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衝撃の春

 大学生になった。別になりたくなかった。

 四月も下旬、桜も散り散り、ピンクの花びらと緑の葉が共存する短い季節。俺は春は桜がピンクに染まる季節、と幼い頃から妄信し続けているので今のような季節、そして雪は溶けたが桜は未だ咲いていない冬と春の間の季節は、何と呼ぶべきかいまだに決めかねている。とにかく、この決まりごとのせいで俺の春は、世間一般の人々のそれに比べ極端に短い。

 

 人だかりを縫って門前の掲示板に行くと、第二外国語として選択したロシア語のクラス分けが発表されていた。といってもフランス語が五クラス、ドイツ語、韓国語が三クラスに分かれているのに対して、ロシア語は案の定と言うべきか、一クラスのみだった。しかも他が一クラス大体三十人なのに対し、ロシア語だけは計十六人。もともとうちの大学は単科大学で、都内にいくつもキャンパスを持っているような他の総合大学に比べれば大学の敷地も学生の人数も蟻んこほどの規模である。その蟻んこほどの小ささの中でさらに、第二外国語にわざわざキリル文字を一から習得してロシア語をとろうなどという殊勝な人間はミジンコほどの大きさになるだろうか。まあ、いいのだ。とりあえず名簿の上からざっと目を通して自分の名を見つける。「柴雅彦(しばまさひこ)」、紙の一番下に申し訳程度に並んだ自分の名を見て、まだ受けてもいない授業に気が重くなった。


 それは「講義棟の七階最奥の小教室」という場所に加えて「金曜の五限目」という時間に行われる、もうサボれと言われているような授業だった。しかし一番初めの授業をサボってしまうと自分の性格上もう一切行かなくなると分かっていたので、とりあえず顔だけは出すことにした。といっても生協での教科書販売に行き遅れ、教科書更には辞書さえも持たない状態で行ったところで何が出来るのか、という疑問はあったが。

 うちの大学は規模は小さいこそすれ、そのおかげか施設設備だけはよかった。ネット設備はもちろんのこと学食や地下ジムなど、人でごった返すことはあっても全学生が利用できるくらいの収容力はもっていた。そして校舎はガラス張りのエレベーターに七階までの吹き抜け、左右対称に教室が配置された講義棟が近代的でなかなかにスタイリッシュだ。しかし、見ると実際使うとでは大違い。今まさに、この左右対称に美しく並んだ教室の数々と、無個性なコンクリートの廊下が俺を苦しめているのだ。

 一言で言うと、俺は今、完全に迷っている。

 まあ新学期にはよくあることだろう。もういっそうこのまま授業に出ずに帰ってしまおうかとも思ったが、それでは階段で七階まで登った苦労が水の泡だ。なぜエレベーターを使わなかったのかは自分でもよく分からない。とにかくここまで来たら行くしかないのだ。

一先ず手当たり次第に教室のドアを開けてみる、というのはどうだろうか。いや、それでは確立が低すぎる。例え見事ロシア語の教室を探し当てられたとしても、きっと辿り着く頃には俺の精神はずたずただ。本命の教室の扉を開くまで、俺は本命以外の扉をいくつも開く羽目になる。そして開くたびに中にいる学生、教授に冷ややかな目を向けられることとなるのだ。やつらはまるで俺が授業を中断したみたいな目で見てくる。大して有意義な授業なんてしてやしないだろうに。

 とりあえず壁に貼ってある構内図で現在地と目的地を確認する。そして良いことにことに気がついた、というか思い出した。教室は「最奥」に位置するということが分かっている。そしてワンフロアは4つに枝分かれしているので、つまり最奥に位置する教室とは4つしかないのだ。これで確立は一気に4分の1になった。まあ、至極当然なことではある。たまにはこういうこともある。

 目的地、725号室。

 後ろの扉をそっと開け、目だ立たぬように屈んで入ったものの、収容人数二十人の小教室ではそんな努力も虚しく、結局俺はクラスにいる全員から冷ややかな視線を受けることとなった。

「柴雅彦くん?」

「あ、はい、遅れてすみません。」

 五分程度の遅刻、謝る気なんぞ毛頭なかったのだが名指しされてしまっては仕方ない。それに、たった今俺の名を呼び出席表にチェックを入れたのは、教授なのか講師なのかは知らないが、大学の教師陣にはなかなか珍しいうら若き女性だったのだ。というか名指しされたということは俺以外全員、時間通り出席ってことか。

 最前列の席4つはきれいに空席になっており俺にはそれを乱すことは躊躇われたので、必然的に残る最後の空席、つまり廊下側の列の真ん中の席に座った。勉強道具一切なしで先生の目の前に座る度胸もふてぶてしさも、生憎俺は持ち合わせていなかったのだ。近視の俺がホワイトボードの文字を読むことができる、ぎりぎりの距離だ。

 生徒のほとんどがいかにもうちの生徒らしい、よく言えば清潔でまじめそうな、悪く言えば地味な格好をした野郎ばかりだった。眼鏡率高し。

「…シバ?」

「え?」

 ふと隣から、それこそ蚊のなくような声で名前を呟かれた…気がする。明らかにか細い女性の声だ。

 学科柄圧倒的に男が多い中、容姿はどうあれ女性の存在は目立つ。さらに大抵の女子は副専攻語になぜかフランス語を選択するためそれとなく教室を見渡してみても、女子の姿は見当たらなかった。

 と、思った矢先。

「…シバ?」

 先ほどと同じ、どこかから漏れて聞こえてきたかのような声。不審に思い、隣に目を遣ると、いた。灰色のパーカを羽織り、そして室内、更に言えば授業中だというのにそのフードをすっぽりと被っている。しかし紛れもなく女の子だ。肩の線が明らかに細く、何よりフードから長い髪が覗いている。そしてどうやらこの人物こそがこの声の持ち主のようだった。

