかひどく、こいつが可哀想になった。
「だから…ね?」
薫は自分もベンチから立ち上がると、俺と向き合った。そして俺の両手を掴む。そのままあいつの細い首へ。俺の意思ではない、あいつが誘導しているのだ。そうして懐かしい感覚を手のひらに感じる。あの滑らかさだ。しかし今回はそれを味わうことはせず、すぐに力を込めた。手を置いている時間が長ければ長いほど、今自分が掴んでいるのは人の首だということが実感されるから。熱や汗がない内に。未だ俺の両手を包み込むようにあいつの手がそっと被さっている。そっと添えるだけ。知らない内に俺の両手は力んでいく。それと比例してあいつの呼吸が不規則になる。添えてあったあいつの手がいつの間にか俺の手首を掴んでいる。なんだ、どうした?苦しいのか?それでもあいつの顔を見ることはしない。もう少しだけ力を入れてみる。あいつが後ずさろうとするのが分かる。でも、だめだ。俺の手首を掴むあいつの力がどんどん強くなっていく。跡が残るかもしれない。俺はむっとしてあいつに負けないようにまた力を入れる。嗚咽が漏れる。誰のだ?ふと視線を上げる。
その瞬間、手を離した。
いつの間にかつま先立ちになっていたあいつは床に崩れ落ちて、激しく咳き込む。立ち上がらせようと手を差し出そうとするが、俺の腕は激しく震えていて言うことを聞かなかった。結局何も出来ずただ突っ立ってあいつを見下ろす。あいつは過呼吸になったみたいに肩で息をしていて、すごく苦しそうだった。水滴は零れていないけれど、俺を睨む目が濡れているのが分かる。
「中途半端が一番苦しい。」
あいつは怒っていた。俺に殺されかけたことにではなく、殺され損ねたことを。
そしてそのうち深呼吸を繰り返して、何もなかったように普通に一人で立ち上がった。出しそびれた俺の腕は震えたままだ。何か言おうにも唇すら震えて開かない。でも開かなくてよかった。何を言う気なのか自分でも分からなかったから。色素の薄い二つの目が俺を見据える。大きいが強くはない、闇の色ですらないその目を前に俺は動けないでいる。
気がついたら自分の部屋に居た。息が相当上がっているから一心不乱に走ってきたのだろう。震えは一層強くなる。実感が後から追いつくように体の反応はどんどん大きくなる。まるで通り魔に殺されかけて走って逃げてきた人間みたいだ。知らぬ間に口角が上がった。だって殺されかけてではなく、殺しかけて震えているなんて。
頭の中は霞がかかっているみたいにぼんやりして、中では何かがこんがらがっているみたいだった。その中で唯一、赤い警告ランプみたいにちかちか点灯している文字がある。
もう、薫に近づいては、だめだ。
翌朝、俺はいつも通りスマホのアラーム音で目が覚めた。夏休みだというのに、授業のある日と同じ起床時間に設定されたままなのだ。あの出来事は果たして現実にあったことだったのか、俺と薫の間にあったことだったのか、昨日のことだったのかおとといのことだったのか―頭の中の霞は消えていたが、頭の中にひとつ、開いてはいけない引き出しが増設されたような感じだった。
久しぶりに窓を開けたら、ぴんと冷たい空気が入ってきた。