「はい…?」

 穴が開くほど見る、とはたぶんこういうことだと思う。大きな瞳を最大限まで見開いて、ここまでくるともはやホラーなのだが、目の前の女の子は今現在自分がどんな顔で俺のことを見つめているのかなんてこれっぽっちも気にすることなく、ただただ俺の顔を見ている。

「立って。」

「へ?」

 ガタガタと派手な音を立てて女の子は自分の席から立ち上がると、その姿からは想像付かないような力で俺の腕を掴み、無理に立ち上がらせる。そして先ほど俺の顔を見たのと同じ様に、今度は頭から足の先までよく検分する。結構小柄で、本人は意図していないだろうが、俺を見上げると上目遣いになる。きっと日本女性の平均身長に満たないぐらいだろう。

「何センチ、身長?」

「一七四。」

 反射的に答えてしまった。

「微妙。」

 クラスから僅かに笑いが漏れる。

 公衆の面前で何たる屈辱。というか仮にも授業中なのだ。教師はというと別に注意するわけでもなく、頬杖を突きながら手元の紙に目を通している。何なのだこのクラスは。

「来て。」

「は?」

 先ほどと同じく目の前の女の子は俺の腕をがっちり掴むと、俺が入ってきたばかりの扉のドアを回す。そこからはもう何だか良く分からない。疾風の如く気が付いたら一階のエントランスまで一気に階段を駆け下りていた。一瞬の出来事のようだったが確実に息は上がっているし、鼓動も早い。あまりに突然の出来事だったため唯一持参した筆箱を七階の教室に置いてきてしまった。無論、彼女も手ぶらのようだが。

「はぁ、はぁ、はぁ、あの、本当に、はぁ、何なんですか、はぁ、あなた。」

 五限目の真っ最中のためエントランスに人はなく、俺たちの息切れ以外音がしない。

「はぁ、はぁ、やっと来てくれたね。」

「はぁ、知り合いか何かでしたっけ、俺たち。」

「シバ。」

「何で俺の名前…?」

「さっきの講師が言ってた。」

「確かに…ではなくて、」

「知ってると思うけど、三崎薫(みさきかおる)。」

 それだけ言うと彼女は右手を俺に差し出した。

 反射的に俺はその手を握る。しかしもちろん彼女とはその時が初対面で、名前を知っていたはずもない。

「それで、どうしようか?」

「え、何が?」

「何って、することなんてひとつでしょ?」

 「することはひとつ」なんて意味深な言葉、十八の健全な男子に言うものではない。

「と、言いますと…?」

 別に何か期待しているわけではない。ただ階段を駆け下りて時間は経つのに、時と反比例して心拍数は上がる一方だ。

「早く殺してよ。」

「…はい?」

「あたしを殺しに来てくれたんでしょ?」

「はいいいいい!?」



「えーと、三崎さん?」

「薫。」

「薫…ちゃん。」

 俺たちは今、大学敷地内にあるカフェ、ではなく、その前の芝生に缶コーヒー片手に座っている。なぜかと言えばつい先ほどの経験で、人が大勢いる場所でこの子と会話をすることは難しいと判断したためである。学習能力は高いほうだと自負している。

「分かった、とりあえず!とりあえずメアド交換しよう。」

 これこそ出会った男女がまずすべきこと。何だか変な方向に話が行っているが、大丈夫ちゃんと話せば修正できる。そのためにも連絡先の交換は必要な作業だった。だが心を落ち着けている間もなく、そんなものは一瞬で終わってしまった。スマホやらアプリやら、俺には性能が高すぎる。

「えっと、それでその、一体何から話したらいいんだろうな…。とりあえず、俺は君の話を全く理解できてないんだけど…さっきのは何の冗談?あ、今流行ってるギャグか何か!?だったらごめん!俺テレビとか全然見ないんだ。特にお笑いは…」

「普段何してるの?」

 さっきの一件さえなければごく普通の初対面同士の会話になったはずなのに。

「え、テレビ見るなら読書かな…月並みな答えで悪いね。」

「ううん、よかった。シバ、想像していたのより顔も性格もちょっと違うけど、趣味は合格。」

「はあ…。」

 なんだ、ありがとう御座いますとでも言っておくべきところなのか?根本的な疑問が解決できていないのだから俺にはこの子の発する全ての言葉が今のところ理解不能だ。

「家族は?孤児だったりする?」

「孤児?!なんで!?普通に両親と俺の三人ぐらしだよ。」

「両親揃ってるの…ステップファミリーだったりしない?」

「なんでそんなに俺を「複雑な家族」設定にしたいんだ!?」

「まあ、いいわ…一人っ子だから許してあげる。」

 そんなあからさまに肩を落とされても困る。

「ねえ、視力はいい?眼鏡は?」

 さっきからあっちへ行ったりこっちへ行ったり、会話のテンポについていけない。会話はキャッチボールだと習わなかったのか。

「あんまり見えてないけど、悪くなったの最近だからまだ眼鏡もコンタクトも作ってない。」

 何だかんだで答える俺も俺だな。

「買わなきゃだめでしょ!繊細な銀の細フレーム!」

「はあ?」

 もうだめだ、この子にはきっとブレーキなどついていない。



「おーい、マサ!昼行こうぜー!」

 二限目が終わって教室から出ると、一足先に講義を終えた信也と圭が俺を待っていた。信也は周りより頭一つ飛びぬけているので探す手間が省けて良い。目立っているのは頭の色が黄色なせいもある。圭は至って割りとまじめで口数も少ないタイプ。頭の色だって茶色いけど地のままだ。俺は中身も外見もそんな二人の中間に位置すると自覚している。絶妙なバランスで俺たち三人の居心地の良い関係は続いている。二人ともここの附属中からの付き合いだ。内部進学というぬるま湯に浸かってきたせいか、三人揃って、ナンバーワンよりオンリーワン、みんな仲良く「事なかれ主義」である。

「おいマサ、何お前、三崎薫と知り合いなのかよ!?」

あれから一週間も経っていないのだが、信也は男の癖に噂に耳聡い。というかこれは信也でなくとも気が付く。ここ数日、三崎薫はやたら俺の前に現われては後を付いて来るのだ。

「あ、まあ…。」

「何なに?マサが何だって?」

「美少女に懐かれてんだよなー?」

 「懐かれている」なんて、そんな可愛いものか。

「お前らうるせえ。第一に、十八歳は少女とは言わない。第二に、懐かれてなんかない。二外のクラスが同じってだけだ。」

「んだよ、早く言えよ!頼む!紹介してくれ!」

「はぁ?嫌だよ、何で俺が。」

「いいじゃん!こんな女っ気のない大学であんな可愛い子、他にいねえぞ。」

 変人だけどな、とは言わないでおいた。

「自分で話かけろよ。別にそこまで仲良いわけじゃねえし。」

「なあに言ってんだよ。「仲良しロシア語変人クラス」が。」

「な、何だそれ。」

「お前知らないのかよ。大学内じゃ有名だよ。亜子先生のロシア語クラスは例年変人が集まるけど今年のメンバーは磨きがかかってるってね。類は友を呼ぶとかなんとか?」

 俺が言わずとも、三崎薫変人説は大学内に流布しているらしい。

「いや、でも三崎薫がいんなら俺も入りてえよ。あー、ドイツ語なんて止めときゃよかったー。」

「そっちの方が幾分か女の子多いだろうが。」

「量より質なんだよ。」

「嘘付け。」

 もうすぐ5月病の季節が来る。



 あの日を境に始まった三崎薫のストーキング行為は、止むどころか日々エスカレートするばかりである。ありとあらゆる講義、帰りの電車、深夜早朝の電話とメール…。これが逆の立場だったらきっと警察に駆け込まれても可笑しくない。しかし俺の場合傍から見れば、追い掛け回しているのは小柄で可愛い女の子、そして追い掛け回されているのは特に特徴のない地味な男子学生。しかも「殺す」と脅されているのではなく、「殺して」と頼まれているときた。警察もそんなに暇ではない。最近習った「男性差別」という文字が頭を過ぎった。

「なあ、お前ら付き合ってんだろ?」

「はあ?」

「いい加減認めろよ。」

 今日の昼も代わり映えのしないメンバーで昼食をとる。コンビニからの帰り道、俺はそんなことより、コンビニでお湯を入れてきたカップラーメンをこぼさないようにすることの方に興味がある。

「だから、なんでそうなるんだよ!あっちが勝手に付いて来るだけだ!俺が疲れてんの分かるだろ…。」

「とか言っちゃっててまんざらでもないくせにぃ。」

 正直に認めよう。確かに、最初はまんざらでもなかった。俺だって普通に年頃の男だ。顔が可愛いくて、見た目だけなら「守りたくなるような女の子」に付きまとわれればそりゃちょっとは浮かれる。

 だが、甘かった。ココアに蜂蜜入れてホイップクリームを乗せたぐらい俺の考えは甘かった。所かまわず現われ、所かまわず引っ付いてくる。更には電話とメール。最初は浮かれ気味に取っていた電話だが、電話に出る度に「あたしを殺す計画を立てよう」と嬉々として言われれば、着信拒否にするのも時間の問題だ。

 もう今の俺にとって三崎薫は、変な宗教の勧誘と同等の面倒臭さだった。

「シバ。」

「うおおおおお!」

 あいつは得てして突然現われる。危ない、お湯をこぼすところだった。あいつが現われようと歩は進めたままだ。あいつのために立ち止まって時間を作ってしまったら負けなのだ。しかし構わず横に付いて来る。

「薫ちゃん!」

 三人のむさくるしい野郎の中に一人可愛い女の子が入った瞬間、野郎共のテンションは馬鹿みたいに上がる。馬鹿なのだ。

「今ちょうど薫ちゃんの話してたんだよ!」 

 途端に信也と圭がこそこそ言い出す。俺らの中では良くある「即興相談会議」とやらだ。若干歩くスピードが落ちる。結局口を開いたのは圭の方だった。

「あの、聞いても良いかな…?薫ちゃんって、こいつと付き合ってるの?」

 圭は「こいつ」のところで目だけで俺を指した。

「ない!」

 無表情に即座に切られるのも男としては痛い。

「じゃあなんでマサのこと追いかけてんの?」

 更に痛いところを付いたのは圭だ。まずい、そこは今まで避けてきたところなのだ。可愛い顔で「殺してもらうため」なんて言ってみろ、変人変態扱いされるのは三崎薫ではなく、男の俺だ。

「唯一の友達だから。」

「へ?」

 身構えていた俺は拍子抜けした。なんだその純情な理由は。本気なのか冗談なのか、さっきから変わらない無表情のために読み取ることは出来ない。そして彼女に冗談のセンスがあるとも思えない。

「え、じゃあ俺にもチャンスありってこと!?」

 信也のテンションが振り切れそうで心配だ。

「うん。」

「え、じゃあ付き合ってくれる?」

「うん。」

「「え!?」」

 三人揃って歩を止めてしまった。

「まじ?まじでいいの!?やったー!」

 こうして俺の目の前で、驚くべき速さと薄っぺらさで一組のカップルが出来上がった。俺の昼飯が出来上がるよりも早かった。

 じゃ、そういうことなんで、と信也が三崎薫と去った後、俺と圭はお互い何と声をかけたら良いのかわからず、ただ「飯食うか」「おう」と機械のような会話を交わしただけだった。


「あのさ、」

 今日の帰路も三崎薫にマークされている。最近はもう慣れてきた。

「今日、俺に付きまとう理由は『唯一の友達だから』って言ったよね?あれ本当?」

「嘘。」

 三崎薫は早足の俺の半歩後ろに付いている。

「嘘かよ。なんで本当のこと言わなかったんだ?」

「殺してもらうため、って?」

 シャツの袖を引っ張られた。いつもはただコバンザメのように付いてくるだけなので、俺は驚いて思わず足を止めた。

「それはね、秘密なの。私たち二人以外には絶対ばれちゃいけないトップシークレット。」

 確かにこいつはストーカー行為はするが、人前では絶対に「殺してくれ」と言わない。それだけが救いだ。ただ、隙を見て人がいない時を狙っては小声で「早く殺せ」とせがんでくるのだ。それだけでもこちらとしては堪ったものではない。

 無言で俺の目を見て小指を差し出してくる。ん、と促された俺は無意識のうちに右手の小指を差し出していた。「ゆびきりげんまん」と口に出すでもなく、無言の内に約束は交わされた。


 ただのその場のノリだと思われた交際は、割とまじめに機能しているらしい。俺と圭は週が明ける度に信也から三崎薫とどのように週末を過ごしたか聞かされる羽目になった。

だが信也と付き合い始めても尚、三崎薫の俺への干渉は止まない。住所だけは死守していたので元々週末だけは平和だったのだ。どうか信也には週末だけではなく毎日三崎薫とべったりでいてほしい。

 そういえば薄々気にはなっていたのだが、信也は三崎薫の俺への執着は気にならないのだろうか。仮にも自分の彼女が、恋愛感情ではないにしろ他の男にご執心とは、聞き捨てならぬ問題ではないか。俺とて居心地が良いわけがない。その辺をはっきりさせようと今日こそは今日こそはと思いはするのだが、そこはぬるま湯育ち、一歩が踏み出せない。

 そう思っていたら、好機は向こうからやってきた。信也から相談を受けたのだ。

「こんなこと直接お前に言って良いのか分かんねえんだけどよ…」

 いつもは単純明快な信也に口篭られると、ちょっと不安になる。

「薫ちゃんのことなんだけど…どうしたらお前への干渉を止められっかな?」

「そんなの俺が一番知りたいよ。」

 これは圭に相談するべきことのような気がするのだが。俺に話した時点でそれは「相談」ではなく「忠告」に形を変えるのではないか。

「まあそうだけどよ…今まで、相手がマサだからいいかって思ってたんだ。百パーセント恋愛感情じゃないって分かってたから。でもやっぱり他の男より俺が優先されてえよ…」

「うん、それは普通の感情だと思うよ。直接薫…ちゃんに言ってみたら?」

「実は一回言ったんだよね。」

「それで?」

「別れるって。」

「は?」

「マサに付きまとうの止めろって言うんなら別れるって。私の計画を邪魔しないでとか何とか言ってた。計画って何?」

「いや、知らん。」

 まるでその計画に俺も加担しているような口ぶりだ。俺は最大限に首を横に振って、共犯説を焦って否定する。

「あー、どうしたらいいんだよー。別れたくはねえよー。」

「あのさ、俺も今まで以上に薫ちゃん撒いて逃げてみるから、お前も変な心配しないで気長に構えてたら?変人だってことは元々知ってたんだし。」

 しばらく悩むように唸ったり胡散臭そうに俺を見たりした後、信也は結局俺の助言を受け入れた。

「俺たち友達だしな!」

 最後の一言が、何かこれから起こることを予言しているようで不吉だった。


 圭の様子がおかしくなったのはそれからすぐだった。

 まず連絡が取れない。学校にもあまり来ていないようだった。偶然居るのを見かけて話しかけても曖昧に返事をして早足に去っていく。五月病なんて六月に入ってしまえばそのうち治る、と軽く考えていたが、信也と俺もだんだん心配になってきた。そりゃ、友達だから。

 仕方なしに俺たちは圭の家まで行ってみることにした。

 圭は、というか俺ら三人とも学校から徒歩十分圏内に住んでいる。だから別に終電なくなったから泊めろとかそういうことにもならず、かといって女子のように今夜は夜通し恋愛トークなんてこともありえないわけで、意外にも圭の家を訪ねるのは俺も信也も初めてだった。

 入学当初に聞いていた住所を辿っていくと、新築の小奇麗なアパートに辿り着いた。特別大きいわけではないが、きれいなクリーム色をした壁が圭らしかった。一階一番奥の部屋のチャイムを押す。しかし返事はない。信也が扉に耳をそばだててみたが、居留守ではないようだ。はて、どうしたものかと二人で顔を見合わせていたその時、

「シバ。」

 呼びかけるでもなく、呟くようなこの感じ。もう誰かなんて分かりきっていたけれど、俺たちが今来た道の方を見遣る。そこには三崎薫がいた。そしてその隣には圭がいた。後者は完全に予想外だ。何で圭がここにいる?いや、逆か。なんで薫がここにいる?圭と目が合った。ばつが悪そうにするでもなく、逸らすでもなく、泣き出しそうだった。全員が鉛を飲み込んだ顔をしている中、もちろんあいつ、三崎薫だけは例外で、俺にはむしろ笑っているようにさえ見えた。

 瞬時に俺の頭はフル回転する。動転するとも言う。

「と、とりあえずここは俺に預けてくれ、な?頼む!とりあえず圭は家に入れ。信也、ここはぐっと堪えて一旦お前も家に帰ってくれ。薫、お前はちょっとそこで待ってろ。」

 誰も、何も説明せずとも、誰もが状況は理解できた。圭が自宅の扉まで近づいて鍵を挿している間、俺は唖然とする信也が正気を取り戻して圭に飛び掛らないよう、二人の間の壁になりながら冷や汗を掻いていた。眠った赤子が起きぬよう、呼吸すらもままならない感じだ。圭の家の扉が閉まって、ついでに鍵がかかった音も聞き届ける。結局圭は、俺に対しても信也に対しても一言の謝罪も弁解も発しなかった。

 次は信也を、そう遠くない家まで送り届けることにした。このままでは信也は一歩もここから動かないだろう。動けないのだ。何も言うべき言葉が浮かばなかったので、とりあえず背中をそっと押してやる。するとそのでかい図体からは想像も付かないぐらい簡単に、素直に信也は動いた。なるべく視界に三崎薫が入らぬよう、俺の足りない身長でそれでもカバーしながらその場を立ち去る。信也の家が薫が立っている道とは逆方向だったのはせめてもの救いだ。信也も圭と同じく、何も発せず、責めることも怒ることもしなかった。

 さて、俺は最大の問題と対峙しなくてはならない。全ての原因、悪の根源。意外にもあいつは俺の言いつけ通り、大人しく元の場所にいた。さすがに圭の家の前で話をするのは気が引ける。近くに小さな児童公園があることを知っていたので、俺たちはそこまで歩いた。誰もいあない公園のベンチに腰掛ける。傍から見たら付き合いたての初々しいカップルに見えたかもしれない。俺とあいつの間には微妙な空間があった。

「お前どうゆうつもりだよ?信也と付き合ってるんだよな?」

 重苦しいというには物足りない、かといっていつも通りでもない空気を、俺は恐る恐る手探りで掻き分けていく。

「うん。」

「じゃあ何で圭と二人で出かけたりするんだよ?」

 日がだいぶ傾いてきている。

「圭くんとも付き合ってるから。」

「は!?何言ってんだ!?」

「最初に私がデートに誘ったの。でも前から好意には気が付いてたよ。」

 圭が薫のことを?圭は俺らの中で誰より自分の感情を口にしない。正直その手の話をしたことがない。薫が俺の方に一歩詰めた。これで微妙な空間は消えた。

「シバがあたしのこと早く殺さないからだよ。」

 囁くように、呟くようにそよ風のような力であいつは俺を突き落とす。本格的に辺りがオレンジに染まってきた中、いつもは青白いあいつの顔は燃えるように赤かった。おそらく俺も同じだ。

「早く殺してたらこんなことにはならなかったのに。大切な友達二人を傷付けずに済んだのに。」

「わざとか?俺に嫌がらせするために信也と圭を利用したのか?」

 無表情に俺を見つめる。無表情なのだが、俺には「当然でしょ」と言っているようにしか見えない。

 初めて知った。こいつ、本気だ。

「俺に殺してほしい。」そんな荒唐無稽な戯言のために、俺の生活習慣を乱すのみならず、中学から続く友情関係をめちゃくちゃに破壊したのか。

 適当にあしらっていればその内飽きて、付きまとったり変なこと言ったりするのも止めるだろうと考えていたのだ。極、常識的に。

 でももっと早く気が付くべきだった。三崎薫に対して、常識ほど役に立たないものはない、と。

 正直、殺意が湧いた。

 そうか、これだ。「カッとなってやりました」ってのを望んでいるのか。ふざけるな。これ以上めちゃくちゃにされて堪るか。お前がその気なら、俺は俺流の戦い方をする。

「分かった、お前の計画に協力するよ。」

 唐突な俺の言葉にあいつは戸惑っているみたいだった。

「お前を殺す計画。」

 自分が口にしていることがどれほど不可解で馬鹿げていることか、はっきりと自覚している。でもだめなのだ、こいつには正攻法では。

 薫は本当に嬉しそうに、おもちゃを買ってもらった子供のように笑った。

「とりあえず、今日はもう帰れ。」

 今の俺にはこれだけ言うのが限界だった。これ以上口を開いたら、必死に押さえつけている罵詈雑言が飛び出してきてしまうかもしれない。

「ありがとう!」

 そんな人の気も知らずあいつはベンチからぴょんと飛び降りて駆けていく。少し行ったところで大袈裟に俺に手を振っていた。

 逆上したら負け、あいつの思う壺だと理性で留めていたが、それでも行き場のない怒りは消えない。薫の姿が見えなくなった後、俺は公園のゴミ箱を思いっきり蹴った。こんなことをしたのは人生で初めてだった。



 俺と薫の攻防戦第二章が始まる。

 俺は自分の穏やかな生活と、引いては周囲のそれを守るため薫の軍門に下ることにした。 つまりは「俺が薫を殺す計画」に協力するという宣言をしたのだ。これでとりあえずは薫が俺に殺意を起こさせるためにとんでもない何かをする、ということはなくなっただろう。例えば俺の友達に故意に三角関係を仕掛ける、とか。信也と圭はというと、俺の仲介で一度話し合いの場を持った。青春映画のような殴り合いになるわけでもなく、淡々としたものだった。先に口を開いたのは圭で、そこは素直に謝った。信也も信也で、「まあ元々ノリで付き合ってた部分もあるし」と本音とも強がりとも取れないことを言っていた。わだかまりはまだ無くならないしまだ二人きりには出来ないけれど、まあそこは時間が解決してくれるだろう。

「薫、お前の計画に協力するのに一つ条件がある。」

 先日の宣言のために、こいつの俺への干渉はより大胆になった。結果、和気藹々と気の置けない男同士で過ごしていた昼休みまでこいつの支配下に置かれることとなってしまった。どうせ信也と圭が顔を合わせて昼食を食べられるようになるにはまだ時間がかかる。俺はどちらか一方だけと昼食を取るわけにもいかないから結果、三人ばらばらで食べることを選んだのだ。

「俺に殺されるまで、他の誰にも殺されるな。無論、お前自身にも。」

 元々不可解な馬鹿げた計画なのだ。だってそうだろう、誰かが自分を殺しに来るのを楽しみに待っているなんて。常識的に考えてそうだと分かってはいても、そんなの無意味なのだ。当のこいつが本気なのだから。だから俺も本気で、こいつが死ぬのを止めようと思う。こいつもある種の自殺志願者ならば、いつか気が付くかもしれない、「自分で自分を殺してしまったほうが早い」と。それだけは阻止しなければならないのだ。こいつが日頃から死にたがっていると知っていながらこいつが死ぬのを阻止できなかった、そんな間の抜けた男になどなりたくはない。だから俺が提示した条件は、薫のためであり、俺のためでもある。

「うん。別に私、自殺したいわけじゃない。」

 さも当然、といったように薫は軽く頷く。

「それから、」

「一つ、じゃなかったの?」

「次のも含めて一つだ。」

 あっそ、と目線だけで続きを促す。

「俺以外に『シバ』が現われたとしてもやっぱりこっちのシバが本物でしたってのはなしだ。」

 俺の親類も含め世の中にいる「柴」さんや「芝」さんに万が一こいつが遭遇したとき、俺の二の舞を生まないためにも。そしてその「シバ」さんが人を殺してみたいという欲求を持っていないとも限らないから。とにかく俺さえ殺さなければこいつは死なない、この確固たる状況がほしいのだ。

 俺のこの言葉には、先ほどの素直な反応は見られず、ちょっと首を傾げて言った。

「よく分かんないけど、あたしのシバは目の前にいるシバだけだよ。」

 表情も崩さず平気でこういうことを言ってしまう。照れている俺が馬鹿みたいだ。分かっている、こいつの言う言葉に特別な感情など入ってはいない。こいつにとっての「シバ」は「柴雅彦」という人の名ではなく、「自分を殺しに来る人という」抽象名詞のようなものなのだ。


「お前さ、こういう殺され方されたい、とかってあるわけ?」

 こいつと昼食をとる時は決まって人気のない場所を選んでいる。すると必然的に裏口前のベンチ、ということになる。人気がないのを良いことに、俺は好奇心から少し大胆な質問をしてみる。

「んー、殺され方なんて別に重要じゃない。」

 俺の隣でゼリー飲料のキャップを捻りながらあいつは答えた。

「でも人間、なるべく楽に逝きたいとか思うもんだろ?」

「めった打ち。」

「はあ?」

 驚いて隣を見ると、薫は今まさに昼食を飲まんとしているところだった。

「金属バットでめった打ちとか、どう?」

 俺の顔を見てか、それを中断して言葉を続ける。

「いや、どうとか言われても…ていうか今の俺の話完全に聞いてなかったよね?」

「出来るなら、ああ死ぬんだなって感じられる殺され方がいいかも。」

「何それ、お前M?」

「そんな単純な話じゃないの。」

「十分複雑だよ…。」

「シバにお任せ!いろいろ露呈しそうだね、趣味とかセンスとか性癖とか!」

 明るく気味の悪いことを言う。殺し方のセンスまで問う気なのかこいつは。


 週明けに提出のレポートを書いていると、昼間の会話が頭を過ぎったのか、ふと世の中には如何なる人の殺し方があるのか気になった。もちろん実行する気など毛頭ない。ただ知っておきさえすれば薫へのカモフラージュにもなる。画面のワードを一旦閉じて、インターネットを開く。有益無益の関係ないこの情報の海、「殺し方」で検索をかければおそらく夥しい数ヒットするのだろう。「殺し方」と打つには打ったのだが、どうしても最後のエンターを押す気にはなれない。俺の健全な「履歴」が穢されるのが嫌なのだ。正直なところ、グロテスクな画像が出てきてもらっても困る。迷いに迷ったあげく、俺は打った「殺し方」という文字を消して、代わりに「死に方」というワードで妥協することにした。打ち込んでエンターを押すと、やはりこれだけだと様々な方面からの「死に方」についての情報が出てきた。関連するキーワードに「楽な死に方」とか「苦しい死に方」とかさらに細分化したものが出てきたが、もうこの時点で俺の気は滅入っていたから、これ以上詳しくみるのは止めた。


 

 週に一度だけ、金曜日だけは五限のロシア語が被るため、薫と一緒に学校の門を出る。一緒に門を出るといっても、本当にそれだけでそこからはすぐ方向が違うため分かれる。

 いつもの様に門に向かって歩いていると大学構内では些か目立つ、ブレザーの制服にスクールバッグを持った男子高校生が入り口のモニュメントにもたれ掛かっていた。体験入学の時期でもないので、その高校生は周囲を通る学生たちの視線を受けては流すを繰り返している。しかし本人はそんな視線を気にすることもなく、ケータイをいじりながらもしきりに誰かを探しているみたいだった。 

 何となしに視線が合った、と思ったら即座に隣に移った。身軽にスキップするようにこちらに近づいてくる。隣を見遣ると、薫は目を見開きながらかたかた震えていた。あいつがたまに陥る現象だ。極度の興奮、緊張、もしくは恐怖がきっかけでこうなるみたいだけど、何度見ても怖い。おい、大丈夫か、と一応声をかけてやる。するとあいつは一瞬のうちに猛スピードでもと着た道を戻っていった。あ、と拍子抜けしたような声が俺の隣から漏れる。見遣ると男子高校生がさぞかし残念そうな顔で俺の隣に突っ立っていた。身長は俺と同じぐらいだろうか、男にしては目が大きく、顔は小さく女性らしい中性的な顔をしている。髪の毛は自然な茶色で猫毛なのが見て分かる。

「あの、彼女に何か用でした?」

 恐る恐る尋ねるとその男子高校生は俺の問いに返事をするわけではなく、徐にケータイを打ち出した。

「あ、兄ちゃん?また姉ちゃんがやらかしたよ。間違えた、やらかしてるよ。」

 そう一言だけ言うと、俺に視線を戻す。にこっと微笑まれた。

「自己紹介が遅れました、三崎(ゆずる)です。」

「三崎…薫さんの…?」

「弟です。」

 唖然。唯我独尊一人っ子タイプだと思っていた三崎薫には兄弟がいたのだ!

「あ、こっちは兄の(すぐる)です。」

 そう言ってまだ繋がったままのケータイを軽く上にあげる。

 三崎(すぐる)(かおる)(ゆずる)と、気持ちいいほどに「る」の韻を踏んだ三兄弟、正直俺は逃げ出したくなった。薫一人だけでも俺の周りは引っ掻き回されて修正不能に陥っているのだ。それが更に二人も増えてみろ、変に関わりでもすればきっと俺の抱える問題は今の三倍、いや三乗だ。

 薫弟は電話口で更に二言三言しゃべると、今度こそ電話を切って俺と向かい合った。

「まったく、連絡がつかなくてわざわざ学校まで来てみれば…あの、姉がいつもご迷惑かけてすみません。」

 そう言って勢いよく頭を下げた。咄嗟のことに俺は反応できない。薫弟がまともな常識人だと!?

「詳しいことは分かりませんが、想像はつきます。俺の顔見て逃げたってことは、きっとお兄さん、姉に追い回されているのでは?」

 すごい!さすが兄弟!とは思いつつも、出会ったばかりの弟さんに、「お宅のお姉さんのせいで毎日がめちゃめちゃです」などとはっきりは言えまい。なので俺はまあ、と言いつつ曖昧に笑って首を傾げるのみに留めた。

 その反応を見て弟くんは一つため息を吐いた。

「今に始まったことじゃないんです。自分の好きなもの、好きな人に一方的に執着して自分の妄想に巻き込むんだ…でもまあ昔の方がまだましだったかな…。」

 繊細な顔立ちの弟くんは遠い目をした。

「まあ、これも全て兄が結婚したせいなんですけどね。」

 話の飛躍とはまさにこのこと。三崎家の事情を全く知らない俺にとって、この発言をどう受け止めればいいかは悩みものだ。

「はあ?と言いますと?」

「すみません、長くなるので今日はこれぐらいで。」

 俺に返事する余地は与えず、ぺこりと会釈して踵を返した。香水でもつけていたのだろうか、バニラのような甘い香りがその場に残った。


 ひとりきりの帰り道、俺は薫弟が最後に残した言葉について考える。逃走した薫は気にせず学校に残してきた。

 これも全て兄が結婚したせいなんですけどね…これも全て兄が結婚したせいなんですけどね…どういう意味だ?あんまり考えたくはないが薫がブラコンで、兄のことが大好きで、でもそのお兄さんが結婚することになった…だから現実に絶望して…妄想で自分を殺してくれる相手を作り出して…そのとばっちりが俺にきたってわけか?昼ドラなみのドロドロっぷりだが、薫なら十分にありえる。考えれば考えるほどそうだと思えてきた。しかしこれを直接本人に訊いてみて良いものか。他人の触れられたくない場所に土足で踏み入る行為のように俺には思える。だが真相が気になる。なによりこの根本を薫自身が解決しなければこれからも苦しみ奇行に走るのはのはあいつなのだ。今ここであいつを止められるのは俺しかいない!

 一晩明けても俺の決意は揺らがなかった。ますます固くなったぐらいだ。

あいつには会おうと思わずとも向こうから会いに来るため、いくらでも話を切り出すチャンスはある。大切なのは場所とタイミング。プライバシーに関わる問題だ、そこは慎重に行こう。


「あのさ、昨日弟くんと少し話したよ。」

 みるみるうちに目が見開かれて肩が震えだすのが分かる。

「いや、大丈夫!詳しいことは何にも聞いてないから!」

 不用意に警戒させてはだめだ。落ち着かせて、リラックスさせて、薫の方から話してもらわなければ。半信半疑のような視線を向けられる。口を開く気はなさそうだ。

「お兄さんがどうとかって…」

 兄という言葉で過剰に刺激しないように気を使う。

「あいつは…私の天敵。」

 やはり!お兄さんの話題で口を開いた!お兄さんを愛しているのではないのか?いや、可愛さ余って憎さ百倍のパターンだなこれは。自分を裏切って結婚したと思っているに違いない。

「天使の顔した悪魔。」

 お兄さんの顔は見たことはないが薫と薫弟から察するに、きっと綺麗な顔をしているのだろう。

「ブラコン!」

 ん?待て待て待て!ここで更に弟くんも加わるのか!?兄弟の三角関係!?

「ごめん、ちょっと待って、付いていけない。なんでそこで弟くんが出てくるの?」

 この問いに薫の方が面食らった顔をした。

「何言ってんの?あたし最初から弟の話しかしてない。」

「え?」

 昨夜から俺の中で先走っていたシナリオが、音を立てて崩れ出した。

「じゃあ、『天敵』なのも『天使の顔した悪魔』もお兄さんじゃなくて、弟くんのこと?」

「シバ昨日、譲に会ったんじゃないの?」

「そうだけど…『全部兄が結婚したせい』なんて言うから俺はてっきりお前が極度のブラコンで…」

 この先はもう考えていたことが恥ずかしくて続かない。大人しく薫の口から真相を聞く事にする。

「ブラコンなのはあたしじゃない、譲だ。まあ確かにあたしも元ブラコンだけど。」

「え!?」

 あの典型的王子系の男子高校生がブラコンだとは誰が思おうか。

「あたし達のお兄ちゃん、俊はあたしの六つ上だから…今二十五。譲から見たらちょうど十歳違いなの。まあ歳の離れた兄弟だし、仲良くなるのは当然でしょ。」

 その「当然」の一線を越えてしまった理由はなんだ?

「物心ついたときからあたしと譲はお兄ちゃんの奪い合いしてたの。それが原因であたしは譲の首を気を失うまで絞めたことがあるし、譲はあたしを階段から落として気絶させたことがある。」

 なんだか想像できてしまうのが怖いところだ。

「それで、まあいろいろあってあたしは兄離れをしたんだけど、弟は出来ず終いで今に至るってわけ。今でもあたしに敵対心をむき出しにしてくるし。」

 いろいろ端折られた気もするが、言うべき言葉も見つからない俺を覗き込むように見てくる。

「『これも全て兄が結婚したせい』ってのは去年からのあいつの口癖。嫌なこととか都合の悪いことが起きたら大体これ。あ、お兄ちゃん去年結婚したの。」

 俺は三崎家の事情に片足突っ込んでしまっていいのだろうか。取り返しの付かないことにならなければいいが…。

「ふーん、男でもあの顔には騙されるのね。」

「ちょ、そういうんじゃねえし!」 

 ただ礼儀正しい青年に何かを臭わすような事を言われれば、変人のこいつよりそっちを信じてしまうは当然だろう。

「譲に引っかかるってことは、シバは俊にも引っかかるね。」

 意味深な言葉を意味深な顔で吐く。

 冷静に考えてみたら薫に摑まった時点で俺は、三崎家の人間には勝てないのかもしれない。


 それから約一週間が経った。俺の三崎家の家庭内事情だとかに対する興味が、やっと良い具合に薄れていた頃だった。

「兄が会いにくるって。」

「よかったじゃん。」

 俺は今日の昼飯であるカツサンドを開けるのに苦戦していた。

「シバに会いにくるんだって。」

 ケータイから視線を上げないまま、あいつはいつものようにウィダー・イン・ゼリーを口に運ぶ。

「え!?どういうこと!?」

「そういうこと。」

 にやりと笑う。

 薫弟と会った数日後、俺は訳の分からないまま今度は薫兄と会うという妙な約束を交わしてしまった。しかもお兄さんの強い希望ということで薫抜きで。曰く、「日頃妹がお世話になっているお友達に会っておきたい」そうだ。謎だ。

 五限の授業が終わると俺は早足に教室を出た。目立つモニュメントのある表口ではなく、極少数の生徒しか使わない裏口で会うこととなっていたので、いつもとは反対方向に歩を進める。薫曰く、シャイな人らしい。だがしかし、本当にシャイな人は妹の友達といきなり二人きりで会おうとは思わないだろう。裏口に近づくと、遠めに人が車の脇に立っているのが見て取れた。

 後姿の時点でスーツが恐ろしく似合う、背の高い大人の男性と言う感じだ。

「薫さんの…お兄さん?」

 俺の声にはっと振り向く。一瞬スローモーションで見えた。スーツをびしっと着こなす精悍な男性を想像したのだが、なんと表現すべきか、男性に対してしかも同じく男の俺がこんなことを言うのもおかしいが、たおやかだ。意外なことに三兄弟の中で、一番女性的な雰囲気というか、柔らかく近寄りやすい雰囲気を醸し出していた。顔だけ見ればもちろん女である薫や王道王子系の弟くんには敵わないかもしれない。だがこの人には、バリアがない、警戒心が薄い感じなのだ。もちろん容姿だけ取ってみても世間一般の男とは段違いにきれいな顔をしている。三崎家三兄弟に共通するのは色素が薄い猫毛と白い肌のようだ。お兄さんは繊細な銀フレームの眼鏡をかけていた。

 お兄さんに苦笑されて初めて、俺は失礼なほどまじまじとこの人を見ているということに気が付いた。

「あ、すいません。薫さんの友人の柴雅彦です。」

「薫がお世話になっています。兄の俊です。先日は譲までお世話になったそうで。」

「い、いえ、そんな大したことでは!」

 無意識に緊張していた。

「薫の悪い癖がまた出たと、弟に聞きましてね。」

 どうやらわざわざ大学まで来て薫抜きで俺と話したい理由はこれらしい。

「あの…一つのものに異常に執着して妄想に巻き込むという…?」

 呆れたような顔をして軽く頭を縦に揺らす。

「あ、でも弟の言うことも鵜呑みにしてはいけませんよ?あの子たちは昔から何だかそりが合わないみたいで反目し合ってますから。まあそれも一種の愛情表現なんでしょうけど。」

 はは、とお兄さんは軽く笑っているが本人たちはそれで死に掛けている。

「もちろん薫の言うことも鵜呑みにしちゃだめです。譲のことになると口が悪くなりますからね、あの子も。譲だってすごく良い子なんです。」

 何と返事をしたら良いか分からず、曖昧な沈黙が流れる。

「ほら、薫も譲もものすごく可愛いでしょう?兄としては心配事が尽きませんよ。」

 一瞬、猫のような目で見下された気がする。まあ身長差の関係で見下ろす形になってしまっただけか。

「小さい頃から二人とも私にくっ付いてばかりでね…それが何でこんなことに…こんな実家から離れて大学なんかに通うからいけないんだ…譲まで…」

「お、お兄さん?」

 お兄さんの視線は徐徐に下へ下へと落ちていき、俺はその表情を窺い知ることは出来なかったが、逆に見えなくてよかったような気がする。

「はい?」

 頭を上げればさっきと変わらぬ柔らかい雰囲気と笑顔だ。前髪を払う仕草が何とも優雅である。

「あのそれで…僕はどうしたらいいんでしょう…?僕もまさに薫さんの妄想に巻き込まれてるっていうか…その言いづらいんですけど…」

「ああ、そうでしたね。本当にうちの薫がご迷惑おかけします。」

 やっぱり俺の言わんとすることを理解してくれる分別ある大人である。頭の下げ方が薫弟にそっくりだった。

「どうぞそのまま巻き込まれていて下さい。」

「はい?」

「あの子の気が済むように。」

 そう言うと花が綻ぶような柔らかい笑顔を見せた。自分の魅力を十分に理解している人間の笑い方である。そうと分かっていても人はそれに魅了される。

 俺は、はあ…と音にもならない返事をした。

「傷付けたりしたら許しませんよ、薫も譲も。」

 では失礼、と春風でも吹くかのようにお兄さんは颯爽と身を翻して、至って紳士的に車に乗り込みその場を後にした。

 どの言葉を持ってしても足りないようなこの頭の中の混乱を、俺は一体何と表現したらいいのだろうか。薫兄が俺に会いにきて、談笑して、謝まって、忠告して帰っていった―。それだけのことと言えばそれだけのこと。違う、最近の俺は変人の空気に馴染みすぎて感覚が鈍くなっているのだ。おかしい、明らかに薫兄はおかしい!慣れている分、もしかしたら三兄弟の中で薫が一番まともなのかもしれない。いや、そんなことがあってたまるか。こうして不本意にも三崎三兄弟全員と顔見知りになってしまった俺は、薫の分かりやすい「束縛」に加え、薫兄、薫弟とダブルの見えない「威圧」に苦しむこととなった。

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